lesson5 『夏乃花美という天才』
翌日の朝、俺は自室にて屋上での出来事を思い出していた。
「はぁ……」
我が家唯一の家具である卓袱台に突っ伏し溜息を漏らすと、卓上に置いていたアイがすかさず口を開く。
『ちょっと! 朝からそんな辛気臭い顔やめてくれません? こっちの気分まで滅入ります!』
「うっせーな。仕方ねぇだろ」
『女の子にあんな事までして置いて、仕方ないで済ます気ですか?』
「うっ」
『責任も取らずに逃げるなんて男としてどうかと思いますけどね!』
「おい、人聞きの悪い事言うな! つーかどこでそんな言葉覚えやがった!」
そう……昨日の屋上での一件、俺はあの場から全力で逃げ出した。
今思い出してもあの時の俺はどうかしていたと思う。
完全に冷静さを失い、危うく素性がバレそうになる失態。
そんな状態であの場に居ても良い事など一つもない。
まぁ、一応あの女には悪い事をしたとは思っている。
見方によっては女に手を挙げた様に見えなくもない。
だからお詫びも兼ねて可能な限りあの女の要求は叶えてあげたいとも思う。
が、人間出来る事と出来ない事がある。あの女の要求はどう考えても後者だ。
この俺が恋愛を教える? あり得ない!
ペンギンに空の飛び方を聞く様なもんだ。
だから俺があの場から逃げ出したのは何ら恥ずべき事では無い。むしろ最善の選択。
ほら、逃げるが勝ちって言うし。
『というか相変わらず低脳っぷりですね! 同じ学校なんですから逃げても何の解決にもなんないでしょうに!』
「はぁ……わかってるよ、そのくらい」
現実に戻され再び深い溜息をつく。
アイの言う通りあの女と同じ学校に通う以上、あの場を濁しても結局何の解決にもならない。
学校行きたくねぇな。でもそれじゃ、いつまで経ってもFランクのままだし……
「考えても仕方ねぇ……か」
ようやく重い腰を上げた俺はアイを胸ポケットに入れ嫌々玄関へと向かい、ノロノロとドアノブを掴む。
『どこまでも往生際が悪いですね! ほら、さっさと行きますよ!』
「わーってるよ……」
そしてドアを開け、
「おっはよぉ〜〜〜!」
「ッ⁉︎」
俺はすぐさまドアを閉める。
「は?」
今、玄関の外にあの女が居た様な?
いやいや無い無い、きっと寝ぼけてるんだ! 今朝も畳が硬くて熟睡できなかったし。
いやー駄目だな、ハハ。こんなナチュラルに幻覚を見るなんて、やっぱり疲れてるんだな俺。
とは言ったものの、やや不安の残る俺は少しの隙間だけドアをソッと開ける。
「あッ、酷いよ! いきなり閉め……」
——やっぱ居るッ‼︎
え、なんで⁉︎ どうしてここに居る⁉︎
ドンッ! ドンッ! ドンッ!
「ちょっと、なんで閉めるのよー! 開けてよ! ねぇってばぁー!」
ドアの向こうからは間違いなくあの女の声が聞こえてくる。
ドンッ! ドンッ! ドンッ!
その力強いノックはドア越しでも俺の身体に響いて来る程の衝撃であり、この木製のボロいドアはその度にミシミシとヤバイ音を奏でている。
「おいやめろ! ドアが壊れるッ!」
「じゃあ開けてよジン! それまで止めないよ!」
「いいから今すぐ止め……つーか何で俺の名前を知ってんだよ⁉︎」
すると、こんな状況にも関わらず胸ポケット内にいるアイは冷静なトーンで口を挟む。
『あぁ。上位ランク者の特権を使ったみたいですね』
「特権?」
『上位ランク者は下位ランク者の情報を自由に得る事が出来るんですよ。知らなかったんですか?』
「知る訳ねぇだろ! なんでお前はいつも説明がワンテンポ遅いんだよ!」
なんだよそれ、個人情報お手軽過ぎんだろ! つーか格差社会こえーよ!
「ジン何か言った? そこに誰か居るの?」
「いや居ねぇーよ! 何でも無い!」
只でさえ疑われている今の状況で、アイの事を知られようモノなら、更に面倒な事になるのは必至だろう。
そう考えた俺はすぐさまアイに小声で釘を刺す。
「いいかアイ。あの女や学校ではなるべく喋るな、いいな?」
『なんですかその命令口調! 低脳のクセに随分と上からですね!』
「あぁーもう面倒くせぇ! わかったよ! お願いします! どうか黙ってて下さいアイ様!」
『まぁそこまで言うなら仕方ないですね! 今回だけですよ』
ふぅー。取り敢えずこっちは片付いた。あと問題はあっちだな。
「よーし、決めた! もういっそこのドア壊しちゃおう!」
「何⁉︎」
ドアの向こうからは何とも恐ろしい提案が聞こえてくる。
このままだと今日から俺はドア無しの部屋で生活する事になるのか?
残高五〇〇円じゃ修理もできねぇし冗談じゃない!
「……くッ、仕方ねぇな」
俺は観念してドアを開けると、そこには腕を振りかぶり、今にもドアを破壊しようとするあの女の姿があった。
「あ、やっと開いた!」
こいつ本当にドアを壊すつもりだったのか?
「おっはよージン! いい朝だね!」
満面の笑顔を浮かべる彼女に対し、俺はあからさまに不機嫌な表情で言葉を返す。
「……何の用だ?」
「え? 一緒に登校しようかな〜って思っただけだよ」
更に彼女の笑顔レベルは上昇する。それに比例して俺の不機嫌レベルも上昇する。
「……一応聞いてやる、何でだ?」
「それはね、これを見たの!」
彼女がドヤ顔で鞄から取り出したのは昨日も持っていた君恋の七〇巻。
「またそれか」
「これによるとね……学生の恋愛では男女の登下校は必須って描いてあるの!」
この馬鹿、まさかそれを教科書代わりにしてるのか?
「冗談じゃ無い! なんで俺がそんなもんに付き合わなきゃいけないんだ!」
「だって恋愛教えてくれるって……」
「言ってないッ!」
「まぁでも、目的地は同じなんだし一緒に学校行こうよ! ね?」
「くッ!」
今から学校まで全力ダッシュしてこの女を振り切ろう。
と、一瞬考えたが昨日に引き続き学校までの道のりを走るのは、基本インドア派の俺にとって正直かなりしんどい。
要はこの女を気にしなければいいだけの話だ。一緒に登校する訳じゃない。この女は俺の近くを歩くただの通行人! そう考えればいい。
「……勝手にしろ」
「うん。勝手にする!」
※ ※ ※
本来、朝の時間と言うものは心にも時間にも余裕を持って行うもの。
走って目的地に向かうなんて時間にルーズな愚か者がする事だ。
今朝は昨日の失敗も踏まえて早起きしたおかげで、朝の爽やかさ空気を吸いながらのんびりとした登校をしている。
うん、実に素晴らしい朝だ……
ーーこの女さえ居なければな!
「それでねジン、このページなんだけど、何で2人は手を繋いでるの?」
先程からこいつは歩きながら、君恋の気になるページを広げては次々と質問を続けている。
「手にはいっぱいバイ菌がついてるのに、それでもこんな事するなんて不思議だよね〜」
無視!
「それによく見たら2人とも何だか顔が赤いよ! あ、わかった! 多分バイ菌が移って風邪引いちゃったんだよ!」
無視、無視、無視!
こいつは俺が一言も返さないにも関わらず軽く二〇分は一人でペチャクチャと喋っている。
メンタル強ぇなこいつ。いや、ただの馬鹿か?
「でさでさ、次はこのページなんだけど……」
この後も学校に着くまで、こいつの質問の嵐は止むことはなかった。
下駄箱で上履きに履き替え校舎内に入ってもこの女は変わらず俺の隣から離れようとしない。
しつこいなこいつ。一体どこまで付いてくる気だよ。と、考えながら階段側の廊下を歩いていると、横に居たこいつは突然俺の前に出て持っていた君恋を指差す。
「それじゃあ私はこれ図書室に返してくるから!」
当然俺は無視を決め込むが、彼女の言葉は続く。
「早くこの続き読みたいし、急いで借りなきゃ次の巻誰かに取られちゃう!」
心配するな。そんなの借りる物好きお前だけだ。
「じゃあねジン、また後でね!」
そう言葉を残すと彼女は颯爽と階段を登って行く。
よくもまぁ、朝っぱらから最上階まで駆け上がる元気があるもんだ。
何にせよ、ようやく一人の時間を手に入れた俺は安息の地である教室へと向かう。
「ふぅ……」
やっぱり教室は落ち着く。あの女も居ないし、アイも喋らないと約束してくれた。
言うなれば教室は俺に残された最後の楽園だ。
時刻は八時二〇分。クラスの連中は既に全員登校している。
空席なのは俺の隣の席だけだが、昨日も空席だった事と、この時代ではイジメも登校拒否も考え難い事から、おそらく予備の席なのだろう。
昨日に引き続きクラス内は相変わらず無音空間。
先程の登校時とは雲泥の差だ。
あぁ、シングル社会万歳。
――――ん?
だが、そんな束の間の休息を味わっている俺の耳に僅かに聞こえてきたのは、廊下の方から響く騒がしい足音。
な、なんだ?
その音は徐々に大きくなっていき次の瞬間、静寂を切り裂くかの様に勢いよく教室のドアが開かれる。
「みんな~おっはよぉ〜!」
そこには、この静けさに最も不似合なあの女が立っていた。
「なッ‼︎」
彼女はすぐさま俺の存在に気付き、不思議そうに口を開く。
「ん、どしたのジン? そんなビックリした顔して」
「な、何でお前が⁉︎ しつこいにも程があるぞッ!」
すると彼女は当然の様に教室内に足を進めこちらへと向かってくる。そして、
「ここ」
彼女はにっこりと笑みを浮かべ俺の隣にある空席を指差す。
「……まさか」
「私の席ここ」
あ〜あ〜聞こえない、俺には何も聞こえない。
半ば現実逃避をしている俺に対し、今日一番の笑顔を見せる。
「という訳で、よろしくねジン!」
あ、悪夢だ。俺のシングル社会はどこに行った?
助けを求める様に辺りを見渡せど、この騒ぎにも関わらずクラスの連中は誰一人こちらを振り向く者は居ない。
……た、頼むから俺もそっちの仲間に入れてくれ!
俺の願いは届かず、最後の楽園が崩壊を見せる中、教室にはHRの予鈴が鳴り響く。
それと同時に黒板側のドアからゴリ……いや、先生が入室してきた。
「ではHRを始め…………ん、夏乃? お前授業に参加するのか?」
夏乃?
先生はこちらを向いているが一体誰の事を?
「はーい! 気が変わったので私参加しまーす!」
すると隣に居る彼女は、先生の問いに対して右手を元気よく挙げ返答する。
夏乃ってこいつの事か。まぁ、こいつの名前なんて果てしなくどうでもいいが。
「そうか。お前は既に全教科授業免除なんだが……まぁ勝手にすればいい」
「はーい! 勝手にしまーす!」
全教科免除⁉︎
「おいお前……えーと、夏乃だっけ? 免除ってどういう……」
「あれ? まだ名前も言ってなかったっけ?」
彼女は笑みを浮かべながら俺に一歩近付き言葉を続ける。
「私は夏乃 花美! 免除なのはSランクだからよ!」
「はッ⁉︎ ぇ、Sランクッ⁉︎ それってどういう……」
「お前ら静かにしろ。HRが始められん。そして夏乃、取り敢えず座れ」
「はーい!」
くッ、お前”ら”……か。
この女と同じ括りにされたのは酷く不愉快だが、今の俺はそんな事よりあいつの言葉が気になる。
なんだSランクって? 遺伝子ランクはA〜Gの7段階の筈だろ?
アイに聞くか? でも学校で喋るなと言った手前、この場では聞き辛い。
それにこの女……えーと、夏乃だっけ? 夏乃が隣に居る中、アイに話しかけるなんて危険な行動は極力避けた方がいいだろう。
仕方ない。気になるがここは家まで我慢を…………んっ⁉︎
その時、胸ポケットからバイブレーションを感じた俺は、すぐさま端末を取り出す。
すると画面にはアイの姿は無く、代わりに【新着メール一件】と表示されていた。
俺は特に疑問も持たず反射的にメールを開くと、差出人はアイだった。
差出人:アイ
題名:喋るな! という事だったのでメール形式でいきます。
本文:どうせ低脳な貴方の事ですから今の話を聞いて《なんだSランクって? 遺伝子ランクはA〜Gの7段階の筈だろ?》と思ったのではないでしょうか?
うッ、まさにその通りだ。
なんだろうこの謎の敗北感は……
《そうだよ、思ったよ。》
と、打ち込むと返事はすぐに返ってきた。
差出人:アイ
題名:そうでしょうね!
本文:ふふん。貴方の浅い思考なんてお見通しですよ!
《いいから早く教えろ!》
差出人:アイ
題名:それが人にものを訪ねる態度ですか?
本文:貴方にはまず人としての最低限の礼儀から教える必要があるみたいですね?
ぐっぬぬぬッ!
こいつは文字でも俺を貶さないと気が済まねぇのか!
「ジン、さっきから何してんの?」
俺の行動を不審に思ったのか、夏乃が隣から小声で問い掛ける。
「いや、何でもない」
「ホントかな~?」
「本当だ」
夏乃は疑いの目を向けて来るが、俺は構わず端末に視線を戻す。
迂闊だった。おそらくアイへのイライラが顔に出てたのだろう。
この時代では基本的に端末機器は勉強や調べ物をする道具でしかない。
それを弄りながら表情をころころ変える俺の姿は、さぞ不審に映ったことだろう。
これからは、アイが何をしてきてもポーカーフェースを貫かなくては。
俺は気を取り直し、アイに対して大人の文書を打ち込む。
《教えて下さい、お願いします》
差出人:アイ
題名:そこまで言われちゃ仕方ないですね。
本文:この時代はAランク者を頂点としたピラミッド型社会ですが、世界にはその枠をも超えた九人の規格外の天才が居ます。その人間の事をSランクと呼ぶのです。
《その九人の一人が、あの女って事か?》
差出人:アイ
題名:調べました!
本文:【夏乃花美】で検索してみたんですが、写真も一致しますし間違いないです。
マジかよ。
こいつが世界に九人しか居ない天才? 全然そんな風に見えない。むしろ只の馬鹿だと思ってた。
チラリと夏乃の方へ視線を向けると、彼女もこちらを向いており、俺たちは必然的に目を合わせる。
「どうしたのジン? 恋愛教えてくれる気になった?」
「なってない」
「ちぇ、ケチ!」
そもそも何でその天才が恋愛なんてもんを知りたがる?
お前は勝ち組の中の勝ち組、人生を約束された人種だろうが。
――――私に恋愛を教えてッ!
屋上でのあの一言を思い出し、俺は無性に腹が立ってきた。
こっちは必死こいてランク上げしなくちゃいけないのに、そんな天才の道楽に付き合ってられるか!