第78話 大統領の天秤と、戦略的撤退
ワシントンD.C.、ホワイトハウス。
深夜のオーバルオフィス(大統領執務室)には、重苦しい沈黙と、胃を焼くような焦燥感が立ち込めていた。
「……大統領。ウォール街からの抗議の電話が鳴り止みません。さらに、西海岸のIT企業群も一斉に政権への献金を停止する構えを見せています」
首席補佐官の報告を聞きながら、アメリカ合衆国大統領クローバーは、手元のデータシートを忌々しげにデスクへ放り投げた。
そこに記されているのは、急転直下で暴落を始めた政権支持率と、『魔法医療禁輸措置』によって治療予約を凍結された政財界の重鎮たちのリストである。
「中間選挙を前に、あの五十パーセントの追加関税は『強いアメリカ』をアピールする絶好のカードだったはずだ。それが、たった一人の日本人の宣言で、国ごと喉首を締め上げられるとはな……」
窓の外からは、夜通し続くデモ隊の怒号が地鳴りのように響いてくる。
彼らは皆、金で買えない『命の保証』を取り上げられたことでパニックに陥っていた。どれほど核兵器や最新鋭の軍隊を持っていようと、死の恐怖の前では一人の人間に過ぎない。アメリカという超大国の覇権が、得体の知れない『魔法』という力の前で音を立てて崩れようとしていた。
「大統領、ここは強気に出るべきです! 日本の一民間人に屈して関税を撤回し、謝罪などすれば、保守層の票は完全に離れます。政権は終わりです!」
「馬鹿を言え! このまま禁輸措置が続けば、国内の富裕層や高齢層が見殺しにされるんだぞ! 世論の怒りはすでに限界だ!」
怒鳴り合う側近たちを「黙れ」と一喝し、クローバー大統領はひどく疲労した顔でこめかみを揉んだ。
そこへ、極秘の暗号通信回線が繋がり、モニターに日本にいる特使ハワードの顔が映し出された。
『――大統領。彼らからの最終回答をお伝えします』
ハワードの口から語られた源田の要求は、クローバーの予想を遥かに超える冷酷で完璧なものだった。
過去の米軍による襲撃の公式謝罪。関税の即時撤廃。そして、大統領自身の来日と直接の謝罪。
その屈辱的な内容に、側近たちは「ふざけるな!」と激昂したが、クローバー大統領は違う部分で背筋に冷たい汗をかいていた。
「……『同盟』と、『魔法学院の一枠』だと?」
『ええ。条件を飲めば、現在建設中の学院にアメリカ専用の入学枠を一つ用意すると。源田はそう言いました』
クローバー大統領は、世界を動かす為政者としての嗅覚で、即座にその『一枠』が持つ絶望的なほどの価値を理解した。
治療を受けるだけの客から、魔法の使い手を自国で育成できる側へ回る権利。それは数年後、いや十数年後の世界の軍事・医療バランスを決定づける『神の椅子』に他ならない。
(知性の化け物め……)
大統領は、画面の向こう側にいるであろう源田という男の底知れぬ眼光を想像し、戦慄した。
あの男は、目の前の中間選挙などというちっぽけな盤面を見ていない。数十年、百年先のアメリカの国家存亡をチェス盤に乗せ、自分に『王手』を突きつけてきているのだ。
もしここで矜持を守って謝罪を拒否すれば、目先の選挙には勝てるかもしれない。だが、その間に他国に『魔法枠』を奪われれば、アメリカは間違いなく二流国家へと転落する。
「……ハワード。その『一枠』の選定権は、アメリカ側にあるのか?」
『いえ。すでに源田たちの側から、最初の一人が指名されています』
「誰だ。政権への忠誠が確かな者でなければ……」
『私の娘、アリスです』
その言葉に、オーバルオフィスの空気が凍りついた。
『政治的な意図はありません。ただ、ヒミコが「アリスちゃんとお勉強したい」と。純粋に、友達として娘を指名したんです』
クローバー大統領は、深く、長く息を吐き出した。
国家の覇権を懸けた血みどろの駆け引きの決定打が、一人の少女の「友達と一緒にいたい」という、何の計算もない純粋な願いだったという皮肉。
その圧倒的なまでの『規格外』の光の前に、彼は大統領としての強がりを捨て去った。
「……負けだ。我々の完全な敗北だよ」
「だ、大統領!? まさか、謝罪に行くおつもりですか!?」
慌てふためく側近たちを手で制し、クローバー大統領はゆっくりと立ち上がった。その瞳には、先ほどまでの焦燥感は消え、超大国のトップとしての重く冷徹な覚悟が宿っていた。
「これは屈服ではない。未来のアメリカの子供たちに、魔法という炎を繋ぐための『戦略的撤退』だ。……私の代で泥を被るのも、大統領の仕事というやつだろう」
大統領は、ネクタイを締め直しながら静かに命じた。
「エアフォースワン(大統領専用機)の準備を急がせろ。日本へ向かう」
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