第6話 医学の敗北
新宿の朝は、通常であれば気だるげな静寂と、カラスの鳴き声から始まる。
だが、その日の路地裏は、沸騰していた。
「押さないで! 列を乱さないでください! 最後尾はこちらです!」
ホームレスのゲンが、嗄れ声で怒鳴っている。
彼が整理しようとしている行列は、路地裏の入り口から溢れ出し、表通りまで伸びようとしていた。その数、優に三百人。
昨日の「一条陸の復活」を目撃した者たちの拡散により、その噂は一夜にして首都圏全土を駆け巡っていたのだ。
車椅子に乗った老人、松葉杖をついた若者、難病の子供を抱いた母親。
皆、藁をも掴む思いで、この薄汚れた路地裏の「聖域」を目指していた。
その喧騒の中心に、ヒミコはいた。
いつものように古新聞の上に座り、膝の上にはコンビニのビニール袋。
彼女は周囲の熱狂など存在しないかのように、明太子おにぎりの封を開ける作業に没頭していた。
「……あかない」
不器用な手つきでフィルムと格闘する少女。
この小さな手が、昨日、再起不能と言われたアスリートの足を治したのだ。そのギャップが、信者たちの信仰心をより一層煽っていた。
だが、その熱狂を切り裂くように、冷たい異音が響いた。
キキーッ!
重厚なブレーキ音と共に、黒塗りの高級セダンが数台、路地の入り口を強引に塞いだのだ。
車から降りてきたのは、強張った表情のSPたちと、仕立てのいいスーツを着た官僚風の男たち。
そして、その中央を歩く、白衣を羽織った初老の男。
路地裏の空気が一変する。
その男の顔を、テレビの健康番組やニュースで見たことがある者が多かったからだ。
「……天導教授だ」
「東都大学病院の……」
「なんであんな偉い人がここに?」
天導重徳。日本医学会の重鎮であり、心臓外科の世界的権威。そして、厚生労働省の顧問も務める「医療界の皇帝」である。
彼はハンカチで口元を覆い、露骨に不快そうな顔で周囲を見渡した。
「なんと嘆かわしい……。文明国である日本で、これほどの集団ヒステリーが起きるとは」
天導は、まるで汚物を見るような目でヒミコを見下ろした。
「君かね。無許可で医療行為の真似事をしている子供というのは」
ヒミコは顔を上げ、無表情に天導を見つめ返した。
手には、ようやく開封に成功した明太子おにぎりが握られている。
「……ヒール屋。一回一万円。並ぶ?」
「ふん、戯言を」
天導は鼻で笑い、同行していた厚労省の役人に目配せをした。役人が一歩前に出て、書類を読み上げる。
「医師法第十七条違反、および薬機法違反の疑いがある。直ちにこの場所を封鎖し、被疑者の身柄を確保する」
行列から、怒号が飛んだ。
「ふざけるな!」
「この子は本物だぞ!」
「俺たちは病院に見放されたんだ!」
しかし、天導は動じない。彼は憐れむように群衆に語りかけた。
「目を覚ましなさい、皆さん。医学に奇跡などない。あるのはエビデンス(科学的根拠)と、積み上げられた臨床データだけだ。彼女がやっているのは、一時的な興奮状態によるプラシーボ効果か、あるいは何らかのトリックに過ぎない」
そして、再びヒミコに向き直る。
「君のような存在が、真面目に病と闘っている患者や医師を冒涜しているのだよ。子供だからといって許されることではない」
絶対的な正論。
法と科学という最強の盾を持った権威の言葉に、周囲の大人たちは口をつぐんだ。
だが、ヒミコだけは違った。
彼女は不思議そうに小首を傾げた。
「かがく? えびでんす?」
「……なんだと?」
「それがあれば、ここにいる人たち、治るの?」
その問いは、あまりにも純粋で、だからこそ残酷だった。
ここに並んでいるのは、現代医学の「エビデンス」では治せなかった人々だ。
天導の眉間がピクリと跳ねる。
「医学は魔法ではない。限界はある。だが、それは君のような詐欺師に頼っていい理由にはならん!」
天導が声を荒げた、その時だった。
ドクンッ。
嫌な音が、天導の胸の内で響いた。
彼の顔色が、瞬時に土気色へと変わる。
「う……ぐ、あ……ッ!?」
天導が胸を鷲掴みにし、その場に膝をついた。
苦痛に歪む表情。脂汗が滝のように噴き出す。
狭心症の発作か、あるいは心筋梗塞か。
皮肉なことに、医学の権威である彼自身の心臓が、ストレスと興奮に耐えきれず悲鳴を上げたのだ。
「き、教授!?」
「先生! しっかりしてください!」
取り巻きの医師たちが慌てて駆け寄る。
脈を取る者、鞄からニトロを取り出す者。しかし、天導の意識は急速に混濁していく。
「脈が微弱です! AED! AEDを持ってこい!」
「車の中だ! 誰か取ってこい!」
「救急車を呼べ!」
怒号が飛び交うが、状況は最悪だった。
路地の入り口は自分たちの黒塗りの車で塞がれており、その外側には数百人の野次馬が壁を作っている。救急車が到着するには、あまりに時間がかかりすぎる。
「はっ、……ぐ、うう……」
天導の唇が紫色に変色していく。チアノーゼだ。
日本最高峰の医師たちが揃っていながら、彼らは路上で、ただの上司の死を見守ることしかできない無力な存在に成り下がっていた。
「だめだ……心停止するぞ!」
絶望的な声が響いた時。
ざり、と砂利を踏む音がした。
医師たちの壁を割り、白い少女が歩み寄ってきた。
手にはおにぎりを持ったまま。
「どけ! 子供が見ていいものじゃない!」
若い医師が怒鳴って追い払おうとする。
だが、ヒミコは彼を無視し、苦悶の表情で天を仰ぐ天導の顔を覗き込んだ。
「苦しい?」
淡々とした問いかけ。
薄れゆく意識の中で、天導は少女の銀色の瞳を見た。
そこには、慈悲も、侮蔑もない。ただ「壊れかけた機械」を見るような、冷徹な観察眼だけがあった。
「死ぬの? それとも、治したい?」
「あ……、ぅ……」
天導の手が、空を掴むように震える。
プライドも、名誉も、医学への忠誠も、死の恐怖の前では塵に等しかった。
彼は無意識に、目の前の「詐欺師」の裾を掴んでいた。
「た、す……け……」
「契約成立」
ヒミコはおにぎりを口にくわえると、天導の上着のポケットに手を突っ込んだ。
革財布を取り出し、そこから一万円札を一枚だけ、丁寧に抜き取る。
周囲の医師たちが唖然として固まる中、ヒミコはその紙幣を自分の懐に入れ、空いた右手を天導の胸にかざした。
「――『治癒』」
瞬間。
路地裏の薄暗さを、清浄な光が塗り替えた。
LEDのような刺す光ではない。深海から湧き上がるような、静かで、圧倒的な質量の光。
それが天導の胸郭を透過し、心臓へと染み渡る。
壊死しかけていた心筋が、時間を巻き戻すように鮮やかなピンク色を取り戻す。
詰まっていた冠動脈が開き、血液が奔流となって全身を駆け巡る。
ドクン。ドクン。ドクン。
力強い鼓動の音が、聴診器を使わずとも聞こえるほど明確に響いた。
数秒後。
光が収束すると、天導は大きく息を吸い込み、カッと目を見開いた。
「はぁッ……!?」
彼は上半身を跳ね起こした。
胸を押さえる。痛みがない。
それどころか、長年彼を悩ませてきた不整脈の違和感すらも消え失せている。
まるで二十代の頃の心臓を手に入れたかのような、恐ろしいほどの万能感。
「ば、馬鹿な……」
天導は震える手で自分の脈を測り、そして目の前の少女を見た。
彼は知っている。現代医学の粋を集めても、壊死した心筋を数秒で再生させることなど不可能だということを。
自身が積み上げてきた「エビデンス」の山が、音を立てて崩れ去っていく。
「心不全が……完治しているだと……?」
呆然と呟く天導。
その周囲で、部下の医師たちが腰を抜かし、役人たちが書類を取り落とす。
沈黙。
圧倒的な沈黙が場を支配した。
それは、医学が敗北し、魔法が勝利した瞬間の静寂だった。
だが、勝者であるはずの少女は、そんな劇的な瞬間に興味を示さなかった。
彼女は天導から離れると、再び古新聞の上の定位置に戻り、食べかけの明太子おにぎりを頬張り始めた。
「……ん。ちょっと辛い」
もぐもぐと口を動かしながら、彼女はゲンの方を向いた。
「ゲンさん。お茶、ほしい」
その一言が、止まっていた時間を動かした。
わぁぁぁぁぁぁッ!!
路地裏を揺るがすような大歓声が爆発した。
「見たか! 先生まで治しちまったぞ!」
「医学界のトップが認めたようなもんだ!」
「すげぇー! ヒール屋!!」
天導教授は、熱狂する群衆の中で、ただ力なくアスファルトに座り込んでいた。
彼の目には、もはや少女が詐欺師には見えなかった。
理解を超えた畏怖の対象。あるいは、人類が触れてはいけない「聖域」そのもの。
ヒミコはペットボトルのお茶を受け取り、ごくごくと喉を鳴らす。
新宿の空は青く、今日も長い一日になりそうだった。
そして、この「医学の敗北」というニュースは、ついに国家の中枢を本気で動かす引き金となるのだった。
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