第23話 闇に踊るナイフ
ニューヨーク、マンハッタン。
摩天楼の頂、地上50階にある老舗ステーキハウス。
窓の外には、宝石を散りばめたような100万ドルの夜景が広がる。
だが、ヒミコの瞳が捉えているのは、夜景ではない。
目の前のテーブルに鎮座する、巨大な肉塊だ。
「……肉」
熟成されたティーボーンステーキ。
表面はカリッと焦げ目がつき、ナイフを入れると鮮やかなバラ色の断面が顔を覗かせる。
溶けたバターと肉汁が混ざり合い、芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。
ゴクリ、とヒミコの喉が鳴る。
「ゲンさん。……これ、食べていい?」
「ああ。ハワード氏の奢りだ。好きなだけ食え」
「ん。……いただきます」
ヒミコが純白のドレスの胸元にナプキンをかけ、フォークとナイフを握りしめる。
聖女の晩餐。至福の時。
シャンパングラスを傾けていたレイナが、ふと眉をひそめる。
彼女の視線が、店内のウェイターたちを射抜く。
「……変ね」
『心眼』、オン。
世界が色づく。
本来なら、高級店のスタッフからは「チップへの期待」や「忙しさへの焦り」といった雑多な色が漏れ出ているはず。
だが、今夜の給仕たちからは、色が消えている。
感情を完全に殺した、冷徹な「銀色」。
「ゲンさん、剣崎さん。……お肉を味わう前に、ちょっとした『お掃除』が必要みたい」
「……何?」
「店の中、色が一つもない『機械』だらけだわ。……こいつら、ウェイターじゃない」
直後、銀色の盆を持った男が、ヒミコの背後に立つ。
盆の下から滑り出る、消音機付きの銃口。
狙いは、無防備に肉を頬張ろうとする聖女の後頭部。
「……いただきます」
ヒミコが肉を口に運ぶ。
その咀嚼音に合わせて、影が動く。
――ヒュン。
剣崎蒼司の姿が、座っていた椅子からブレる。
『縮地』。
物理法則を無視したゼロ距離移動。
男が引き金を引こうとした刹那、剣崎はすでに背後に立っていた。
「……無粋」
手刀一閃。
男の首筋に正確無比な衝撃が走る。
声もなく崩れ落ちる男。
剣崎はその身体を支え、次の瞬間には非常階段の踊り場へと転移させていた。
――ヒュン。
再び椅子に戻る剣崎。
手元のナイフとフォークを手に取り、自分の分の肉を一口サイズに切り分ける。
一連の動作、わずか一秒。
「……んぐ、んぐ。……おいしい」
ヒミコは気づかない。
背後で人が消えたことも、殺気が渦巻いていることも。
ただ、熟成肉の旨味に陶酔し、幸福そうに頬を緩める。
次の瞬間、店内の四方から、客を装っていた男たちが立ち上がる。
手にはセラミックナイフ、あるいはワイヤー。
プロの暗殺者、あるいは誘拐のスペシャリストたち。
CIAの別働隊か、軍産複合体の私兵か。いずれにせよ、ヒミコの身柄を狙うハイエナどもだ。
「……やれやれ。ゆっくり飯も食えんのか」
源田が赤ワインを揺らす。
剣崎が、肉を一切れ口に放り込む。
「主殿、そのまま食事を続けられるがいい。……埃が舞う前に終わらせる」
残像。
剣崎の身体が、霧のように拡散する。
右の男がナイフを振り上げた瞬間、その腕があらぬ方向へねじ曲げられる。
左の女がワイヤーを投げようとした瞬間、視界が反転し、天井を仰ぎ見る。
ドガッ、バキッ、ズドン。
鈍い音だけが、BGMのジャズに混ざる。
銃声はない。悲鳴もない。
ヒミコが「もぐもぐ」と肉を食べるリズムに合わせて、襲撃者たちが次々と空間から消失していく。
窓の外へ、厨房の冷蔵庫へ、あるいはトイレの個室へ。
神速の「掃除人」による、強制排除。
「……ふぅ」
最後の一切れを飲み込んだヒミコが、満足げにナイフを置く。
同時に、剣崎が元の席に戻り、ナプキンで口元を拭った。
「ご馳走様でした、主殿」
「ん。……剣崎、食べるの早い」
「はは、武士たるもの、早飯は基本ゆえ」
周囲を見渡せば、店内には客も店員もいない。
ただ、静寂だけが満ちている。
レイナが、倒れていた男の一人が落とした通信端末を拾い上げる。
指先から伝わる残留思念。
『心眼』が、彼らの雇い主の色を読み取る。
「……また泥色ね。アメリカ政府の一派か、それともライバル企業の産業スパイか。……どっちにしても、ハワードのおじさんの敵対勢力みたい」
レイナが端末を氷の入ったグラスに放り込む。
「ハワード。……貴様の警備は穴だらけだ」
源田がスマホを取り出し、冷徹に告げる。
電話の向こうで、ハワードの悲鳴ごとき謝罪が聞こえるが、知ったことではない。
「次からは剣崎に『警備監修料』として、一人一億円ほど請求させてもらうぞ。……ああ、そうだ。デザートの追加も頼む」
源田が電話を切るのと同時に、ヒミコがメニュー表を指差した。
「ゲンさん。お肉、なくなった。……次は、甘いもの食べたい」
「チーズケーキか? それともパフェか?」
「両方」
平和な顔でデザートを待つ聖女。
彼女の『治癒』を巡る争奪戦は、もはや一企業の手に負える範囲を超え、国家規模の陰謀へと膨れ上がっている。
だが、今のヒミコにとって重要なのは、目の前のチーズケーキが濃厚かどうか、それだけだった。
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