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第7話 甘すぎる聖域

挿絵(By みてみん)

 

 怒涛のような一日が明け、新宿の路地裏には、つかの間の平穏という名の空白が訪れていた。

 昨日の「医学の敗北」という大事件の影響で、逆に周囲が様子見に入ったのか、あるいは警察による一時的な規制線が張られたのか、今のところ行列は途絶えている。


「……あー、腰が痛ぇ。昨日は地獄だったな」


 ホームレスのゲンが、室外機にもたれかかりながら呻いた。

 交通整理、野次馬の排除、そして偉そうな医者たちの相手。彼の仕事量は、もはや一介の協力者の枠を超えていた。


 その横で、渦中の本人であるヒミコは、相変わらず古新聞の上にちょこんと座っていた。

 膝の上には、もはや彼女のトレードマークとなったコンビニの白いビニール袋。

 今日の具は「おかか」だ。


「……しょっぱい」


 ヒミコは小さく呟き、おにぎりの角を齧る。

 彼女にとって、昨日の騒動も、自分が世界的な権威を屈服させたことも、この醤油の塩気の前では些細な出来事に過ぎなかった。


 そんな、ゴミと排気ガスと醤油の匂いが漂う路地裏に、不釣り合いなほど華やかな香水の香りが流れ込んできた。


「ちょっとアンタたち! いつまでそんなシケた顔してんのよ!」


 ヒールの音を高く鳴らして現れたのは、ヒミコが救ったキャバクラ嬢、レイナだった。

 夜の仕事着であるドレスではない。今日はオフなのだろう、ハイブランドのロゴが入ったオーバーサイズのパーカーに、タイトなミニスカート、そしてサングラスという、いかにも「新宿のイイ女」といった出で立ちだ。


「……レイナ?」


「そ! 来てあげたわよ、命の恩人様のために」


 レイナはサングラスをずらしてウインクすると、ヒミコの薄汚れた検査着を指差して眉をひそめた。


「ていうかさ、アンタお金持ってるんでしょ? いつまでそのボロボロの服着てんのよ。見てて可哀想になってくんだけど」


「この服は、機能的。通気性がいい」


「冬にその通気性は死ぬでしょ! ほら、行くわよ!」


 レイナはヒミコの腕を強引に掴み、立ち上がらせた。

 食べかけのおにぎりが落ちそうになり、ヒミコが慌てる。


「どこへ?」


「決まってんでしょ。女の子の休日プロデュース! 美味しいもん食べて、可愛い服買って、アンタを『人間』にしてあげるの!」


「にんげん……」


「そう! おにぎりばっか食ってる妖怪から卒業すんの! おじさん、こいつ借りてくからね!」


「え、あ、おい……」


 ゲンの静止も聞かず、レイナはヒミコを引きずって路地裏を出て行った。

 黒塗りのタクシーを捕まえ、行き先を告げる。

 その場所は、新宿の雑踏とは対極にある、洗練された大人の街だった。


「銀座まで」


 ◇


 銀座。

 整然と並ぶ高級ブランド店、磨き上げられた石畳、そして上品な人々が行き交う街。

 ヒミコにとって、その光景は新宿のネオンよりも異質だった。

 色彩が落ち着いている。騒音がない。空気すらも高い香りがする。


「まずは形から入るわよ」


 レイナが連れてきたのは、ショーウィンドウに宝石のような子供服が飾られた、老舗の高級ブティックだった。

 入店した瞬間、店員が一瞬だけヒミコの汚れた検査着を見て表情を強張らせたが、すぐにレイナの「全身トータルで頼むわ。予算は気にしないで」という一言とブラックカードを見て、最上級の笑顔に切り替わった。


 試着室という名の個室に押し込まれ、されるがままに着せ替え人形となるヒミコ。

 数十分後。

 カーテンが開かれた時、そこにいたのは「薄汚れた家出少女」ではなかった。


「……うっわ。マジか」


 レイナが息を呑んだ。

 ヒミコが身に纏っていたのは、純白のシルクとレースをふんだんに使った、クラシカルなワンピースだった。

 足元は白いタイツに、エナメルのストラップシューズ。

 銀色の髪は丁寧にブラッシングされ、ドレスと同じ純白のリボンで結われている。


 その姿は、絵本から飛び出してきた妖精か、あるいはどこかの国の亡命王女か。

 ヒミコの持つ浮世離れした美貌が、上質な衣服によって完璧に引き出されていた。


「……動きにくい」


 当のヒミコは、ふわりと広がるスカートの裾を摘み、不満げに眉を寄せた。


「布が多すぎる。これでは走れないし、防御力も低い気がする」


「バカねぇ、防御力なんて捨てて可愛さに全振りすんのよ! 最強じゃん、超可愛い! 写真撮らせて!」


 レイナが興奮気味にスマホを向ける。

 店員たちも、仕事の手を止めてうっとりと見惚れていた。

 ヒミコはレンズを向けられ、無表情のまま小さくピースサインを作った。レイナに教えられたばかりの「現代の魔除けのポーズ」だ。


 ◇


 服を整えた後は、食事だ。

 レイナが予約していたのは、一ヶ月待ちが当たり前という高級フルーツパーラー。

 大理石のテーブルに案内されたヒミコは、周囲の客層――着物を着た上品な婦人や、商談中のビジネスマンたち――を見て、少しだけ身を縮めた。


「ここは、病院?」


「違うって。ほら、来たわよ」


 店員が恭しく運んできたものを見て、ヒミコの目が点になった。


「……特選イチゴと淡雪のタワーパフェでございます」


 それは、食べ物というよりは建築物だった。

 グラスからはみ出すほど積み上げられた真っ赤なイチゴ。その隙間を埋める真っ白な生クリームとアイス。頂上には繊細な飴細工が王冠のように飾られている。


 ヒミコは、テーブルに置かれた長いスプーンを手に取り、その「塔」を真剣な眼差しで観察し始めた。


「これは……何かの魔法触媒? それとも儀式用の供物?」


「ただのデザートだってば」


「構造が不安定すぎる。どこから崩せばいい? 下から崩すと倒壊するリスクがある。やはり頂点の結晶体(飴細工)から破壊すべきか……」


 ブツブツと物理演算を始めるヒミコに、隣の席のマダムたちがクスクスと笑い声を漏らす。

 ヒミコは意を決して、飴細工を手掴みしようとした。


「ストップストップ! 手でいかないの!」


 レイナが慌てて止める。


「ほら、スプーン貸して。こうやって、すくうの。……はい、あーん」


 差し出されたスプーンには、イチゴとクリーム、そしてアイスが絶妙なバランスで乗っている。

 ヒミコは警戒するように匂いを嗅ぎ、それから恐る恐る、小さな口を開けてそれを迎え入れた。


 瞬間。

 ヒミコの銀色の瞳が、カッ、と見開かれた。


「……んッ!?」


 脳髄を直接揺さぶるような甘味。

 完熟イチゴの酸味と、濃厚なクリームのコクが口の中で溶け合い、爆発する。

 おにぎりの「安心する味」とは違う。これは「攻撃的な味」だ。快楽中枢を強制的に刺激する、暴力的なまでの幸福感。


「……どう?」


 レイナがニヤニヤしながら尋ねる。

 ヒミコは、口の端にクリームをつけたまま、呆然と呟いた。


「……脳が、溶ける音がした」


「あはは! でしょ!」


「甘い。冷たい。でも、温かい。……これが、一万円の味?」


 ヒミコはスプーンを奪い返し、今度は自分でパフェに挑み始めた。

 不器用な手つきでクリームをすくい、口へ運ぶ。

 一口食べるたびに、無表情だった聖女の仮面が剥がれ落ち、年相応の少女の顔が覗く。


「おいしい……」


 その一言を聞いたレイナは、満足そうに頬杖をついた。

 そして、ティッシュを取り出し、ヒミコの口元の汚れを優しく拭ってやる。


「アンタさ、いっつも大人みたいな顔して『契約』だの『治癒』だの言ってるけど。中身はただの12歳なのよね」


「……わたしは、ナンバー135」


「今はヒミコでしょ。美味しいもの食べて、可愛い服着て、笑ってりゃいいのよ」


 レイナの手の温もりが、クリームの甘さと共にヒミコの胸に染み渡る。

 研究所では、誰もこんな風に触れてはくれなかった。父様でさえ、ここまで近くにはいなかった。


「……レイナは、やさしい」


「はん、営業トークよ。……ま、妹みたいで放っとけないだけ」


 レイナは照れ隠しのように視線を逸らし、自分のアイスコーヒーを飲んだ。


 ◇


 楽しい時間はあっという間に過ぎる。

 夕暮れ時。両手にブランドの紙袋を提げたヒミコは、レイナと共に店の外へ出た。


「さて、送ってくわよ。シンデレラタイム終了ね」


「待って」


 ヒミコが足を止める。

 その視線は、向かいにある高級和菓子店と、おにぎり専門店に向けられていた。


「ゲンさんに、お土産」


「あー……あのホームレスのおっさん?」


「ゲンさんは、私のパートナー。美味しいものは、分けないといけない」


 ヒミコの真剣な眼差しに、レイナは苦笑して肩をすくめた。


「律儀ねぇ。……パフェは持って帰れないから、こっちにしな。あそこのおにぎり、一個五百円するけど超絶品よ」


「五百円……! コンビニの三倍……!」


「あと、その和菓子屋のどら焼き。金粉入ってるから、おっさんもビビるわよ」


 ヒミコは頷き、今日稼いだばかりの一万円札を握りしめて店へと入っていった。

 自分の服を選ぶ時よりも真剣な顔で、ショーケースの中を吟味する。


 ◇


 新宿、路地裏。

 すでに日は落ち、室外機のファンが回る音だけが響いている。

 ゲンは、古新聞の上に座り、冷えたコンビニ弁当を突っついていた。


「……遅ぇな、あいつ。まさか誘拐されたんじゃ……」


 不安がよぎった時、路地の入り口にタクシーが止まった。

 降りてきた姿を見て、ゲンは弁当を取り落としそうになった。


「た、ただいま」


 そこに立っていたのは、純白のドレスに身を包んだ、正真正銘のお姫様だったからだ。

 薄暗い路地裏に、そこだけスポットライトが当たっているかのように輝いている。


「……お前、ヒミコか? どこの国の貴族だよ」


「レイナが、装備を整えてくれた。防御力は低いけど、精神耐性は上がるらしい」


 ヒミコはドレスの裾を気にしながら、いつもの古新聞の横に座り込んだ。

 あまりの不釣り合いさに、ゲンが頭を抱える。


「そこに座んなよ! 服が汚れるだろ!」


「ここが、私の店だから」


 ヒミコは気にせず、抱えていた紙袋をゲンの前に差し出した。


「これ、お土産」


「あ?」


「レイナと食べたやつは持ってこれなかったけど、これも、すごいらしい」


 ゲンが恐る恐る箱を開けると、そこには桐箱に入った上品なおにぎりと、黄金に輝く包みのどら焼きが入っていた。

 漂う香だけで、自分が普段食べているものとは次元が違うことが分かる。


「……俺にか?」


「パートナーだから」


 ヒミコは短くそう言うと、自分用のおにぎり(やはり桐箱入り)を手に取った。

 慣れない手つきで竹の皮を解く。


「……いただきます」


 二人並んで、高級おにぎりを齧る。

 具は、最高級の鮭ハラス。

 脂の乗った鮭の旨味と、一粒一粒が立った米の甘みが口いっぱいに広がる。


「……うめぇ」


「……うん。おいしい」


 パフェのような暴力的な甘さではない。

 けれど、この薄汚れた路地裏で、信頼できる相手と食べるこの味は、何よりも温かく、そして深かった。


 ヒミコは、夜空を見上げた。

 ビルの隙間から見える月は、昨日よりも少しだけ優しく見える気がした。


「ゲンさん」


「ん?」


「明日は、ツナマヨを買いに行こう」


「……そうだな。やっぱ俺たちには、そっちがお似合いだ」


 ゲンが笑い、つられてヒミコも微かに口元を緩める。

 ドレス姿の聖女と、薄汚れたホームレス。

 奇妙で、けれど幸福な夜の晩餐。


 だが、この平穏な時間が長く続かないことを、二人はまだ知らない。


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