十 石の記憶
「お墓参り、聞き入れてくださってありがとうございます」
季鴬に阿坤を付けて廊下から帰すのを見送り、翠玉は言葉寡ない夫を振り返った。
その背中は既に房内を向いていて、やはり黙ったまま長椅子に身体を投げ出す。もの憂げな顔をしていた。
「碩有様」
「……わかっています。礼を言わねばならないのは、本当は私の方なのだと」
苦笑が零れる。
「今まであの人の話題は、口に出す事さえ避けていました。話してもどうにもならないと思ったからです」
体勢と同じく、何処か投げやりな口調だった。
「父を拒み正妻として母としての役目を拒み、挙句当たり前の人生さえ拒んだ。私もこの家の人間です。愛情を期待していたわけではありません。……それでも」
自分の生みの親が理解しがたい人物だという事実は、どこか触れがたい恐怖に繋がったと語る。
「聞く限りでは父はあの人をそれなりに大切にしていたのだと思います。けれどあの人は理解しようとはしなかった。父を愛せなかったから、息子の私も受け入れなかったのでしょう。楼に閉じこもり日中外に出ないが夜彷徨い歩くのも、狂気めいたものを感じていました」
彼は途方に暮れた様に自らの髪を手でかき上げた。
「同じ血が私にも流れている。ただでさえ周りは表立ってではないにせよ、あの人に似ているとばかり言うのです。いつか私も妻を迎えた時、あの様になってしまうのでは──そんな風にさえ思えて」
黙って夫の告白を聞いていた翠玉は、髪を弄び続ける手を自らのそれで止めた。
それは違うと、きっと季鴬は槙文を愛しているのだと。
本当は言いたかった。だが当の本人でさえ不確かなものを、少なくとも自分が告げるべきではない。
碩有は逸らしていた視線を妻に向ける。眼差しが恐れに揺らいでいた。
不安を払ってあげたくて、代わりに微笑みを返す。
「私は、季鴬様が嫌いではありません。……いえ、好きですよ。碩有様のお母様だからではなく、一人の同じ女性として、気持ちがとてもわかります」
欲しかったのは、「手に入れる」にはあまりに不確かなもの。傍にいても、決して叶わない事だってある。でも二人にはきっと、圧倒的に時間が足りなかっただけ。
「季鴬様のなさった事を狂気だと仰るのなら、それはとても強い感情故でしょう。冷酷な人は最初から惑いもしない。……似ていても良いではありませんか」
彼は再び視線を逸らした。何処か遠い場所を見つめている。
「……確かに今日、直に言葉を聞いて思ったのです。もしかしたら思っていたよりも、父はあの人にとって重要な存在だったのかもしれないと」
「『母上』、でしょう? そうお呼びになってはいかがですか」
一瞬怯んで言葉に詰まり、ややしばらくしてから碩有は言った。
「……母は、緋鉱石ですぐさま父を思い浮かべた。憎んでいる様には見えませんでした。ならば何故」
言いさして、決まり悪そうにする。
「何故?」
「……いえ。これはそのうち、本人に直接聞いてみます」
妙に落ち着かなくなった夫に翠玉は首を傾げた。
「急にどうなさったのです?」
「何でもありません。それより、さっき言ったのは本当ですか」
「え? どれの事でしょう」
色々言った様な気がするので、何についてか見当がつかなかった。
「母に似ているという事は、多少鬱陶しい所もあるかもしれない。それでもいいと言えますか」
挑戦的な口調に何だか可笑しさが込み上げてきて、翠玉は笑った。
「ごめんなさい。それだったのですね」
「笑いごとではありませんよ。もうわかっていると思いますけど、私は父の様に器用ではないし、多少執念深いところもあります」
「ええ、勿論知っています」
事もなげに返すと、自分で言い出したくせに碩有は憮然としたらしかった。笑いを堪えて続ける。
「その不器用さが、私には嬉しいのです」
碩有が槙文と同じ道は歩かないという証明にも思えるから。
「碩有様が私を戴剋様からの遺言だと、義務の様に扱わなくて、本当に──」
最後まで言い終わらないうちに、彼女の唇は夫のそれによって塞がれた。
「……義務だなんて、最初から思わなかった」
唇を離した時に囁かれた言葉、声の響きに翠玉の身体の奥が震えた。恐怖のおののきではなく、もっと度し難く馴染み深い疼きに。
「知りませんよ。どうなっても」
「せ、碩有様。まだ」
話は終わっていない様な気がする、そう抗議したいのに。
出来なかった。
「いつか私は、貴方を壊してしまうかもしれないのに……」
紡ぐ言葉が、苦痛の呻きに似ていたから。
「構いません、それでも」
触れた部分から、取り戻せない彼の幼い日の孤独が伝わって来る。
抱き締められたらいいのに。こぼれ落ちない様に全てを。
荒くなってゆく息の下、翠玉は碩有の頭を胸に抱き、その伏せた瞼に唇を寄せた。
※※※※
三人揃っての霊廟への訪問は、それから更に二日後にようやく実現した。
碩有が一族の古老などからの反対を押し切ったらしい、とは本人の口ではなく例によって槐苑の話である。
山とも見紛う小高い丘に、石造りの寺院の形に起伏をなす、美しくも確かに何処か寂しい場所だった。
建物はあっても、生者の気配はない。静謐だけが辺りに満ちている。
「……槙文様」
重くきしむ門扉を開けて中に入り、中央の祭壇に辿り着くと季鴬は震える声で告げた。
白き玉石で出来た繊細な装飾の祭壇の手前には、花に囲まれた棺の形をした台座。
そして花々に埋もれる様にして、黒く光る石が置かれている。
「棺の中には亡骸のみを納めるのがしきたりなので、供物と同じ扱いに致しました」
大きな廟堂の内に、碩有の声はやけに響いた。
季鴬が手を伸ばして緋鉱石にそっと触れる。
「冷たい……」
両手に包み込んだ。
「本当は、石が好きだと言った理由を今まで誰にも語った事はなかったの。変わっていると侍女達に言われそうで黙っていた。……なのにどうして貴方に言ってしまったのかしら」
亡き人への手向けの言葉だったとわかっていたから、碩有も翠玉も答えなかった。
「貴方は知らなかったでしょうけど、私は結構色んな話をした方だったのよ。……そうね。楽しかったのかもしれない」
愛おしむ様に石肌を撫でる。
「この石の冷たさが好きだったのに。不思議ね、今はとても……悲しいの」
涙を零したわけでもないのに、翠玉ははっきりと季鴬が哭いていると思った。
「素直になれなくて、ごめんなさい……」
彼が生きている間は決して口に出来なかった言葉。
消え入りそうにかすかに呟いて、石を抱いたまま彼女は項垂れ表情を隠した。細い肩が、わななく様に震えていた。
※※※※
これできっと親子の溝が埋まる。
そう思っていた翠玉の期待を裏切る様な報せが届いたのは、霊廟に参ってから僅かに二日後の事だった。
「季鴬様が邸をお出になるのですか? 本当に!?」
驚きの余り後半裏返った声のせいではないだろうが、いつもの宵始めにやってきた碩有は力なく椅子に身体を投げ出し頷いた。
「ここを出て、陵に住まいを移したいと言って来ました。それだけではなく、各所を旅して鉱石の採集を始めたいと」
「そんな──だって、あの場所には人が住める様な設備はないでしょう」
「隣に楼閣を建ててだそうですよ。母には確かに陶家だけでなく鄭家からも結構な資産が与えられていますから、自分の費用だと言われれば反対する理由はありません」
翠玉は思わず椅子に乗り上げ、額に手を当てて呻く夫の襟元を両手で掴んだ。
「だとしても、地所が陶家のものなら断れるのではありませんか。あんな周りに街もない、寂しい場所に住まわれるなんて絶対にいけません! 碩有様、まさかそれでお許しになったのですか?」
「私だって反対しましたよ。しましたが」
『元々領主の母親だって、本来は六天楼から出られなかったはずでしょ。比べれば尼僧院でもないし、辺りは自然に囲まれているし私にとっては願ってもない場所だわ。侍女に少し申し訳ないから、色々考えるつもりだけど。やっぱり私、石が好きなのよ』
それに息子の貴方はもういい大人だし、何の問題もないと思わない? 邪魔しちゃ悪いでしょ──
季鴬は妙に楽しそうに笑ったらしい。
「……いい大人と言われてしまえば、まるで私が駄々をこねている様で。それ以上は止められませんでした」
翠玉は彼女の心中がわからなかった。
碩有は今まで母と心を通わす機会を持てなかった。だから強くは止められなかったのだろう。
これが幼い頃から仲睦まじくしていた親子ならば、止める事も出来ただろうに。
会って自分からも話をと気を急いていた彼女は、ふと夫の様子を訝しく思った。
「……碩有様は、あまりお怒りではないのですか?」
悲しげでも不快げでもない。例えて言うならば諦観している風にも見えた。
「いずれにしても、楼閣が出来るまで数年は掛かるでしょう。旅はすぐに始めるそうですが、帰ったら必ずお茶に呼ばれると。そう言っていましたよ」
「何なんですか、その決定事項は……」
「鉦柏楼にいた侍女達は『昔の季鴬様に戻られた様だ』と驚いていました」
呆気に取られた翠玉の脳裏に、槙文が最後の逢瀬に語ったという言葉がよぎった。
──貴方には身を飾るものは必要ない。
虚ろに媚びる、脆く人工的な美しさではなく。
束縛を嫌いながらも自らに囚われ、それでいてこうと決めたら数十年も、変わらずに一途に思いを貫く。
確かに鉱石の様に頑固で、自然に、ただあるがままなのかもしれない。
「……槙文様は、やはり季鴬様をよく理解なさっていたのかもしれませんね……」
「え?」
石造りのあの壮麗な墓陵は、鉱石好きの少し風変わりな女性には良き居場所になるのだろうか。
その前に恐らくは、旅の土産話を嬉しげに息子に語る季鴬が見られるはずだ。
もしかしたら、自分達が子を授かった時に珍しい石の話を、子守唄代わりに聞かせてくれたりするかもしれない。
少なくとも同じ空にある限り、未来は繋がるだろう。
翠玉が傍らを見ると期せずして夫と目が合った。思わず微笑む。
「悪い話ではないですよ、きっと。──そんな気がします」
※※※※
「──仲笈の娘に墓で会ったのか」
いずれの邸か、焚き染められた香の白気にむせ返る部屋の中で男は問いかけた。
艶やかな憂いを含んだ、蠱惑的な声だった。 声が向かうのは遥か下座、貴人にする跪礼の体勢で、答える青年の声に苦いものが混じった。
「はい。よもや生きているとは思いませんでしたが」
「美貌の娘だったのだろう。買う者がいればそうたやすくは死ぬまいよ」
「それが御館様、陶家の領主の妻となっておりました。いくら美しいとは言っても大層な出世で、驚くばかりの強運でございます」
「まさか。人違いではないのか」
「あの出で立ちは見誤ろうはずもございません。それに御館様もお聞き及びでいらっしゃいますでしょう。当代の領主碩有は一瓊のみを寵愛すると有名でございます」
上座に一段上がった場所で、男が椅子の中に投げ出していた半身を起こす気配がした。
「確かに聞いている。先代より譲り受けた瓊瑶だそうだな。……さぞや見事な玉であろうよ」
楽しみが増えた、と彼は浅黒く締まった口元で薄く笑う。
整った造作にも何処か残忍さを湛えた笑みに、傍らに座ってしなだれかかる黒髪の女が、僅かに顔をしかめた。
「陶の瓊瑶ならば、我が鷲家に取って不足はなし。まずは是非とも、ひと目なり姿を見たいものだ」
「しかし、あの陶家を敵に回すのはいささか支障がありませんか」
青年は口に出してしまってから主の勘気を知ってさらに頭を下げる。
男は高らかに哄笑した。
「文弱に名高い君主よ。力でねじ伏せれば済むだけの事──朔行、お前にもひと働きしてもらうぞ」
暗雲の兆しが、陶家に忍び寄って来ていた。
─了─
ここまでお読み頂き、ありがとうございます。
第二部は終了となり、第三部へと続きます。
少し時を置く事になるかと思いますが、第三部再開時にまた、ご縁がありますと幸いです。




