第10話 さらば路地裏、ようこそ聖女の治療院へ
約束の一週間後。
新宿の空は、皮肉なほどに晴れ渡っていた。
「時間だ。……残念だよ、ヒミコさん」
路地裏の入り口に、厚生労働省の九条が姿を現した。
背後には数名の警官。そして手には、強制執行のための書類。
彼は、薄汚れたダンボールハウスを見下ろし、勝利を確信した笑みを浮かべていた。
「君のような才能ある子供が、こんなゴミ溜めで腐っていくのは国家的損失だ。さあ、綺麗な施設へ行こう。……あのホームレスも、もう諦めて逃げ出したようだしね」
九条が視線を巡らせる。
そこに、あの日啖呵を切った薄汚れた男の姿はなかった。
いるのは、古新聞の上に座るヒミコだけ。
「逃げてない」
ヒミコは静かに立ち上がり、おにぎりの最後のひとくちを飲み込んだ。
「ゲンさんは、準備をしてただけ」
「準備? 夜逃げの準備か?」
九条が鼻で笑った、その時だ。
コツ、コツ、コツ。
路地裏には不釣り合いな、硬質で洗練された革靴の音が響いた。
警官たちが道を空ける。
現れたのは、イタリア製の高級スーツを着こなし、髪をオールバックに撫で付けた男だった。
髭は綺麗に剃り落とされ、その瞳にはカミソリのような冷徹な光が宿っている。
「……誰だ、君は」
九条が眉をひそめる。
男は、懐から名刺を取り出し、九条の胸ポケットに滑り込ませた。
「ヒミコ氏の法的代理人兼、身元引受人。……源田壮一郎だ」
「げ、源田……? まさか、『無敗の鉄仮面』と呼ばれた、あの?」
九条の顔色が色めき立つ。
法曹界にその名を知らぬ者はいない。数々の巨大訴訟を勝ち抜き、突然姿を消した伝説の弁護士。
それが、あの薄汚れたホームレスだったというのか?
「馬鹿な……。だが、いくら元弁護士だろうと、ホームレスに養育能力などない! 住居はどうする! 収入は!」
「全てここにある」
源田は、分厚いファイルを九条に突きつけた。
「彼女の個人事業主としての開業届。納税証明書の写し。そして、これが新居の不動産登記簿だ。物件は港区の一等地。文句はあるか?」
「な……港区だと!?」
九条が書類をめくる手が震える。
書類には、確かに完璧な法的根拠と、さらに推薦人として『東都大学病院教授・天導重徳』、『元五輪代表・一条陸』の名前が連なっていた。
この一週間、源田はかつてのコネと、ヒミコが救った「特別な客」たちの力を総動員し、外堀を完璧に埋めていたのだ。
「あんたがやろうとしているのは、正当な保護ではない。行政権の乱用による未成年者略取だ。……これ以上彼女に指一本でも触れてみろ。国家賠償請求だけじゃ済まさんぞ。あんた個人を、社会的に抹殺するまで戦う」
源田の声は低く、しかし絶対的な重圧を伴っていた。
九条は脂汗を流し、後ずさる。
法と権力。彼が虎の威としていた武器は、目の前の男の方が遥かに上手だった。
「く、……覚えていろ……!」
九条は捨て台詞を吐き、逃げるように去っていった。
警官たちも、バツが悪そうに敬礼して撤収していく。
完全勝利だった。
「……終わったな」
源田が大きく息を吐き、ネクタイを緩めた。
ヒミコが歩み寄り、そのスーツの裾を掴む。
「ゲンさん、かっこいい。……でも、ヒゲがないと少し寒い」
「うるせぇ。……さあ、行くぞヒミコ。ここはお前の居場所じゃねぇ」
源田がタクシーを止める。
ヒミコは最後に一度だけ、住み慣れた路地裏を振り返った。
古新聞の山。室外機の熱風。
初めておにぎりを食べた場所。
「……さよなら」
小さく呟き、彼女はタクシーに乗り込んだ。
◇
タクシーが到着したのは、港区の閑静な住宅街だった。
だが、その一角だけ、空気が澱んでいた。
「……ここ?」
ヒミコが見上げたのは、蔦に覆われ、壁が黒ずんだ巨大な洋館だった。
かつて華族が住んでいたというその建物は、長年の放置により完全な「お化け屋敷」と化していた。
天導教授が「いわくつきで誰も住みたがらない物件なら、格安で提供できる」と言って用意してくれたのがこれだった。
「……やっぱり、やめるか? ホテルにするか?」
流石の源田も顔を引きつらせる。
だが、ヒミコは首を振った。
「ううん。ここがいい。……でも、汚いのは嫌」
ヒミコは門の前に立った。
大きく深呼吸をする。
彼女の銀色の瞳が、屋敷全体を「治療対象」としてスキャンしていく。
「不潔。カビ。悪意。残留思念。……全部、いらない」
ヒミコが両手を広げた。
その小さな掌から、奔流のような光が放たれた。
「――『浄化』」
それは、路地裏で見せたものの比ではなかった。
白銀の津波が、洋館を丸ごと飲み込んだ。
バァァァァァァッ!
光が弾ける。
こびりついていた黒い苔が消滅し、外壁は新雪のように白く輝きだす。
枯れ果てていた庭の木々に緑が戻り、蕾が一斉に花開く。
割れていた窓ガラスは修復され、クリスタルのように透明度を取り戻す。
そして、屋敷に巣食っていた「ジメジメした気配」ごと、光が空へと昇華させていく。
数秒後。
そこに立っていたのは、幽霊屋敷ではなかった。
童話に出てくるような、白亜の宮殿だった。
「……おいおい。リフォーム業者が全員失業するぞ、これ」
源田が呆然と口を開ける。
ヒミコは満足げに頷き、ピカピカになった門柱に、予め用意していた看板を掛けた。
『ヒミコ治療院 一回一万円』
「開店」
◇
その夜。
広々とした、塵一つないキッチンで、源田は慣れない手つきで米を握っていた。
高級なシステムキッチンには不釣り合いな、無骨な男の背中。
炊きたての米の香りが、広いダイニングに満ちている。
「……ほら、食え。具はツナマヨだ」
差し出されたおにぎりは、コンビニの綺麗な三角形とは程遠い、いびつな爆弾のような形をしていた。海苔も少し破れている。
けれど、湯気が立っていた。
ヒミコはそれを受け取り、大きな一口で齧り付いた。
塩加減もまばらで、米は少し熱すぎるくらいだ。
「……ん」
「どうだ? やっぱコンビニの方がうめぇか?」
源田が不安そうに、眉間の皺を寄せて尋ねる。
かつて法廷で数多の敵を論破してきた男が、たった一個のおにぎりの評価に緊張している。
ヒミコは首を横に振り、口元にご飯粒をつけながら、花が咲くように微笑んだ。
「形はへん。……でも、コンビニより、ずっとあったかい」
その言葉に、源田は照れくさそうに鼻をこすり、視線を逸らした。
「……そうかよ。なら、明日も作ってやる」
屋根がある。明かりがある。
そして何より、向かい合って「美味しい」を共有できる家族がいる。
それは、二人がずっと欲しくて、手に入らなかった「普通の幸せ」だった。
ヒミコは、窓の外を見た。
ピカピカに磨かれた窓ガラスの向こうには、東京の夜景が広がっている。
けれど、もう寒くはない。
「ここは、私の家」
ヒミコが噛み締めるように呟く。
源田は、ヒミコの頭に大きな手をポンと置いた。
「ああ、そうだ。俺たちの家だ」
ヒミコと源田。
最強の聖女と、最強の弁護士。
不潔な路地裏で出会った二人の「迷子」は、ようやく帰るべき場所に辿り着いたのだ。
「さあ、食ったら寝ろ。明日は開店初日だ。忙しくなるぞ」
「うん。……おやすみなさい、ゲンさん」
「……ああ。おやすみ、ヒミコ」
温かな食卓の灯りが、二人の影を優しく照らし出していた。
路地裏の聖女の物語はここで幕を閉じ、明日からは「ヒミコ治療院」の新たな日々が始まる。
(第1章・路地裏の聖女編 完)
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