九 囚われ人
──碩有様?
頬に柔らかく触れられる気配を感じて、翠玉は眠りの世界から徐々に抜け出ようとしていた。
現つとも思えぬ不確かな意識の内に、自分に寄り添っていた夫の温もりを感じていたのを覚えている。
──そうだ、昨晩……。
『私がお飾りの妻でないと言うのなら、証明してみせて下さい』
碩有は彼女に証明してみせてくれた。充分過ぎる程に。
──私ったら、何て台詞を。
記憶と共に羞恥を取り戻し、勢いよく瞼を開ける。
うっすらと光が射し込む寝台の中、猫の鳴き声が聞こえた。
「……莉」
どうやら、頬を撫でていたのは莉だったらしい。
「何だ……お前なの」
首を巡らせて左を見ると、寝台には自分と枕元に座っていた白い毛玉の様な姿の愛猫のみ。応える様にまた一鳴き声がした。
上半身を起こして、莉を抱き上げようとして気付く。
──私、寝着を着ている。
一瞬昨晩の事は妄想が為せる夢かと思いそうになったが、首には首飾りが掛かったままだ。辺りを見回しても確かにいつもとは寝具の様子が違う。普段上げてある帳が下りていて、外が見えない様になっていたのだ。
となれば導き出される答えは一つしかない。
「あの、翠玉様……お目覚めになられましたか? もし宜しければ、帳を開けさせて頂きますが」
ぼんやりと人影が布地に写って、紗甫の躊躇いがちな声がした。
翠玉は慌てて首飾りを外すと「ええ、いいわ」と出来るだけ冷静に返す。
程なく音がして、開けられた場所から清々しい光が真っ直ぐ彼女に降り注いで来た。朝というには、時が過ぎているのだとようやく気づく。
「おはようございます」
侍女の振る舞いはいつもと変わらない。変わったのは自分の方だろう、振り払おうとしても昨夜の出来事が頭から離れない。
「湯殿の支度が出来ておりますので、ひとまずこちらにお召し替えを」
差し出された着物を羽織ろうと、寝台から立ち上がる。途端に全身にきしむ様な痛みを覚えた。
怪我のそれまでは行かないが──まさか、昨夜の行為のせいだろうか。そう気づくと顔が火照るのを止められない。
「どうかなさいましたか?」
「あ、いえ。何でもないのよ。それよりも、この子をお願い」
翠玉は猫を侍女に預け、覚束ない足取りで房の隣の湯殿へと歩いていった。
──夫婦というものが、あの様な真似をするなんて知らなかった。
湯殿を使えば頭もさっぱりするかと思えばそうでもない。むしろ身体が暖まって、ますます思考ばかりが空転している気がする。
留守を紗甫に任せて中庭の四阿に出向き、脇を流れる遣水を橋から眺めながら彼女は途方に暮れた。
──次に碩有様とお会いする時、どの様な顔をすれば良いのだろう。
生家にいた時も六天楼に来てからも、こういった類の知識に付いて知る機会はほとんどなかった。知っていたら、あんな事はとても口に出せなかっただろう。
「……はあ」
思わず溜息が零れる。
「こんな所で溜息ですか」
背後から声がして、文字通り翠玉は固まった。
「全く貴女は、西楼の掟を悉く無視してよく出歩きますよね」
怒りの声音ではない、諦観とも取れる穏やかなもの。ただ声を掛けられただけなのに、全身が震えた。
恐る恐る振り返る。
「……碩有様。どうしてここに? まだ、執務中では」
碩有は破顔した。
「少しばかり抜け出して来たのです。庭に貴女の姿が見えたもので、また迷っているのかと」
翠玉が辺りを見渡すと、確かに遠目にではあるが誰かの部屋が木々の合間に見える。一人になりたくてぶらりと庭に出た。偶然見付けた瀟洒なこの建物が気に入って来てみたのだが、こんなに奏天楼に近かったとは気付かなかった。
「わ、私だっていつもそんなに迷ってばかりいませんよ」
ばつが悪くなって、つい尖った言い方になってしまう。
だが碩有は気分を害した様子もなく、彼女の隣に立って橋の欄干に手を掛けた。
「そうですか? 貴女の飼い猫、莉でしたか──あれもよく迷い猫になりますよね。飼い主に似ると言うのは本当らしい」
翠玉は答えに詰まった。確かにそうかも、と思ってしまう。だが。
「籠に入れたり紐に繋ぐのは可哀想だから、放し飼いにしているのです。ちょっと出歩いてばかりだけど……猫は本来、気紛れなものでしょう?」
言い逃れてみようと試みる。碩有はそれには答えなかった。代わりに指を伸ばして彼女の首筋に触れる。白い中にそこだけが赤く、色づいていた。
「なっ」
「……ここ『も』、痕になってしまいましたね」
翠玉は飛びすさる勢いで夫から離れ、指された場所を己の手で隠した。召し替えの時にも考え事をしていてろくに見ていなかったのが迂濶だった──紗甫に見られたに違いないと思うと、顔に朱が上る。
「ほ、本当ですか!?」
生憎と鏡の様なものは持ち合わせていず、遣水を覗き込んでみるしかなかった。せせらぐ小川は日の光を反射して穏やかに流れ、人の姿を鮮明に捉えるには用を成さない。
ふと、伸ばしたままの手を空中で静止させ、碩有が黙ってこちらを見ているのに気づいた。
「あ、いえ別にその」
逃げたわけではない──そう言おうとした時、彼はほろ苦い表情を浮かべた。
「怯えさせてしまった様ですね」
「ち、違います。今のはものの弾みというもので」
否定しようと手を振った。その指が、彼に一本一本絡め取られる。
「でも半分は貴女にも責任があるのですよ。……気づいていない様ですが」
後頭部が別の手で引き寄せられる。
「貴女がこうして此処に在るだけで、どれだけ私が──」
近づいて来る顔に抗いがたい磁力を感じながらも、翠玉は目の前に自由な方の掌をかざすのが精一杯だった。
「ま、待って下さい! まだ昼日中ではないですかっ。こんな場所で誰かに見られたら」
碩有は待ったを掛けた妻の掌を避けもせず、笑って言った。
「では昼でなく、人に見られる場所でなければ良いと受け取っていいのですね」
「何言っているんですか!」
今までの穏やかさが嘘の様だ、翠玉は狼狽えた。こんな困らせる様な事を言う人だったなんて──確かに、引き金を引いたのは自分かもしれないが。
「……翠玉。貴女は此処から自由に出たいと思いませんか」
不意に聞こえた、真剣な声音に驚いて夫を見上げた。自分の掌がまだそこにあるせいで、表情の半分は見えないが──黒い双眸はもの問いたげで、悲哀に似たものが感じられる。
「それは一体、どういう意味ですか?」
一瞬嫌な予感がして、翠玉は眉根を寄せた。
「言葉通りです。正室も側室も、当主の妻は六天楼から出る事が表向きは禁じられて来ました。私は以前から考えていたのです。自分の妻には外を見せてあげたいと。──もし望むなら、外出用に車を使える様にしますよ」
「あ……なるほど。そうね、確かにそうなれば嬉しいと思うわ」
思わず安堵の溜息を付いて笑った。
「翠玉、もしかして何か早とちりをしたのではありませんか」
怪訝そうに図星を差されて目を逸らす。まさかここから放り出されると思ったなんて、絶対に言えない。
「何でもないですっ。それよりそろそろ、開放していただけませんか。お仕事に戻らないと部下の方々が探していると思いますよ」
ほら、人の声がする──そう言おうとして翠玉が首を巡らせた先、木々の向こうから朗世が主を探す声が聞こえた。
ただ執務を怠けた主を咎めるにしては、切迫感に溢れた響きだった。
苦笑して渋々視線を動かした碩有の顔が、一瞬にして硬く張り詰めた表情に変わる。
「朗世! 此処だ」
彼が鋭く叫ぶのと、近くの茂みから一人の男が飛び出して来るのとはほぼ同時だった。
※※※※
「御館様! これは、この文書は一体どういう事ですか!!」
目の前に躍り出たのは部下の朗世ではなく、太った中年の男だった。書類を握り締める手が小刻みに震えている。上気した表情から恐らくは怒りに拠るものと思われた。
──誰?
ここに来てより、戴剋と碩有以外の男性を見たのは初めてである。翠玉は状況の異常さに為す術もなく、立ち竦んでただ傍らの夫を見上げた。
「これはこれは、扶慶殿」
冷ややかな笑みの貼り付いた碩有の顔は、先ほどまでとはいっそ別人にさえ見える。
すい、と前に出て背中に翠玉を隠した。
「次の間にて控えている様にと伝えた筈ですが、何故この様な場所に?」
「──申し訳ありません、御館様。見張りの者の目を盗んで房を抜け出した様です」
答えたのは問われた本人ではなく、次いで茂みより現れた朗世だった。後を追う様に次々と屋敷を守っている衛兵が現れる。
「これが黙っていられるか! 何だこの書類は──儂はこんなもの書いた覚えなどない!」
朗世が手を挙げ合図すると、衛兵達が扶慶を取り囲んだ。持っていた槍で首根を押さえ、彼は正座のまま地面に這いつくばる格好にさせられる。
その手から書類を取り上げて、朗世は皺を伸ばし読み上げた。
「『領土の監督不行き届きに付き、町に悪弊及び病を蔓延させてしまいました。責任を取って免職を申し出ます。付きましては民の治療の為に私財を全てこの弁済に充てさせて頂きたく、申し添えます』──ここに貴方の爪印もあります。事実がどうであれ、この書類は正式な用紙に書かれていますので、御館様の名の元に効力を発します。召喚状にその旨記載があったと思いますが」
「だからそれがおかしいと言うのだ! その用紙は洛庁でなければ手に入らぬ筈ではないか! 貴様等、儂を嵌めおったな!!」
「無礼な! 控えられよ」
扶慶の首に槍の柄が一層食い込んだ。呻き声が聞こえる。
尚も拷問を続けようとする朗世を主の声が制した。
「止さないか。翠玉の目の前だ」
は、と短く答えて朗世は衛兵に力を緩める様に命じた。
「碩有様……」
いつの間にか背中に寄り添って布地を握り締めている妻を振り返って、彼は穏やかに微笑んだ。
「心配されるには及びませんよ。とりあえず、房に戻りましょうか」
肩に腕を回して、庇う様に扶慶の脇を通り過ぎる。
「待て──お待ち下さい! 榮葉は、あの女はどうなさるおつもりか」
「朗世、連れて行け。私もすぐに戻る」
碩有の言葉に衛兵達が動き出した。その腕越しに翠玉は振り返り、連行されてゆく扶慶を目で追う。
「あ、あの。今確か、榮葉って」
「はいはい、此処にいては危険ですから帰りましょうね」
「碩有様! 私は子供ではありませんよっ」
翠玉は無理やりに立ち止まると、夫に正面から向き直って睨み上げた。
「どういう事ですか? 説明して頂くまで、ここを動きませんからそのおつもりで」
「……困りましたね」
碩有は僅かに眉をひそめると、いきなり翠玉を横抱きに抱え上げた。
「きゃっ!?」
「話すにしても、ここから一刻も早く離れた方がいい。──私の心臓を止めたいと思うのでなければ、供も連れずに抜け出すのは金輪際お止め下さい」




