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第5話 風の帰還

挿絵(By みてみん)

 

 新宿の夜が明け、ビルの隙間から差し込む薄紅色の光が、湿った路地裏を照らし始めていた。


 いつもなら酔い潰れた者たちが転がっているだけのその場所に、この日は異様な光景が広がっていた。十数人の男女が、室外機の並ぶ狭い通路に沿って、行儀よく列を作っているのである。


 スーツ姿のサラリーマン、疲れ果てた表情の主婦、そして興味本位でカメラを回す若者。皆、昨夜ネットを駆け巡ったあの動画を半信半疑で追いかけてきた者たちだった。


「……本当に来るのかよ、こんな場所に」


「ハヤトの動画はヤラセだって噂もあるしな」


「でも、もし本当なら一万円なんて安すぎるだろ」


 大人たちの疑念が混じった囁き声が、冷たい空気の中に白く消えていく。

 その行列の最前列に、一台の車椅子があった。


 深く被った帽子の下から覗く顔は、二十代半ばだろうか。

 一条陸。

 かつて「日本最速の風」と謳われ、世界大会でのメダルも確実視されていた天才スプリンター。

 しかし、一年前のバイク事故がすべてを奪った。

 粉砕された両足の骨。数回に及ぶ手術の末に医師から告げられたのは、「歩けるようになるのが精一杯。走るのは二度と無理だ」という宣告だった。


 彼は、絶望の底にいた。

 走ることだけが自分の存在意義だった男にとって、動かない足は、ただの重荷でしかなかった。

 リハビリもやめた。スポンサーも離れた。栄光は過去のものとなり、残ったのは借金と、動かない足だけ。


 ガサリ、と古新聞が擦れる音がした。


 路地裏の奥、室外機の影から、白い少女が姿を現した。

 朝日を浴びた彼女の髪は、銀糸を集めて織り上げたかのように輝いている。透き通るような白い肌、そして感情を排した静謐な銀色の瞳。

 彼女がそこに座るだけで、生ゴミの臭いが漂う薄汚れた路地裏が、教会のような聖域へと変質していくような錯覚を、並んでいた大人たちは覚えた。


「……おはよう、ヒミコちゃん」


 横に控えていたゲンが、緊張した面持ちで声をかける。

 ヒミコは短く頷くと、目の前に立つ行列を見上げた。


「ヒール屋。一回一万円。……次は、だれ?」


 鈴を転がすような、しかしどこか現実味のない響きを持った声。


 車椅子の陸が、震える手で車輪を回し、静かに前へ出た。

 彼はポケットから、クシャクシャになった一万円札を取り出した。

 それは、彼がプライドを捨て、知人のツテで得た金だった。最後の希望であり、最後の賭けだった。


「……僕の、足も、治るかな」


 陸の声は掠れていた。

 その瞳には、期待よりも「これで駄目なら、もう終わりにしよう」という、断崖絶壁に立つ者の色が濃く沈んでいた。

 周囲の野次馬たちが息を呑む。

 彼が誰か気づいた者もいたのだろう。「あれ、一条選手じゃないか?」という囁きが漏れる。


 ヒミコは陸の瞳をじっと見つめた。

 そして、彼の膝に置かれた、筋肉が落ちて細くなってしまった足に触れる。


「重い」


 ヒミコが呟いた。


「風を忘れて、止まっている」


 その一言に、陸の肩が激しく跳ねた。

 医学的な診断ではない。しかし、その言葉は、陸の魂の在り処を正確に射抜いていた。

 そうだ。足が動かないことよりも、自分が自分でなくなってしまったこと。風になれなくなってしまったこと。それが一番辛かったのだ。


「……治るのか?」


「一万円、持ってる?」


「ああ……これが、全財産だ」


「なら、治す」


 ヒミコは陸の手から紙幣を受け取ると、それを懐にしまい、両手を彼の足に添えた。


「あなたの風を、返します」


「――『治癒ヒール』」


 ヒミコの唇が紡いだその言葉とともに、世界が白く染まった。


 LEDの光でも、CGの光でもない。

 もっと根源的な、生命そのものが発する太陽のような輝きが、ヒミコの掌から溢れ出した。

 路地裏全体が、まばゆい白銀の粒子に満たされる。


 陸は感じていた。

 冷たく、鉛のように重かった足に、熱い奔流が流れ込んでくるのを。

 途切れていた神経が繋がり、砕けた骨が融合し、萎縮した筋肉がかつての記憶を呼び覚まして膨張していく。

 細胞の一つ一つが歓喜の声を上げているのが聞こえるようだった。


「あ……あああ……!」


 陸の口から、魂を絞り出すような叫びが漏れた。

 痛みではない。それは、自分の身体を、自分自身を取り戻す悦びの叫びだった。


 光が収まり、視界が開けた。

 並んでいた大人たちは、全員が言葉を失い、石像のように固まっていた。

 スマホを構えていた若者の手が震えている。


 車椅子に座っていたはずの陸が、ゆっくりと腰を浮かせた。


「……立てる」


 膝に力が入る。

 地面の硬さを、足の裏が感じている。

 陸は、自らの足で、新宿のアスファルトをしっかりと踏みしめて立ち上がった。


「僕、立ってる……」


 陸は一歩、踏み出した。

 ふらつく足取りではない。バネのようにしなやかな筋肉が、重力を嘲笑うかのように身体を支えている。

 彼は歩き出し、やがて、衝動に突き動かされるように路地裏の中を駆け出した。


 タタタンッ!


 軽やかなステップ。

 狭い路地裏を一往復するその動きは、かつてスタジアムを沸かせた「風」そのものだった。


「走れる……。僕は、まだ終わってない! 走れるんだ!」


 陸は壁に手をつき、子供のように声を上げて泣いた。

 涙が止まらなかった。失われた未来が、今、手の中に返ってきたのだ。


 その背中を見ていた主婦が、口元を押さえて嗚咽を漏らした。

 サラリーマンが、眼鏡を外して涙を拭った。

「インチキだ」「加工だ」と騒いでいた者たちは、一人残らず沈黙し、目の前で起きた「救済」という名の暴力的なまでの奇跡に、ただただ圧倒されていた。


 これが、本物の魔法。

 医学も科学も届かない場所に手を伸ばす、幼き聖女の力。


 路地裏は、感動と畏怖で満たされていた。

 だが、たった一人、その空気の外にいる者がいた。


「……よかったね。ゲンさん、次」


 奇跡の当事者であるヒミコは、平然と言い放った。

 彼女にとっては、金メダリストの復活も、ただの「一万円の仕事」でしかない。

 彼女は足元に置いてあったコンビニ袋から、おにぎりを一つ取り出した。

 今日は鮭おにぎりだ。


「あ、ああ……。おい、次は誰だ! 押さないで並べ!」


 ゲンの上擦った声で、ようやく人々は我に返った。

 今度は疑いの目ではない。

 狂信的なまでの期待と熱を帯びた眼差しが、ヒミコに注がれる。

 我先にと一万円札を握りしめ、列が乱れそうになる。


「一万円で人生が買える」


「どんな絶望でも、あの子なら救ってくれる」


 その確信は、もはや新宿の路地裏に留めておけるレベルを超えていた。


 ヒミコは、次の客を待つ間に、鮭おにぎりのパッケージを丁寧に剥いた。

 三角形の頂点を静かに齧り、彼女は満足げに銀色の瞳を細めた。


「……うん。いい味」


 彼女が救った男が、再生の喜びに震え、周囲の人間が感動に涙しているその隣で。

 聖女はただ、手に入れた一万円の価値を、米の甘みと鮭の塩気に変換して味わっていた。


 空は高く、どこまでも澄み渡っている。

 新宿の喧騒が戻りつつある中、ヒミコの前には、昨日よりもずっと長く、果てしない行列が伸び始めていた。


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