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すべては、あの雨の夜から

「焚野、お前さあ。もうちょっと要領よく生きられないの?」


金曜日、午後十時四十三分。


都内の居酒屋で、焚野昌道(たきの・まさみち)は心の中で小さくため息をついた。


目の前では、顔を真っ赤にした上司が、さっきから同じ話を繰り返している。


「真面目なのはいいけどさ。真面目なだけじゃダメなんだよ、社会ってのは」


「……はい。勉強になります」


もちろん、何も勉強になっていない。


というか、この話は今日で五回目だ。


「焚野さん、明日も出勤なんすか?」


隣の席から、若い同僚が声をかけてきた。


「ああ。八時半から」


「うわ、きっつ。AIに代わりに行ってもらいたいですね」


「行けるなら俺が頼みたいわ」


「最近の作業支援AI、すごいですよ。焚野さんも使えばいいのに」


「……なんか面倒でさ」


「AIを使うのが面倒って、逆じゃないですか?」


同僚が笑う。


「まあ、そうなんだけどな」


今やAIは、生活のあらゆる場所に入り込んでいる。


仕事を補助し、予定を管理し、人間が迷うより先に答えを出す。


便利な時代だ。


けれど、昌道の毎日は何も変わらない。


朝起きて、働いて、帰って寝る。


気がつけば、また月曜日。


「焚野! 聞いてるか!」


「はいっ!」


(六回目、来るか……?)


昌道は心の中で身構えた。


◇


午後十一時二十六分。


店を出ると、雨が降っていた。


「……マジかよ」


傘はない。


昌道はジャケットの襟を立て、駅へ向かって歩き始めた。


濡れた道路に、街の光がにじんでいる。


すれ違う人々は、イヤホン越しに誰かと話していた。


「いや、だからさ。明日の予定、全部ずらしといて」


若い男が、ひとりでに話しているように見える。


相手は人間か、それともAIか。


今の時代、そんなことも分からない。


(便利な世の中だよなあ)


昌道はぼんやりと思った。


学生の頃は、もっと何かがあると思っていた。


自分にしかできないこと。


胸が熱くなるような出来事。


けれど現実は、明日の仕事に遅刻しないことの方が大事だった。


「……帰ろ」


そのとき。


「すみません!」


背後から、切羽詰まった声がした。


歩道の端に、四十代ほどの男が立っていた。


濡れた髪。ひびの入った眼鏡。


コートの内側に、何かを抱えている。


「お願いです。少しだけ電話を貸していただけませんか」


男は通行人に声をかけていた。


だが、誰も足を止めない。


不審そうに距離を取る人。


聞こえないふりをする人。


昌道も、その横を通り過ぎた。


(……面倒そうだな)


詐欺かもしれない。


関わる理由なんて、どこにもない。


「お願いします……誰か……」


背後から声が聞こえた。


昌道は歩き続ける。


一歩。


二歩。


三歩。


――そこで、足が止まった。


理由なんて、うまく説明できなかった。


ただ。


あの声を無視して帰る自分を、少しだけ嫌いになりそうだった。


ーー第1話・了

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