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第8話 家族の定義

挿絵(By みてみん)

 

 甘やかな夢のような銀座での一日は終わり、現実は冷酷な足音と共にやってきた。


 翌朝。

 いつものように路地裏でツナマヨおにぎりを開封していたヒミコの前に、黒い壁が立ちはだかった。

 昨日までの、奇跡を求める熱狂的な行列ではない。

 綺麗に磨き上げられた革靴と、仕立ての良いダークスーツ。

 そして、無機質な制服を着た数名の警察官。


「……ここかね。例の少女がいる場所は」


 ハンカチで鼻を押さえながら前に出てきたのは、神経質そうな細身の男だった。

 九条。厚生労働省の児童福祉担当官であり、先日ヒミコが屈服させた天導教授とも繋がりのある、政府側の人間だ。


「おいおい、なんだよあんた達。まだ営業前だぞ」


 ゲンが立ち上がり、ヒミコを庇うように前に出る。

 だが、九条はゲンを一瞥すらしなかった。彼にとって、目の前のホームレスは路上のゴミ袋と同等の存在でしかないようだった。


「君がヒミコさんだね」


 九条は、しゃがみ込んでヒミコと視線を合わせた。その目は笑っているが、奥底には爬虫類のような冷たさが潜んでいる。


「私は国から来た者だ。君を保護しに来た」


「ほご?」


「そうだ。こんな不潔で、病原菌が蔓延るような場所に、未成年の少女を置いておくわけにはいかない。これは虐待だよ」


 九条が大げさに腕を広げ、薄汚れたコンクリート壁や、散乱した古新聞、そして近くのゴミ捨て場を指差す。


「見てごらん。ここは人間の住む場所じゃない。ネズミの巣だ。君には、もっと清潔で、安全な施設ラボが用意されている」


 施設。

 その言葉が出た瞬間、ヒミコの肩が微かに強張った。

 彼女の脳裏に、あの白い無機質な研究室の記憶がフラッシュバックする。


「……嫌」


「わがままを言うんじゃない。君のためを思って言っているんだ」


 九条が強引にヒミコの細い腕を掴もうとする。


「待てよ! 嫌がってるじゃねぇか!」


 ゲンが割って入ろうとするが、背後に控えていた警察官二人に即座に取り押さえられた。

 地面に顔を押し付けられるゲン。


「放せ! 俺はこの子の……!」


「黙りたまえ、浮浪者」


 九条が冷たく吐き捨てる。


「君には未成年者略取誘拐の容疑がかかっている。どのみち、この子とはこれでお別れだ。……さあ、行こうか。まずはその汚れた体を消毒しないとね」


 九条の指が、ヒミコの肩に触れようとした、その時。


「……汚れてない」


 ヒミコが、静かに、けれど明確に拒絶した。


「は?」


「私は、汚くない。汚れているのは、あなたのほう」


 ヒミコがゆっくりと立ち上がった。

 その銀色の瞳が、淡い光を帯び始める。

 彼女は自分の身体と、そしてこの薄汚れた路地裏全体を認識し、世界に干渉する術式を編み上げた。

 それは彼女が研究室で、自身の体を実験の痕跡から消去するために習得した、純粋な現象操作。


「――『浄化クリーン』」


 掌から、波紋のような光が広がった。


 それは、音のない爆発だった。

 ヒミコを中心に広がった光のドームが、路地裏の空間を塗り替えていく。

 長年蓄積されたアスファルトの黒ずみ、染み付いた油汚れ、ゴミ捨て場からの腐臭、空気中を漂う埃やウイルスに至るまで。

「汚濁」と定義されたすべてが、分子レベルで分解され、消滅していく。


「な、んだ……!?」


 九条が目を覆う。

 光が収まった時、そこにあったのは、新宿の路地裏ではなかった。


 コンクリートは打ちたてのように白く輝き、空気は高原の朝のように澄み渡っている。

 古新聞はパリパリの新品のように再生され、何よりヒミコ自身が、発光するほどに清浄な存在へと昇華されていた。

 髪の一本一本が銀糸のように煌めき、肌からは高級な石鹸のような香りが漂う。


 あまりの清浄さに、逆に九条たちの革靴についた泥汚れや、彼らの整髪料の脂っこい匂いが、異物として際立ってしまった。


「……ここは、私の家。手術室よりも綺麗にした。文句ある?」


 ヒミコが小首を傾げる。

 その圧倒的な「無菌の聖域」の前に、潔癖症の九条すらも言葉を失った。

 衛生面での難癖は、物理的に消滅させられたのだ。


「ば、馬鹿な……魔法で掃除をしたとでも言うのか……」


 九条は狼狽えながらも、すぐに別の武器を持ち出した。

 彼は官僚だ。論理と法律こそが彼らの最強の武器である。


「だ、だが! 衛生面がどうあれ、君には保護者がいない! 戸籍もない子供が一人で生きていける国ではないんだ!」


「いる」


「何?」


「家族なら、そこにいる」


 ヒミコが指差したのは、警官に押さえつけられているゲンだった。


 九条は一瞬呆気にとられ、そして鼻で笑った。


「ハッ、冗談も休み休み言いたまえ。そのホームレスがか? 血縁もない、職もない、住所もない男が家族? 法的に認められるわけがないだろう!」


 九条は侮蔑を隠そうともせず、地面に這いつくばるゲンを見下ろした。


「君は、ただこの男に利用されているだけだ。……おい、連行しろ。その男は公務執行妨害で逮捕だ」


「やめろ……!」


 ゲンが呻く。

 悔しさが歯を食いしばる音となって漏れる。

 そうだ、役人の言う通りだ。俺は無力なゴミだ。

 かつて、仕事にかまけて妻と娘を事故で失ったあの日から、俺はずっとゴミだった。

 何も守れない。誰も救えない。

 ヒミコのような光り輝く子供と一緒にいていい人間じゃないんだ。


「ヒミコ……行け……。俺と一緒にいたら、お前まで『汚れ物』扱いされちまう……」


 ゲンが目を伏せ、諦めの言葉を吐いた時。

 小さな手が、ゲンの泥だらけの手を握りしめた。


「……汚れ物じゃない」


 顔を上げると、ヒミコが、警官たちを睨みつけていた。

 その瞳には、初めて明確な「怒り」が宿っていた。


「ゲンさんは、私におにぎりをくれた。名前を呼んでくれた。居場所をくれた。……それを汚いと言うなら、私はこの先、誰一人として治さない」


「な……ッ」


 九条が息を呑む。

 それは、世界に対する脅迫だった。

 この少女は、自分を「保護」しようとする国家よりも、一人のホームレスを選んだのだ。


 ヒミコの小さな背中。

 震えながらも、大人たちに立ち向かうその姿が、ゲンの網膜に焼き付いた。


 ――パパ、また逃げるの?


 死んだ娘の声が、脳内でリフレインする。

 俺はまた、失うのか。

 法という理不尽な暴力の前に、一番守らなきゃいけないものを差し出して、自分だけ安全な泥の中に隠れるのか。


(……ふざけるな)


 身体の奥底で、錆びついていた歯車が、悲鳴を上げながら回転を始めた。

 泥だらけのスーツ。伸び放題の髭。

 だが、その内側にある「魂」が、急速に形を変えていく。


「……放せ」


 ゲンが低く呟いた。

 警官が思わず拘束を緩めるほどの、鋭利な気迫がそこにはあった。


 ゲンはゆっくりと立ち上がった。

 背筋を伸ばし、汚れた上着の襟を直す。

 その所作一つで、彼が纏う空気が一変した。

 そこにいるのは、ただのホームレスではない。

 かつて、数多の凶悪事件や企業訴訟を勝ち抜き、検察官たちを震え上がらせた「伝説の弁護士」源田げんだの姿が、幻影のように重なった。


「……九条さん、と言ったな」


 ゲンが九条を見据える。

 その眼光の鋭さに、九条がたじろいだ。


「あ、ああ。だから何だ」


「あんた、今、『法的に認められない』と言ったな」


 ゲンはヒミコの肩に手を置き、守るように前に出た。


「児童福祉法第二十八条に基づく強制措置だと言うなら、家庭裁判所の承認が必要なはずだ。あんたが持っているのは緊急一時保護の令状だけだろう。だが、ここには『事実上の養育者』である俺がいる」


「よ、養育者だと? ふざけるな、君のような浮浪者に……」


「浮浪者ではない」


 ゲンは一喝した。

 その声は、路地裏の壁をビリビリと震わせるほどによく通った。


「俺は、彼女の代理人であり、保護責任者だ。住居がない? 今から確保する。職がない? 自営業だ。彼女との関係性? 精神的な親子関係が成立している」


 矢継ぎ早に繰り出される法的な抗弁。

 九条は、目の前の男の変貌ぶりに混乱していた。

 ただのゴミだと思っていた男が、自分たちと同じ、いやそれ以上の「言葉ロジック」の使い手であることに気づき始めたのだ。


「あんたたちが権力を笠に着て、彼女の意思を無視して連れ去ろうとするなら……俺は全力で抗うぞ。国家賠償請求訴訟、行政不服審査法、使える手は全部使う。マスコミも動かす。あの『天導教授』も証人に呼んでやる」


「な、なんだ君は……一体、何者なんだ!」


 九条が悲鳴のような声を上げる。

 ゲンは、ニヤリと不敵に笑った。その笑顔は、ヒミコが初めて見る、頼もしく、そして少し危険な大人の男の顔だった。


「ただの、ヒール屋の店員さ」


 ゲンは九条に指を突きつけた。


「一週間だ」


「……は?」


「一週間待て。それまでに、役所がぐうの音も出ない『完璧な環境』と『完璧な保護者』を用意してやる。それなら文句ねぇだろ」


 九条はギリリと歯噛みした。

 今の気迫、そしてヒミコ自身の拒絶。ここで強引に事を進めれば、世論を敵に回しかねない。

 一旦引き下がり、外堀を埋めてから確実に狩るべきだ。官僚としての計算が働いた。


「……いいだろう。一週間だ」


 九条は捨て台詞を吐き、踵を返した。


「だが忘れるな。期限を過ぎれば、強制執行だ。その時は、君もただでは済まないぞ」


 黒いスーツの集団が去っていく。

 路地裏に、再び静寂が戻った。


 緊張が解け、ゲンが大きく息を吐いて膝をつく。

 その背中に、ヒミコが抱きついた。


「ゲンさん……」


「……悪かったな、ヒミコ。怖がらせちまって」


 ゲンは、震える手でヒミコの白い髪を撫でた。


「決めたよ。俺はもう逃げねぇ」


 ゲンは立ち上がり、路地裏の出口――その先にある、まともな社会を見据えた。


「お前の稼ぎ、全部俺に投資しろ。一週間で、お前を『お姫様』にするための城と、最強の執事を用意してやる」


 ヒミコは、ゲンを見上げ、花が咲くように笑った。


「うん。……契約成立」


 不潔な路地裏から始まった二人の物語は、ここで終わりを告げる。

 次は、国をも黙らせる「最強の治療院」の始まりだ。


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