第83話 迷宮の入口の機械
『霞ヶ丘迷宮 当面のあいだ立入禁止』
『夏季に各地で確認された黙者出現を受け、調査を実施します。 迷宮庁』
翌朝、管理棟を囲むフェンスに、そんな貼り紙が増えていた。
その向こうに、昨日の「何か」が立っていた。
銀色の円筒だ。高さは六メートルくらい。管理棟の二階の窓に届きそうなほど背が高い。てっぺんには金属の輪がはまっていて、そこに握りこぶし大の魔石が八つ、王冠みたいに並んでいる。魔石の奥で、薄紫の光がゆっくり脈を打っていた。
円筒の根元からは、太い黒いケーブルが何本も伸びている。何本かは管理棟の入口――迷宮へ下りる階段のほうへ。残りは、横に停められた白い大型車両へ。窓の小さい、救急車を三倍に引き伸ばしたような車だった。
フェンスの内側には、黒いスーツの男たちが何人も立っている。
「……調査にしちゃ、でかすぎる」
隣で、灰原先生がキャンディの棒を噛んだ。
「先生も、何も聞いてないんですか」
「聞いてねえ。昨日の職員会議で、校長が『迷宮庁から調査の申し入れがありました。全面的に協力します』って言っただけだ。何を調べるかは、機密だとよ」
先生の視線の先で、ちょうど校長の鶴見先生が、スーツの男の一人に深々と頭を下げていた。握手までしている。
「あの車、移動式の研究室だな。中で何かやる気だ」
「何かって」
「わからねえから、何かって言ってんだよ」
灰原先生は、めんどくさそうに頭をかいた。でも、その目は少しもめんどくさそうではなかった。
◇ ◇ ◇
「近くで見ると、もっとでかいな……」
昼休み。俺たちは弁当を持って、管理棟の裏手に回った。フェンスの角に、植えこみで警備の目が届きにくい場所がある。ひよりが先触れで見つけた場所だ。
「ほ、本当に大丈夫ですか……? わたし、さっきからずっと、ちょっとだけぞわぞわしてて……」
「ちょっとだけなら大丈夫だろ」
「ちょっとだけが、ずっと続いてるんです……」
ひよりは大河の背中に半分隠れて、それでも短い弓の入った袋を抱きしめていた。持ってくる必要はなかったと思うが、持っていると落ち着くらしい。
フードの中で、ルルがもぞもぞと身じろぎした。
〈湊。我は、あれが好かぬ。いやな匂いがする。全身の毛が逆立つ〉
「お前、全身が毛だろ」
〈だから全身が逆立っておるのだ〉
確かに、フードの中の毛玉がいつもより一回り大きくなっていた。
俺は、フェンス越しに円筒を見上げた。
昨日、窓から見えた模様。近くで見ると、やっぱりそうだった。細い線が何本も絡み合った、植物の蔓のような形。円筒の表面を、上から下まで、びっしりと埋め尽くしている。
迷宮文字だ。
「真白。読めるの」
鷹宮が、声を落として聞いてくる。
「……たぶん。少し待ってくれ」
目を細める。天啓を受けたばかりのころなら、迷宮文字は模様にしか見えなかった。今は違う。蔓の一本一本が、意味の形をしている。じっと見ていると、絡まった糸がするするとほどけるように、言葉が浮かび上がってくる。
ほとんどは、よくわからない専門用語みたいな並びだった。〈流れを、束ねよ〉〈境を、越えて〉〈一点へ〉。迷宮の壁に刻まれた文字よりも、ずっと硬くて、冷たい書き方だ。
それから、てっぺんの輪の周り。魔石と魔石のあいだに、ひときわ大きな文字が、ぐるりと二つ、交互に刻まれていた。
〈吸い上げよ〉
〈閉じよ〉
背中を、冷たいものが滑り落ちた。
閉じよ。
頭の中で、母さんの手帳のページがめくれる。十二冊目。破れたページの手前に残っていた、あの一行。
――この扉は、閉じてはいけない。
そして、迷宮庁の翻訳装置が訳した、母さんの最後の言葉。
――門を閉じよ。
「湊くん……?」
ひよりの声で、我に返った。手のひらが、汗でじっとりしていた。
「……『吸い上げよ』と、『閉じよ』だ。てっぺんに、そう書いてある」
みんなの顔色が変わった。
大河が、ゆっくりと円筒を見上げる。
「閉じよって……迷宮を、ってことか?」
「わからない。でも、少なくとも、ただの調査機械じゃない」
雫がスケッチブックを開いて、すばやく書いた。
『吸い上げる、って、何を?』
「……それも、わからない」
わからないことだらけだ。でも、一つだけはっきりしていた。先月、物干し台の上でみんなに話した手帳の言葉と、あの円筒に刻まれた言葉は、正反対を向いている。
「特務課の案件ね」
鷹宮が、低く言った。フェンスの内側の黒いスーツたちを、射抜くような目で見ている。
「あの立ち方、育成生の訓練で何度も見た。……黒崎教官のところの人たち」
「なあ、いっそ壊しちまえばいいんじゃねえか?」
「犯罪よ」
「む、むりむりむり! 捕まります! わたしたち全員、捕まります!」
ひよりが大河の袖を引っぱる。大河は「冗談だって」と頭をかいた。……半分くらいは本気だった顔だ。
放課後、俺は職員室の隣の狭い準備室で、灰原先生にすべてを話した。
先生は黙って聞いていた。聞き終わると、キャンディを口から出して、机の上の電話の受話器を取った。
「……霞高の灰原です。お宅の調査機器の件で。……ええ。……ええ、担当の方に。……は? お答えできない? うちの生徒が毎日通う場所の真上ですよ。……ああ、そうですか。わかりました。どうも」
がちゃん、と受話器が置かれた。
「門前払いだ」
先生はキャンディをくわえ直して、天井を見上げた。
「あー……めんどくせえ」
その声は、いつもの「めんどくせえ」とは少しだけ違って聞こえた。
「真白。しばらく、あれに近づくな」
「でも」
「近づくな。俺がもうちょい調べる。……お前が一人で突っ込んでいって、何かあったら、俺が困るんだよ。書類とか」
書類の心配をする顔では、なかった。
準備室を出てから、俺はスマホを取り出した。夏に迷宮庁で会った言語研究室の研究員、九条さんの連絡先を開く。
『迷宮庁の調査機器が学校に来ました。表面に迷宮文字で「吸い上げよ」「閉じよ」と刻まれています。何か知っていますか』
返事は、五分後に来た。
『ごめん、言語研究室には何も降りてきてない。たぶん特務課の案件。こっちでも探ってみる。……気をつけて。本当に』
最後の一言だけ、少し間を置いて打たれたような気がした。
昇降口では、雫が靴箱にもたれて待っていた。
俺を見つけると、スケッチブックを開いて、昨日のページを指さす。ふくれっつらのルルの絵。その下に、昨日はなかった一行が書き足されていた。
『あとで、って言った』
「……覚えてたか」
雫は、こくりとうなずいた。逃がしてくれる気はないらしい。
俺は靴を履き替えながら、昨日言えなかったことを話した。五組のみんなにも、たぶん本当の名前があること。でも二十人分は読めそうにないこと。読めなかったときのことを考えると、怖くて言い出せなかったこと。
雫は最後まで黙って聞いて、それからゆっくりとペンを動かした。
『こわいのは、読めないこと? がっかりさせること?』
「……後のほう、かな」
雫は少し考えて、もう一行。
『湊くんは、いつも、ひとりで読もうとするから、こわいんだと思う』
思わず、雫の顔を見た。
雫はスケッチブックで口元を隠して、目だけで小さく笑った。ページの隅には、蔓の文字をみんなで引っぱっている、小さな人たちの絵が描き足されていた。
「……覚えとく」
雫は満足そうにうなずいて、俺の袖を軽く引いた。帰ろう、という意味だ。
昇降口を出ると、日はもう傾きかけていた。
正門の前に、黒い車が一台停まっていた。磨き上げられた、窓の黒い車。ドアに、小さく迷宮庁のマーク。
その後部座席に、一人の男子が乗り込もうとしていた。
明るい茶髪。高い背。一組の制服。
――御堂だ。
御堂は、ドアに手をかけたところで、ふとこっちを振り向いた。
目が合った。
一瞬だけ、御堂の口が何か言いかけたように動いた。いつもの、人を見下すような笑いじゃなかった。夏の森で、木の根元にうずくまっていたときの顔に、少しだけ似ていた。
でも、言葉にはならなかった。
御堂は目をそらして車に乗り込み、ドアが閉まった。黒い車は、音もなく正門を出ていく。
雫が、俺の袖をつかんだまま、小さく首をかしげた。今の、なに、という顔だった。
答えられなかった。俺にもわからなかったからだ。
ただ、御堂のあの顔が、管理棟の前の銀色の円筒と、どこかで繋がっている気がして――俺はその場に立ったまま、車が見えなくなるまで、ずっとその方角を見ていた。




