八 恋着
ここから軽い性的描写が入ります。
苦手な方はご注意ください。
「妾」という言葉に、翠玉の胸が痛んだ。
息が苦しくなったのは、寝台に押さえ付けられ身動きが取れないからだけではない。
視界を塞ぐ夫の顔は影になっていて、どんな表情をしているのかはよく見えなかった。だが何処かが痛むのか、という様な苦しげな様子は何となくわかった。
それでいて危険な雰囲気を漂わせていて、抵抗するのも躊躇われたのだが。
「……貴方こそ、私をそんな風に思っていたのね」
視線を逸らし、不自由ながら首を横に回して呟く。
これは本人以外誰も知らない事だが、戴剋は生前翠玉に指一本触れなかった。
生家にいた頃に婚約者もいた。しかし清らかな関係で終わった為、当然今も男性経験はない。戴剋の本意は今となっては不明だが、側室とは言っても人目に触れさせず、ただ大事な孫娘の様に扱われていた。
世間一般の側室がどの様に見られているか、彼女も知らないわけではない。ましてや自分は戴剋が亡くなる寸前まで、片時も離されず側に侍していた。いくら遺言があっても内実は所詮身分低い愛玩用の女、そういう扱いなのだろう。
結婚当初は翠玉もある程度の覚悟はしていた。けれど碩有は自分を本当に大事に扱ってくれたから、この人は違うのだと思い始めていたのだ。考えてみれば高が結婚して半年。仮面が剥がれただけの事かもしれない。
そう思うと、何もかもがどうでも良いと思えて来た。
「ならばその様に扱われたらよろしいじゃありませんか……もう、思い悩むのは沢山です」
翠玉は目を閉じた。
何だかよくわからないが、怒らせたのだから殴られたりするかもしれない。せめてその時、碩有の顔を見ていたくなかった。
自分がよく知る彼は、いつも優しく暖かに微笑んでいたから。
全くの暗闇が訪れる。碩有と己の息遣いだけが、彼女の五感を支配した。
どの位そうしていたものか。予期したそのいずれも訪れず、恐る恐る翠玉は目を細く開けた。
いつの間にか、身体が自由になっている。碩有は上体を起こして妻から離れていた。
「……済まなかった。少し、取り乱してしまった」
寝台の縁まで動いて、向こうを向く様に腰掛け前かがみになる。肘を膝に付け、両手で顎を支えた。ひどく打ち沈んでいる風に見える。
「確かにこれでは、あの男と何も変わらないな……」
小さな声で、ぼそりと呟く。
「碩有様?」
立ち上がった背中に翠玉は思わず声を掛けた。
「しばらく、こちらには来ません。全てが片付いたら、改めて事情を話しに伺います──ですが」
碩有は振り返り、いつものあの思いつめる様な目で彼女を見つめた。
「私は榮葉をここに置くつもりで引き取ったわけではない。彼女とはこれからどうこうする気も全くない──妻は貴女だけだ。それだけは、信じていて欲しい」
翠玉が咄嗟に返事出来ずにいる内に、彼は戸口へと歩き出してしまった。
「……待って!」
寝台から転がり落ちる様にして夫に追いつき、背中に縋りつく。
今この人を去らせてはいけない、そう思ったら身体が動いてしまっていた。
広い背中は凍りついた様に動きを止めている。
構わず彼女は頬を当てた。しどけない格好など出来はしないが──思えば、彼女から夫に手を伸ばしたのは結婚以来初めてだ。
「行かないで、ください」
「翠玉……?」
「私が飾られるだけの妻でないと言うのなら、証明して見せてください。それともこんな事を言う女は、『妾』扱いをされますか?」
啖呵を切ったはいいものの、それ以上どうしていいかわからず、不安な面持ちで翠玉はただ彼を見上げていた。
ゆっくりと振り返った彼は、何ともいえない表情を浮かべた。あまりに妖艶な印象に、瞬時に翠玉の心音が早くなる。
大それた事を言ってしまったのかもしれないと、少しだけ後悔した。
「……いいえ。でもそんな風に言われると……」
低く間近で囁いたかと思うと、彼は上体をかがめ妻の唇に自分のそれを重ねた。
軽く触れるだけだったものがあっという間に深く激しくなり、頭の奥が痺れそうになる。
「私の歯止めが効かなくなるかも……しれません」
慣れない舌の動きに戸惑う翠玉から一瞬唇を離し呟くと、再び重ねて絡め取り、繰り返す。
ようやく開放された時、既に翠玉は身体に力が入らない状態になっていた。床に倒れそうになる身体を抱き上げ、碩有は寝台に今度は優しく横たえる。動きはよどみなく、唇で顔から身体をなぞりながら帯を解き、次々と妻の衣服を脱がしていった。
口付けが終わった時点で頭が真っ白になっていた翠玉は、気づけば自分の上半身が露にされている有様だったので、更に混乱した。出来るものなら逃げ出したい。赤面しながらも、薄明かりの下に初めて見る夫の身体に目が惹き付けられる。
背広をすらりと着こなしていた普段とは違って、無駄なく付いた剥き出しの筋肉が見えた。仄かな灯りに鎖骨から連なる隆起が照らされ、美しい中にも猛々しさを思わせる。
宣言通り碩有の動きは止まらない。常々彼女が密かに見惚れていた長い指で、唇で、舌で全てを感じ取ろうとするかの様に触れる。その度に、白い肌はそれに反応し薄紅色に上気していった。身体の中心が落ち着かない感覚に支配される。
びりびりと弦を弾かれる様な、かつて感じた事のないそれに翠玉が戸惑っていた時、夫の指がその場所に入り込んで来て思わず声を上げた。
「え……待って……そん、な」
碩有は妻の制止を聞き入れなかった。ただ掠れる声で、
「……力を抜いて」
と言っただけで、指を更に動かし奥に突き進む。
およそ人間の指が入るなど想像も付かなかった場所に、それが入り込むだけでなく中をかき回されるとは──信じがたいと共に、恥ずかしくて堪らない。しかも動きに伴って甘い痺れの様な感覚はどんどん上昇して行く。
溢れ出るもので、やがて指は水を混ぜるのに似た音を立て始めた。
「ああっ……!」
自分が出しているとは思えない程、切なげな声が漏れる。
碩有の指が更に奥へと進んだその時、彼は唐突に動きを止めた。
驚愕した様に妻を見る。
「翠玉、貴女はもしかして──」
「え」
何かおかしな事でもあったのだろうかと、翠玉も不安げに見返した。
だが次の瞬間には碩有は彼女の唇を自分のそれで塞ぎ、更に指の動きを激しくした。
荒い息遣いと、お互いが動く音が響き渡る。
理性は根こそぎ奪い去られ、翠玉は深く考える余裕を全く与えられなかった。
故に受け入れた時に夫が一層自分を気遣い始めた様子にも、翌朝目が覚めて冷静になるまで、さして疑問を持つ事はなかったのである。
※※※※
──まさか、初めてだとは思わなかった。
疲れきって寝入ってしまった妻を腕に抱きながら、碩有は愕然としてその寝顔を見つめていた。
普段は天真爛漫に見える翠玉が快楽に惑う姿は艶かしく、触れた瞬間から彼は己を制御するのが非常に難しいと悟った。中に入る時は流石に何とか自制したが、今も穏やかに寝息を立てている姿を眺めるだけで、切実な衝動にともすれば駆られそうになる。
これだけの美しい女を、祖父は何故手付かずで置いたのだろう。
病み付くまでは健康そのものだったと、医師からは聞いていた。最盛期には数十人もの美姫を六天楼に揃えた戴剋が、最後に迎えた側室に何もしなかった、というのは俄かには信じがたい。それでなくとも、翠玉への寵愛ぶりは屋敷内に知れ渡っていたのだから。
──翠玉を、大切にするのじゃぞ。
戴剋の言葉が、脳裏に蘇る。
祖父は気づいていたのだろうか。自分が遊学を隠れ蓑に屋敷に寄り付かなくなった理由を。
碩有は汗に湿って額に掛かった翠玉の前髪を、手を伸ばして払い除けた。長く艶やかな黒髪は、乱れた後を示して枕に滝を形作っている。
「……ん……」
腕の中で、僅かに身じろぎし吐息が漏れた。煙る様な睫毛に縁取られた瞼が震える。
今目覚められたら、自分はまたも執拗に妻を求めてしまうかもしれない。
だがそんな碩有の危惧を嘲笑うかの様に、翠玉はまたも深い眠りに落ちて行った。僅かに上下するきめの細かい肌──胸元には、碧玉の首飾りが相変わらず煌いている。
安堵と落胆の入り混じった複雑な思いで、彼は夜明けまでの僅かな時間を眠らずに過ごした。
己の中の『執着』という名の魔物と戦いながら。