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第9話 贖罪の雨

挿絵(By みてみん)

 

 深夜の路地裏は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

 室外機の低い駆動音だけが、BGMのように響いている。

 その一角、古新聞で作られた寝床で、ヒミコは小さな身体を丸めて眠っていた。

 その寝顔は、世界を敵に回して「家族」を守ろうとした数時間前の少女とは別人のように、無防備で幼かった。


 ゲンは、そんな彼女を起こさないよう、音もなく立ち上がった。

 手には、ゴミ捨て場から拾ってきた割れたカーブミラーの破片と、コンビニで買った安物のT字カミソリ。

 彼は近くの水道で顔を濡らすと、鏡の中の自分と向き合った。


 伸び放題の髭。垢じみた肌。濁った瞳。

 そこに映っていたのは、新宿の底で腐りかけていた「ゲン」という抜け殻だった。


「……久しぶりだな、負け犬」


 ゲンは自嘲気味に呟き、カミソリを肌に当てた。

 ジョリ、という乾いた音が闇に響く。

 一剃りするごとに、薄汚れたホームレスの仮面が剥がれ落ちていく。

 その下から現れるのは、かつて法曹界で「無敗の鉄仮面」と恐れられた男――源田壮一郎げんだ そういちろうの顔だった。


 ◇


 かつて、俺の世界は完璧だった。

 大手法律事務所のパートナー弁護士。年収は数億。都内のタワーマンションと、美しい妻、愛らしい一人娘。

 だが、その全ては砂上の楼閣だった。


『パパ、今度の週末、遊園地行く約束だよ?』


「ごめん、愛理あいり。急な案件が入ったんだ。また今度な」


『……うん、わかった。お仕事がんばって』


 娘の寂しそうな声を、俺は何度無視しただろうか。

 俺にとって「守る」とは、金を稼ぎ、社会的地位を確立することだった。家族と過ごす時間は、成功への過程で切り捨ててもいいコストだと勘違いしていた。


 あの日。

 珍しく取れた休日に、俺たちは家族旅行へ向かっていた。

 雨の高速道路。ハンドルを握っていたのは俺だ。

 助手席には妻が、後部座席には愛理が乗っていた。

 車内には久しぶりの笑い声が溢れていたはずだった。


 ブブブブッ。


 コンソールに置いたスマホが震えた。クライアントからの緊急連絡。

 俺は反射的に、視線を前方からスマホへと落とした。

 たった、一秒。

 その一秒が、永遠の地獄への入り口だった。


 スリップ。制御不能になった車体。

 妻の悲鳴。ガラスが砕ける音。鉄がひしゃげる轟音。

 そして、世界が反転する浮遊感。


 次に目を覚ました時、俺は病院の白い天井を見上げていた。

 医師は沈痛な面持ちで告げた。

 妻と娘は即死だった、と。

 そして俺自身は、右足を複雑骨折し、二度と杖なしでは歩けない身体になった、と。


『あなたが運転していたんですね?』


 警察官の事務的な問いかけが、処刑宣告のように響いた。

 俺が殺した。

 仕事にかまけ、家族を蔑ろにし、最後の最後でさえスマホを見た俺が、二人を殺したのだ。


 右足の激痛は凄まじかった。

 だが、俺はその痛みを歓迎した。

 もっと痛め。もっと苦しめ。

 それが、二人を殺して生き残ってしまった俺への、唯一の「罰」だと思ったからだ。


 俺は全てを捨てた。

 弁護士バッジをドブに投げ捨て、資産を放棄し、新宿という掃き溜めへと逃げ込んだ。

 名前も過去も捨て、「ゲン」という肉塊になって、ただ死ぬのを待っていた。

 右足の痛みが、俺に生きている罪を思い出させてくれる間だけ、俺は辛うじて息をしていた。


 ◇


 あの日も、雨が降っていた。

 数日前。空腹と足の痛みで意識が朦朧としていた俺の視界に、白い影が入ってきた。

 路地裏の奥、室外機の隙間に、ずぶ濡れの検査着を着た少女がうずくまっていた。

 ヒミコだった。


 その姿を見た瞬間、俺の心臓が早鐘を打った。

 年格好が、あの日死なせてしまった愛理と重なったからだ。

 捨てられた子猫のような、世界に絶望しきった銀色の瞳。

 放っておけ、と理性が言った。関われば面倒なことになる。

 だが、身体は勝手に動いていた。


 俺は懐から、コンビニの廃棄ボックスから拾ってきたおにぎりを取り出した。

 ツナマヨ。賞味期限は切れているが、俺にとっては最高のご馳走だった。

 最後の一個。これを食わなきゃ、俺は明日死ぬかもしれない。

 それでも、俺はそのおにぎりを差し出していた。


「……食うか? 腹に入りゃ一緒だろ」


 震える小さな手が、おにぎりを受け取った。

 彼女がそれを口に運び、咀嚼する姿を見た時、俺の中で何かが崩れ落ちた。

 ああ、俺は。

 俺は、愛理におにぎり一つすら、満足に作ってやったことがなかった。


『……あったかい』


 少女が呟いたその言葉は、おにぎりのことだったのか、それとも別の何かなのか。

 ただ、その一言で、俺の腐っていた魂の端っこが、少しだけ救われた気がしたのだ。


 そして、あいつは俺の足を治した。

 一万円の対価だと言って、俺の右足に手を触れた。

 光が溢れ、十年続いた「罰」の痛みが、嘘のように消え去った。


 俺は狼狽えた。

 痛みが消えることは、許しを意味するのか?

 俺はもう、自分を責めることすら許されないのか?


 だが、ヒミコは言った。


『契約成立』だと。


 その真っ直ぐな瞳は、「過去を嘆く暇があるなら、その足で立て」と告げているようだった。

 俺はこの足で、再び地面を踏みしめた。

 痛みは消えた。代わりに残ったのは、鉛のように重い「借り」だった。

 命を拾われた。

 なら、その命の使い道は、もう一つしかないだろう。


 ◇


「……ふぅ」


 剃り残しがないか、指先で顎を撫でる。

 鏡の中の男は、もう死に場所を探すホームレスではなかった。

 眼光は鋭く、口元は固く引き結ばれている。

 そこにいたのは、かつて司法の場を戦場とし、あらゆる敵を屠ってきた「源田壮一郎」だった。


 ゲンは、眠っているヒミコの方を振り返った。

 彼女は愛理ではない。わかっている。

 だが、この小さな手は、俺に生きる意味をくれた。

 冷たい雨の中で凍えていた俺に、生きろと言ってくれた。


「……見ててくれ、愛理」


 ゲンは夜空に向かって、誰にも聞こえない声で呟いた。


「パパはもう、逃げない。この子は、俺が絶対に守り抜く」


 ゲンは上着の内ポケットから、捨てずに持っていた古いスマートフォンを取り出した。

 画面は蜘蛛の巣のようにひび割れている。

 電源ボタンを長押しする。

 数秒のラグの後、バッテリー残量ギリギリで画面が点灯した。


 アドレス帳を開く。

 そこには、かつての部下、恩義を売った探偵、裏社会の情報屋、そして借りを返していない政治家秘書たちの名前が並んでいた。

 死んだと思っていた男からの連絡。亡霊からの電話に、彼らは震え上がるだろうか。


 ゲンはニヤリと笑い、通話ボタンを押した。


「……よう。俺だ、源田だ」


 深夜の静寂に、低く、威圧的な声が響く。


「地獄から戻ってきたぜ。……大至急、仕事の時間だ。最高級の物件と、国家権力すら手出しできない最強の警備を手配しろ。金ならある。……ああ、『聖女』様のポケットマネーだ」


 伝説の弁護士が、たった一人の少女を守るために、再びこの街で牙を剥く。

 一週間後の期限。

 その時、役人どもは思い知るだろう。

 一万円の魔法使いと、無敗の弁護士。この二人が組んだ時、不可能なことなど何一つないということを。


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Xより参りました。 冒頭部を拝読させて頂き、いちばん強く感じたのは、作者様が描こうとしているのは単なる「奇跡の少女の大活躍」ではなく、人間が人間として生きるとはどういうことか、そして誰かを救うとはど…
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