蒼梅 拳志
「えーですからー……春という季節は始まりの季節であり、新しく入学した一年生のみなさんにとっては新たな旅立ち。二年生、三年生のみなさんにとっては――」
「ふぁっ……」
四月。僕――赤羽 史人が高校二年になったばかりの始業式。春の陽気がもたらすどこかゆったりとした空気に、思わず欠伸が漏れ出してきた。新年度の初日くらいやる気を出してみようとは思いはしたものの、この心地良さの前ではそんな決意など春風に流されていった。
「……はぁーー」
一度気が緩むと後は早いもので、費やした以上の力が体から抜けていく。がくんと頭を倒すと眼鏡がするりと滑り落ち、鼻に引っかかってギリギリのところで止まった。レンズを通していない世界だけがぼやけ、見えている境界との差に一瞬だけ頭がふらつく。
去年の視力検査では、確か0.1も無かった。もう眼鏡無しで見えるモノなんてほとんどない。鈴羽やケン兄と遊んでいた頃は、全てが輝いて見えていたはずなのに。
「ふぅ」
余計なことを思い出してしまった。大事なのは過去じゃない、今なんだ! 差し当たって今気にするべきは、寝落ち未遂の目撃者がいないか、それが重要なのだ。
のっそりと体を起こし。周囲を確認する。
右を向く。隣のクラスの女子生徒。なんか凄い目で見られてるけど問題なし。次に左。同じクラスのこちらも女子生徒。……もう夢の世界へと旅立っていた。
最後に前を見ると男子生徒と目が合った。
そいつは僕と目が合うと、デカい身長に見合った幅広の肩を欧米人みたいに竦めた。微笑んだ顔の彫りは少し深く、なかなかの男前に見えなくもない。
黄瀬 修二――去年のクラスメイトで、今年も何の因果か同じクラスになった。
ところで、お前は何でこっちを見ているんだ? 今は校長センセイが、将来役に立つとは到底思えない有り難い訓示を垂れ流している最中じゃないか。少しは真面目に聞いたらどうなんだ。僕が言うのもなんだけれど。
(相変わらず眠そうだな)
なんとなく視線でそう言っているような気がした。他のクラスメイトなら情けないところを見せたと思うところだが、目の前のニヤけた友人だと『まあこいつなら良いか』と思えてくるから不思議なものだ。
視線に頷きだけ返し、さて他に目撃者がいないか探そうとしたところで、
「……っ!?」
なんとなく、嫌な予感がした。虫の知らせというか、第六感というか。部屋の中でなんとなくそっちを見たらいけない気がして、いざ見たらゴキブリがいたみたいな。
先ほどまで感じていた爽やかな空気は何処へやら、じっとりとした汗が背中を伝う。うかつには動けない。しかし、このまま膠着状態は何かとてつもなく負けた気がする。
そんなことを考えていると、修治の手が動いた。ピっと人差し指が右前に向けられる。
《 → + ↗ + ↑ 》
そちらを向けということだろうか? よせば良いのに、人間の体はそういう意味ありげなものを無視できない。そして何より、
『相手がジャンプしたら対空で迎撃。反射で出来るように、体に覚えさせるんだ』
昔ケン兄から教わったことが、未だに体に染みついていた。だから視線が動いてしまったのは、昔の自分が努力した結果だ。それを否定したくはない。けど、
「……誘い、かぁ」
『ただし、ブラフの可能性もある! その辺の見極めはしっかりな!』
どうせなら完璧に習得しといて欲しかった。悲しいかな、長年のブランク。
視線の先には、修治と同じく去年からの顔なじみ――教師生活二年目、最近ますますもって暑苦し……もとい熱血度が増したヤマ先こと緑川 大和教諭が会心のスマイルでこちらを見つめていた。
さようなら自由な放課後。特にやることもないけど。
※
「あー連絡事項はこんくらいか。半ドンだからってあんまりヤンチャすんなよー。……あ、そうそう。赤羽はこの後忘れずに職員室……は色々めんどいから、進路指導室に来るよう。以上!」
ヤマ先が今朝のことを忘れているという一縷の望みにかけていたが、それはあっさりと打ち砕かれた。ところで、今は半ドンって言わないんですよ知ってました?
「さっさと来いよー。早く終わらせたいだろ、お互いさ」
至極ごもっとも。
終礼が終わり、ヤマ先が引き上げると、放課後特有のざわついた空気が流れ始める。
「なあ史人、この後ってヒマか?」
「お前は僕がヤマ先に呼び出されたのを聞いてなかったのか。っていうか、修治も後ろ向いて喋ってただろ。何で僕だけ……」
「あーオレの位置、ヤマ先からは死角になるんだよ」
理不尽だ。
「まあヤマ先ならすぐ終わるだろ。待ってるわ」
「そうかもしれないけど……何かあんの?」
「ゲーセン行こうぜ! ゲーセン!」
「あー……」
ゲーセン、か。修治に誘われるのは久しぶりな気がする。入学して知り合ってから、同じように誘われたことが何度かあった。でも毎回渋い顔して断るもんだから、いつの間にか誘われなくなったんだが。
「悪い、ゲーセンはちょっと」
「そう言うだろうと思ったけどよーまあ、とりあえずこれ見ろよ、これ!」
「何……って、おわっ!」
あまりにも喜々とした修治の声に顔を上げると、そこには……って、何も見えねぇし。
「近い……近いって! 見えねぇ!」
「あぁ、悪い悪い。目悪いだろうから近づけてやったんだが」
ゼロ距離でどうやって視認しろと言うのか。大して悪びれもせず修治が見せてきたのは、どこかのゲーム系総合ニュースサイト記事だった。そして、その記事に書かれていたのは、
「『Unlimited Fight』?」
「おぉ! 稼働日からずっと気になってたんだけど、ついに浅賀のゲーセンに筐体が入ったって! っていうか遅すぎだよな! これだけのビッグタイトル稼働日に入れろっての!」
いつもハイテンションな奴だと思うが、今日はいつにもまして暑苦しい。春で助かった。ほら、後ろの女子とかちょっと引いてるし、新しいクラスであることを忘れているんじゃないだろうか。
「格ゲー……だよな。修治が格ゲーなんて珍しいじゃん」
確か結構前に『格ゲーってどう見ても初心者お断りじゃん? 初心者がやってもガチ勢に狩られる運命しか見えねぇからやらねぇ!』って言ってたような気がするんだが。
「そんなもんは過去の話よ」
全てを過去に変える男。黄瀬 修治、爆誕。
「この『Unlimited Fight』はな、今までのゲームとは一線を画すゲームなんだよ!」
これまたよくあるキャッチフレーズだな。ゲームの公式サイトに書いてあったらプレイしたくないワード個人的第二位。ちなみに一位は『豪華声優陣』。別に声優さんが嫌いなんじゃなくて、声優さんの前にもっとゲームとして宣伝することがあるだろうと。
「で、具体的にはどう違うんだよ」
「聞いて驚くな……なんと、オリジナルキャラの使用が可能なのだ!」
「……はぁ?」
「だから、オリジナルキャラが使えるの。自分の、自分による、自分の為のキャラを作って、それを戦わせることが出来るんだぜ! 夢のような話じゃないか!」
「いやいやいや」
何をバカなことを言ってるんだ。そんなことは、今までどれほどのゲームクリエイターが試みたことか。そして、その度に厳しい現実に直面し、心を折られてきたか。
「無理だろ」
「と、おもーじゃん?」
やけにもったいつける。
「え、マジで」
「食いついたな……マジもマジ、大マジだ! 一人の天才により、実現されたのだよ!」
「いや……でも、バランスが取れるわけない。普通の格ゲーですらバランス調整はかなり難しいんだぞ。技術うんぬんが出来てても、プレイヤーとしての感覚を作り手が持っていないと酷いバランスになる」
「そこだ!」
どこだ。
「『Unlimited Fight』は元格ゲープレイヤーが制作者だ。しかも、超有名プレイヤーだ!」
「超有名プレイヤー、ねぇ」
修治には悪いが、恐らくそのプレイヤー名が僕の心を震わせることはない。なんせ幼い頃、たった一時とはいえ、真の一流プレイヤーを間近で見てきたのだから。
だからもし、仮に、万が一。もう一度僕の心を奮い立たせるプレイヤーがいるとすれば、それは――
「オマエだって名前くらい聞いたことあるだろう? レジェンド『蒼梅 拳志』だよ」
格闘ゲーム界のレジェンド、蒼梅 拳志――ケン兄。まさか、今になってその名前を聞くことになるとは思わなかった。
ケン兄が敗北して以来、僕はゲームセンターに一度も足を運んでいない。決してケン兄に失望したとか、そういう理由ではない。ただ単純に、どんな顔をして、どんな言葉をケン兄にかけたら良いのか分からなかったのだ。
それによってケン兄と、そして鈴羽に嫌われてしまうことを恐れていたのだと思う。
結局のところ、ただ臆病だっただけなのだ。僕はゲームの中に出てくるキャラクターのような勇気や強さは持っていなかった。
最初は意図的にゲームセンターに行かないようにしていたけど、いつしか行かないことが日常になっていた。そして、あれだけ熱中していたものを簡単に手放せた自分に何より嫌気がさした。その結果、いつの間にか何事に対してもやる気のだせない、つまらない人間になってしまった。
「史人?」
「悪い、やっぱやめとく。そろそろ行くわ。ヤマ先待たせるのも悪いし」
「そっか。ま、無理にとは言わねぇよ。なーに、俺が先に体験して、その面白さをとくとお前に語ってやるから楽しみにしてろ」
「……楽しみにしとくよ」
「おう、じゃあな!」
そう言い残し、修治は教室を飛び出していった。その目はまるで昔の自分のように輝いていて……。
「行くか」
どこか羨ましく感じてしまった。
ところでヒロインはいつ出てくるのでしょう?