第六幕 第二場
軍用車が道路の段差部分を踏み越えてその車両を揺らし、わたしを物思いから現実へと引きもどした。しばらくのあいだ、エリックとの思い出を振り返っていた。わたしはエリックによって命を救われ保護された。いままで大人たちに裏切られひどい仕打ちを受けてきたわたしにとって、それははじめて人を信用できると思ったできごとだった。
窓の外に目をやると、見慣れた風景が見えてくる。もう少しでエイトへと到着するだろう。わたしは横で車を運転するルイス・ベイカーに視線を向けた。
「アリスを助けたのなら、わたしを自由にするって話、もう一度確認させてくれベイカー」
「ロリーナ、きみは疑り深いな。もう少しわたしのことを信用してほしいものだな」
「信用した結果エリックは死んだ」わたしは語気を強めた。「かならず助けると言ったのに」
「それについてはほんとうにすまないと思っている。だがきみたちが捕まったとき、彼はもうすでに末期状態だった。助かる見込みは低かった。だが最先端の医療技術で延命させ、そのあいだに最高の医療スタッフをそろえて手術した点について、その努力は認めてほしい」
「結果の出ない努力なんて、ほめようがないね。それよりも今後いっさい干渉せずに、わたしを自由にしてくれるんだろうな」
「ああ」ベイカーは口元に笑みを浮かべると、ゆっくりとうなずいた。「保証するよ」
「それだけじゃない。エリックの汚名もそそぐんだ。国のためにその手を汚してきた人間を、ただの殺し屋の殺人鬼として葬るのはゆるせない。あいつはあんたらの命令で人を殺してきたんだ、この国のためを思ってね。断じて殺人鬼なんかじゃない」
「それはむずかしい話だが努力してみるよ」ベイカーは気難しげな顔つきになる。「ロリーナ、わかってもらいたいんだが、戦後枢軸国のおこなった非道な人体実験が明るみになり、国際世論からひどく非難されたんだよ。そのためわが国において、人道を無視しておこなわれていた兵士育成計画である超人化計画は、世の明るみにすることはできないんだ」
「だからってエリックだけに汚名を着せて、自分たちは素知らぬ振りをするというの。そんなのぜったいにゆるさないわよ」
「もちろんわたしだって、そんなことはしたくない。だが当時超人化計画にたずさわっていた人間は第一次世界大戦を生き抜いた軍人たちだ。戦後、当時陸軍少将であったロック・チャーチルらが中心となって秘密裏にいくつかの極秘プロジェクトをおこなっていた。そんな彼らも第二次世界大戦を経て戦死したか、または戦後、高齢のため老衰で亡くなっている。生き残っていた関係者はチャーチルの右腕として活動していたハートマン上院議員だけだったんだよ。だからわれわれもきみたちを確保するまで、その計画の存在自体を知らなかった。だから軍上層部もこの件の扱いについて、いろいろともめているんだ」
「まったくどいつもこいつも」
わたしは苛立ちから舌打ちすると、頬杖をついて窓の外を見やる。どうやら戦後超人部隊を解散させ、その生き残りを秘密裏に殺し屋として活動させていたのは、ハートマンという人物らしい。最初の頃は何人かいた超人部隊の生き残りも、その危険な任務故により、しだいに人数は減ってしまい、やがてエリックがその最後のひとりとなってしまった。
わたしはエリックとともに、その危険な任務をおこなっていた。わたしがターゲットとなる人物、もしくは周辺の人々に対してさりげなく、その地肌にふれて情報を集める。集めた情報をもとに、エリックが人知れずターゲットを抹殺する。
殺し屋の手伝いをするにあたって罪悪感がなかったわけではないが、わたしはその手伝いをつづけた。世のなかには弱者をいたぶり、平然とした顔で生きている悪党がいる。そんな悪を排除し世に平和をもたらすための仕事だ、と自分を半ば無理矢理納得させたのもその理由だが、やはりこの危険な仕事で、エリックを失いたくなかったのがいちばんの理由だった。
そんなある日、いつものように仕事を終えると、エリックとともにカフェに立ち寄る。そしてあたたかいお茶を飲み、いま生きていることをあらためて実感する。それは仕事が終わったあとの、わたしたちの日課となっていた。
「ロリーナ、おれの手を握ってくれ。そしていまおれが何を考えているの教えてほしい」
「わかった」わたしはうなずいた。
ときどきエリックはこうしてわたしに手を握るよう、お願いをしてくるようになっていた。そんなときは大抵が、自分で自分の気持ちがわからなくなってしまったときだ。
わたしはエリックの手を握った。「……仕事を無事に終えることができて安堵しているよ」
「そうか。そういうときはどんな顔をすればいい?」
「うれしかったら、笑えばいいんじゃないの」わたしはにっこりと笑みを浮かべる。
するとエリックはほほ笑んだ。
はじめて出会ったときのような無表情なエリックはもういない。わたしといっしょの日々を過ごすうちに、エリックの感情がその顔に表れるようになっていた。表情豊かとまではいかないが、その顔を見て感情を読み取ることはできる。大きな進歩だ。
いつの日かエリックがふつうの人間のように、笑い合えるときが来ると信じていた。だがそれよりも前に、ある事件が起きてしまう。
そのときわたしは家で留守番をしていた。エリックの帰りを待ちわびながら夕食を作っていると、玄関から物音が聞こえてきた。わたしはエリックが帰ってきたのだと思い、玄関に出迎えに向かった。
「おかえりエリック」
そこにはエリックが立っていた。だがしかしその表情はけわしく、その手には拳銃が握られていた。それを見てわたしは何かがあったのだとすぐさま悟った。
「……どうしたのエリック?」
「……仕事の打ち合わせで上官に会いに行っていた。そのときにロリーナ、きみの話題があがった。どうやら上官はおれときみで仕事をしているのを目撃したらしく、きみが何者か問いただされた。それできみのことを話したら、情報機密のためにきみを殺せと命じられた」
その瞬間、わたしの頭のなかが真っ白になった。殺す? だれを? わたし? だからエリックは拳銃を手にしている。
わたしはおそるおそる問いかける。「わたしを殺すの?」
「……ロリーナ」そう言ったエリックの表情は依然としてけわしい。「きみは最初に出会ったときに訊いたよね、どうして自分を助けたのか、と」
「ええ、覚えている」わたしは小さくうなずく。「そしたらあなたは自分でもなぜ助けたのかよくわからない、と答えたわ」
「そのときの答えが、いまになってようやくわかった。きみがおれに感情を教えてくれたおかげだ。だからあのときの問いにいま答えるよ」エリックはそこで長々と間を置いた。「おれはきみが死ぬのを見たくなかった。たぶんおれは人が死ぬのを見るのがいやだったんだと思う。だからきみのことを助けた。死んでほしくなかったから」
「そうだったんだ」
エリックはうなずいた。「だから人を殺して、その死に様を見るのもいやだったとわかった。だけどおれはたくさんの人を殺してきた。けどその事実に目を向けたくなくて、おれはそのことにかんして無関心を装っていたと理解したよ。そのことを気づかせてくれたのは、ロリーナきみがそばにいてくれたおかげだ。だからきみのことは殺したくない」
「……でもわたしを殺せと命じられたんでしょう」
「ああ、だから殺したんだ上官を。きみを死なせたくなかったから」エリックの手から拳銃がこぼれ落ちた。「生まれてはじめてだったよ、自分の意志で人を殺したのは。これでおれはお尋ね者だ。長くは生きられないだろう。もうきみとはいっしょにはいられない。だからきょうでお別れだロリーナ。これ以上おれといっしょにいると、きみは不幸に——」
わたしは思わずエリックの胸に飛び込んだ。「いやだ!」
「ロリーナ?」エリックのとまどうような声が聞こえた。
「いままでいっしょにいたのに、別れるなんていやだ。それにエリックはわたしのために人を殺したんでしょう。そのせいでエリックの命が危険にさらされるなんて、わたし耐えきれない。だからいっしょに逃げましょう。お願いエリック!」
エリックは何も言わず、ただわたしをやさしく抱きしめてくれた。
こうしてわたしとエリックの逃亡生活がはじまった。わたしたちは住居を転々としながら人目を隠れて、静かに暮らすようになった。このまま追っ手の手を振り切って、安住の地を見つけてやると、わたしは決心していた。
だがその考えはまちがいだった。エリックの言っていた、お尋ね者になり、長くは生きられないだろう、ということばのほんとうの意味を理解していなかった。そのときのわたしは知らなかったが、エリックたち超人化計画で育成された兵士たちは、幼い頃からさまざまな薬物を投与されていた。そのため副作用で、ある種の特別な薬を飲まなければ、免疫機能がいちじるしく低下し、病魔に冒されてしまう危険があったのだ。上官を裏切り殺してしまったエリックには、その特別な薬が入手できるはずもなく、免疫機能は日々低下し、やがて病に冒されて倒れてしまった。
長くは生きられない、そのときになってようやくそのことばの意味を理解した。エリックは上官を殺した時点で、自分は長くは生きられないことを知っていた。それでもわたしのために、上官を殺し、わたしを生かすことを選択した。そして自分の死でわたしを悲しませないよう、別れを告げていたのだ。だけどわたしはそれを拒否し、エリックといっしょに暮らしつづけることを望んだ。
エリックは自分の死の運命を悟らせないよう、その事実を心の奥底へと封印した。
昔から人の心を読んでいたわたしは、人の心ならなんでもわかると思いあがっていた。だからエリックが倒れるそのときまで、その事実に気がつかなかった。もっと早くに気づいていれば、どうにかなっていたかもしれないというのに。
わたしは自分の愚かさを恥じると、すぐにエリックを病院へと連れて行った。だがそこでわたしは、指名手配されていたエリックとともに警察に捕まってしまう。
わたしは必死になって訴えた、何でもするからエリックの命を救って、と。そしてエリックがいままでしてきたことを全部話した。わたしを救ってくれたこと、殺し屋としてこの国のために働いていたこと、さらには自分のためにエリックが上官を殺してしまったことを。
警察はわたしの話を聞いて驚きとまどっていた。どうやら自分たちの手では扱いきれない事件だと判断したらしく、それからしばらくして軍服姿の男がやってきた。そいつはルイス・ベイカーと名乗った。
ベイカーはわたしに取引を持ちかけた。わたしが持つ人の心を読む力で、エイトでの研究に協力すればエリックを助ける、と。わたしはその取引を受けが、エリックは助からなかった。
ベイカーにエリックが危篤状態だと告げられると、わたしは病院へと向かった。そこにはやせ細ったエリックがベッドで横になっていた。最後に見たときとはまるで別人だ。痛々しいその姿に思わず涙があふれてくる。
わたしの姿に気づいたのか、エリックがこちらに手を伸ばす。わたしはその手をつかんだ。
エリックはほほ笑んだ。「ありがとう……ロリーナ」
それがエリックの最後のことばだった。エリックの死を見届けたあとのことは、自分でもよく覚えていない。ただいつまでも泣いていたことだけはよく覚えている。




