第69話 冷めない憎しみのライオット
踏み込んだ瞬間、視界が歪んだ。
白く渦巻いていたはずの雪が、ふっと薄れる。
代わりに、足元の地面がぶれるように揺らいで見えた。
「……っ」
嫌な感覚に従い、踏み込みを半歩だけずらす。
直後、さっきまで狙っていた位置を、何かが薙いだ。
風だ。
目に見えないまま、地面の砂だけが弾け飛ぶ。
フィクティオは動いていない。
だが、確実にこちらを迎撃している。
「どうした。来るのだろう?」
変声機越しの声が、吹雪の中でもはっきりと届く。
「言われなくてもな」
返しながら、一気に間合いを詰める。
パイプを振り抜く。
手応えは__また、ない。
黒いマントが揺れたかと思った次の瞬間には、そこに実体がない。
残像のように薄れて、霧と同化する。
「チッ……!」
舌打ちと同時に、背後に意識を向ける。
気配は、ある。
だが位置が定まらない。
近いはずなのに、遠いような、そんな歪んだ感覚。
「視覚に頼りすぎだ」
声が横から落ちてくる。
振り向くより早く、身体を沈める。
頭上を、圧が通り過ぎた。
空気そのものが叩きつけられたような衝撃。
遅れて、背後の地面が抉れる。
「くっ……!」
距離を取る。
呼吸を整える間もなく、次の異変が来る。
周囲の空気が一瞬にして冷えていく。
さっきまでの吹雪とは違う。
一点に凝縮された冷気が、足元から這い上がってくる。
凍る__そう直感した瞬間、横へ飛ぶ。
足場が砕けた。
氷が張るより先に、地面ごと割れている。
「忙しい野郎だな……!」
雷、風、雪。
現象が切り替わる速度が異常だ。
一つに対応した瞬間、もう次が来る。
だが、共通していることがある。
全部、間に合う。
致命には届かない。
インバネスコートが引く動きに、自分の感覚を重ねる。
半歩、半拍、ずらす。
その積み重ねで、ギリギリを抜け続ける。
「避けるだけか?」
「試してるだけだ。いくつ手品があるのかをな」
低く返す。
見えてきている。
動きの癖が。
フィクティオはその場からほとんど動いていない。
だが攻撃は、必ず俺が次に通る場所を選んでくる。
なら――
「そこだ!」
一歩、踏み込む角度を変える。
直線ではなく、円を描くように回り込む。
次の雷が落ちる。
だが、狙いは外れている。
さっきまでの俺の位置だ。
「……ほう」
初めて、わずかに声の調子が変わる。
その隙を逃さない。
一気に距離を詰める。
今度は逃がさない。
そう確信して、パイプを振り抜いた。
__その直前。
視界が、反転した。
「……は?」
地面と空が入れ替わる。
いや、違う。
見えている位置が、ずれている。
身体は前に出ているはずなのに、攻撃だけが空を切る。
そのままバランスを崩しかける。
「幻に触れるのは、難しかろう」
背後。
振り向く。
フィクティオは、数歩後ろに立っていた。
さっきと同じ距離。
同じ姿勢で。
まるで最初から、そこにしかいなかったかのように。
「……なるほどな」
息を吐く。
見えているものを、そのまま信じるのは危険ってことか。
「やっと理解したか?」
「いや、全く。今ので何を理解しろと?」
構え直す。
握った鉄パイプに力を込める。
「でも、お前が面倒くさいってことだけは、よく分かった」
そう言って、もう一度踏み込んだ。
今度は一直線じゃない。
揺らす。刻む。軌道をずらし続ける。
フィクティオの視線は外さないまま、足だけで距離を詰める。
風が来る。
低い位置。膝を払う軌道。
跳ぶ代わりに、踏み込みを止めて沈む。
足元を風が抜ける。
間髪入れず、次。
上から圧が落ちる。
身体を横へ滑らせる。
空気がぶつかり、地面が抉れる。
その隙に、さらに半歩。
近い。
確実に、さっきよりも。
「……なるほど。しぶといな」
変声機越しの声に、わずかな興味が混じる。
「どうした、さっきより雑だぞ」
「十分だ。君程度ならな」
吐き捨てるように言い返し、さらに踏み込む。
狙いは当てることじゃない。
離さないことだ。
こいつは、いつでも消える。
だが、こちらが張り付いていれば、その"暇"を削れる。
新田が来るまでの時間を稼ぐ。
それでいい。
元より一対一でどうにかなる相手じゃない。
そう割り切って、攻めを続ける。
フィクティオは反撃を続けるが、その質が変わっていた。
狙いは正確だが、深くは踏み込んでこない。
致命には届かない。
こちらの命を取りに来ている動きじゃない。
やはり__
「……やっぱり、殺す気はねえか」
「必要がない。君は観察していれば、いずれ得られる情報もあるだろうしな」
即答。
感情の欠片もない声。
「情報源を自ら潰すほど愚かではない」
「ありがたい話だな……!」
言いながら踏み込む。
その一瞬。
横から、別の気配が割り込んだ。
「__どけ!!」
風を切る音。
白を裂くように、影が飛び込んでくる。
速い。
明らかに人間の動きじゃない加速。
そのまま、一直線にフィクティオへ。
「七海!?」
木刀を振りかぶり、そのまま叩き込む__
直前で、止まった。
目に見えない何かにぶつかったように、軌道が弾かれる。
衝撃が反転し、七海の身体が押し戻される。
「っ……!」
着地と同時に、砂を滑らせながら距離を取る。
だが止まらない。
そのまま、もう一度踏み込む。
「ふざけんな……!」
怒りに染まった声。
迷いも、躊躇もない。
再び加速する。
今度は角度を変え、低く潜るように__
また弾かれる。
同じ位置。
同じ“壁”。
「……七海、やめろ」
低く言う。
だが、届いていない。
「どけって言ってんでしょ!!」
振り返りもしない。
視線はフィクティオに固定されたまま。
呼吸が荒い。
完全に、頭に血が上っている。
「そいつはお前がどうこうできる相手じゃねえ!」
言葉を強める。
だが、七海は止まらない。
むしろ、それで火がついたように踏み込む。
三度目の突進。
今度は跳ぶ。
上から叩き潰す軌道。
__弾かれる。
今度は強い。
空気そのものに殴られたように、身体が後ろへ弾き飛ばされる。
着地しても勢いが殺しきれず、地面を滑る。
「っ……!」
歯を食いしばり、即座に体勢を立て直す。
それでも止まらない。
また踏み込もうとする。
「七海!!」
思わず声を張る。
それでも、止まらない。
聞こえていない。
完全に、怒りで視界が狭まっている。
フィクティオは動かない。
ただ、静かにそれを見ている。
まるで、観察でもするかのように。
「……なるほど」
小さく呟く声。
「これも気になってはいたのだ。モルスの活動再開とも時期が一致する」
その言葉に、嫌なものを感じる。
おそらく、"戦慄のアーティファクト"の行方について、七海が鍵である可能性についての話だ。
どこかから俺を監視する過程で七海のことを知ったのだろう。
だからこそ、今の段階で七海は弾き飛ばされるだけで済んでいる。
俺が殺されないのと全く同じ理屈だ。
だが、それもいつまで持つか分からない。
「……チッ」
踏み込む。
七海の軌道に割り込むように前へ出る。
まずはこいつを止める。
無理やりでも、止めるしかない。
七海は止まらない。
俺の声など、最初から存在しないかのように。
視線はフィクティオに縫い付けられたまま、そのまま踏み込む。いや、飛ぶ。
俺の肩をかすめるように、上から。
四度目の突撃。
「……っ、七海!」
勢いは、さっきまでよりも明らかに強い。
理屈も、間合いも、何もかもを捨てた突進。
フィクティオは、それを見ていた。
「……まあ、良いか」
わずかに首を傾ける。
「探偵だけいれば」
その一言。
その瞬間だった。
視界の端で、何かが光る。
フィクティオの袖口。
ほんの一瞬、黒い宝石のような反射が走った。
「__っ!」
考えるより早く、身体が動く。
パイプを握り直し、最大まで伸ばす。
限界まで引き延ばされた鉄が、一直線に空間を裂く。
狙いは攻撃じゃない。
割り込むこと。
フィクティオと七海、その間へ。
鉄が、二人の間に滑り込む。
わずかに七海の動きが止まる。
視界が遮られた、その一瞬。
「……なっ__」
遅い。
俺はそのまま踏み込み、七海にぶつかるように腕を回す。
正面から、強引に抱き留める。
「っ、如月さ――」
言葉は最後まで続かない。
次の瞬間。
背中に、何かが触れた。
冷たい。
異様なほどに。
そして、重い。
ずぶり、と。
遅れて、感覚が追いつく。
「……っ」
息が止まる。
肺が空気を拒否する。
何かが、刺さっている。
背中から、体の奥へ。
力が抜ける。
支えきれない。
そのまま七海ごと、地面に倒れ込む。
覆いかぶさるように。
押し潰すように。
視界がぶれる。
「……っ、如月君!?」
遠くから、声がした。
新田の声だ。
やけに遠い。
やけに焦っている。
「如月君! それ――!」
何を言っているのか、うまく聞き取れない。
だが、感覚が追いついてきて、ようやく理解する。
背中にあるもの。
刺さっているものの正体を。
氷だ。
巨大な、氷の塊。
それが、背中から突き刺さっている。




