第2話 森の奥の群れ
翌朝、第一階層の小川に着くと、対岸の草むらが揺れた。茶色い背中がちらりと見える。
「あ、いた!」
鹿に似た魔物の群れだ。この前見かけたのと同じやつらだろうか。追いかけたいところだけど、先にばあちゃんの香草を採らないとな。
俺は小川に沿って少し上流へ歩き、水辺の石の間に生えている細長い葉を見つけた。一枚摘んで匂いを確かめると、指先からすっとした香りが広がった。間違いない。ばあちゃんに頼まれたやつだ。
葉を傷めないように茎を切り、布袋へ入れていく。小さな芽は残して何か所か回り、十分な量を採ったところで《無限収納》へしまった。
顔を上げると、さっきの群れはまだ草原にいた。数は五頭。淡い縞模様のある体に細長い脚を持ち、大きな三頭には角が伸びている。残りの二頭はまだ子供らしく、大人たちの周りを走り回っていた。
小川を渡って少し離れた岩に腰を下ろすと、一頭がこちらを見た。しばらく耳を動かしていたけれど、やがて草を食べ始めた。
やがて大きな一頭が森へ向かって歩き出し、残りもその後に続いた。俺は岩から腰を上げ、距離を空けて群れの後を追った。
森へ入ると、枝葉の隙間から日差しが差し込んでいた。群れは慣れた様子で木々の間を進んでいく。子供の二頭は途中で寄り道をしたり、互いに追いかけっこをしたりしていた。そのたびに最後を歩く大人の一頭が足を止め、子供たちが追いつくのを待っていた。
「ははっ、置いていかれるぞ」
子供たちは慌てて仲間のところへ駆け戻った。
森の奥へ進むと、木々に囲まれた草地が現れた。中央には小さな泉があり、周囲には柔らかそうな草が茂っている。水辺からは細い獣道が何本も伸びていた。
ここなら前に一度来たことがある。
「へえ、こいつらもここを使ってたんだ」
泉へ着くと、大人の二頭が水を飲み始めた。残る一頭は顔を上げ、周囲の木々へ耳を向けている。子供たちはそんなことも気にせず、草地を駆け回っていた。
俺は近くの木にもたれ、その様子を眺めていた。
子供の一頭が草地の端にある倒木へ向かった。幹から伸びた太い枝のすぐそばに、岩が突き出している。もう一頭に追いかけられた子供が、勢いよく幹を飛び越えようとした。
「あっ、危ない!」
後ろ脚が倒木から伸びた太い枝と岩の隙間へ落ちた。体勢を崩した幼獣は横倒しになり、甲高い声で鳴き始めた。起き上がろうとしても、挟まった脚が抜けない。
「おいおい、大丈夫か?」
俺が木陰から出ると、さっきまで周囲を警戒していた一頭が飛び出してきた。幼獣の前に立ち、頭を低くして二本の角をこちらへ向ける。
「待った待った! 助けたいだけだから」
一歩近づくと、相手は地面を強く踏み鳴らした。今にも突っ込んできそうな勢いだ。
このままぶつかってきたら、あの細い角が折れるかもしれない。
俺は両手を下ろし、ゆっくり後ろへ退いた。
「分かった。そっちからは行かないよ」
そいつは幼獣のそばへ戻り、鼻先で体を押し始めた。幼獣も何度か立ち上がろうとしたけれど、挟まった脚は抜けそうにない。
俺は木々の間を回り、倒木の反対側へ向かった。
幹は両腕でも抱えきれないほど太く、根元の一部が土に埋まっている。幼獣の脚を押さえている枝は、幹から伸びたまま岩に引っかかっていた。
枝が岩から離れるように、幹を持ち上げればよさそうだ。ただ、急に動かすと脚を痛めてしまうかもしれない。
俺は幹の下に左手を差し入れ、少しだけ持ち上げた。枝と岩の隙間が広がるのを確かめ、そのままゆっくり力を加えていく。
めきめきと太い根が引きちぎれる音がした。土に埋まっていた根元が浮き上がり、幹に絡みついていた蔦が次々に切れていく。周囲の地面まで盛り上がると、幼獣を守っていた魔物が驚いたように飛び退いた。
すぐに幼獣の前へ戻ろうとしたものの、俺が幹を支えているのを見て足を止めた。
俺は左手で幹を動かないように支えながら、右手で幼獣の足元に垂れていた細い蔦をどけた。枝と岩の間には、後ろ脚を引き抜けるだけの隙間ができていた。
「ほら、これで抜けるだろ」
幼獣はなかなか脚を動かさなかった。見守っていた一頭は俺を一度見てから幼獣へ近づき、鼻先を体に押し当てて短く鳴いた。
その声に顔を上げた幼獣は、身をよじりながら後ろ脚を引き抜いた。
「お、抜けた!」
幼獣が枝から離れると、俺は倒木を岩のない場所へ移した。根元を地面に下ろし、転がらないように置いた。ずしんと重い音が響き、足元の土が揺れた。
振り返ると、幼獣は俺を威嚇していた一頭に寄り添っていた。後ろ脚を少し浮かせていたけれど、やがて恐る恐る地面につけた。一歩、二歩と歩き、最後には小さく跳ねた。
「おお、歩けるじゃん!」
思わず笑うと、幼獣がこちらを向いた。そばにいた一頭も顔を上げたが、角を向けてくることはなかった。
幼獣は仲間のところへ戻りかけたものの、途中で足を止め、俺のほうへ近づいてきた。
「ん? どうした?」
しゃがんで手を差し出すと、湿った鼻先が指先に触れた。
「ははっ、くすぐったいって」
そこへ、幼獣を守っていた一頭も近づいてきた。幼獣が俺の手に鼻先を寄せていても、そいつは黙って見守っていた。
やがてその魔物が泉へ向かって歩き出すと、幼獣も後を追った。少し進んだところで振り返ったので、俺は手を振った。
「またな!」
二頭が並んで歩いていく。もう少し眺めていたかったけれど、そろそろ帰らないとじいちゃんとの約束に遅れてしまう。俺は二頭の背中を見送り、来た道を引き返した。
◇
家に戻ったのは、昼になる少し前だった。採ってきた香草をばあちゃんに渡すと、今夜の魚に使うと言って喜んでくれた。
居間へ行くと、じいちゃんが窓際で帳面を広げていた。魚を本土へ持っていくときに使っている帳面だ。
「じいちゃん、次に本土へ行くのっていつ?」
「風が落ち着けば、明後日の朝にでも船を出すつもりじゃ」
「じゃあ、俺も一緒に行っていい? 前に見かけた店に行ってみたいんだ」
じいちゃんは帳面から顔を上げた。
「構わんが、どんな店じゃ?」
「魔石を買い取ってくれる店だよ。前に看板を見かけてさ」
「魔石か。何か売るつもりなんじゃな」
「うん。一個だけ持っていってみようと思ってる」
じいちゃんは少し考えてから頷いた。
「まあ、店に見せてみるのはええ。ただし、値段が分からんものを慌てて売るんじゃないぞ」
「分かってるよ。ちゃんと話を聞いてから決める」
「それならええ。向こうで別行動するなら、帰りの時間は守れよ」
「うん! ありがとう、じいちゃん!」
じいちゃんは笑って帳面を閉じた。俺は部屋へ戻り、机の引き出しから小さな布袋を取り出した。
中に入っているのは、昨日の甲殻魔物から取り出した魔石だ。手のひらに載せ、窓から差し込む光にかざしてみる。
じいちゃんの新しい釣り道具と、ばあちゃんが使いやすそうな畑の道具。
この魔石を売って、両方買えるくらいになればいいんだけどな。
俺は魔石を布袋に戻し、本土へ持っていく荷物の一番上に置いた。
じいちゃんが新しいリールを使ったら、どんな顔をするだろう。




