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New world

New world

 日本煙草と言えば『ピース』という人は多いだろう。かくいう私も若い時分には好んで吸ったものだ。

 特にピース缶にはお世話になった。


 ピース紺という独特の紺色に金の鳩が描かれた丸い缶の中に両切りの紙巻き煙草がぎっしりと詰まっている様は数学に弱い私にも、幾何学の美しさというものを感じさせてくれた。


 缶からタバコを取り出し、マッチを擦った時の何とも言えない哀愁、あれはなんだったのだろう。箱入りのタバコでは決して味わえない至高の感情だった。これ以上の満足感を、長く生きてきた今まで、他に感じたことはない。


 ピースを吸いだした当時、通っていたバーは、無口なバーテンダーが一人、カウンターの中に立っている静かな店だった。

 コルクボードの壁、色の禿げたスツール、安っぽい内装にそぐわぬ美味いマティーニを作る男だった。話しかければ低く響く声で最低限の返事をし、無駄に話しかけてくることはない。それでいてこちらが言いたいことを汲んでくれてお代わりのタイミングを読んでくれた。


 その店に、私はピース缶をキープしていた。バーテンダーは常連が好む煙草を各種取りおいてくれていたのだが、私の場合、箱ではなく缶だったので封が開いても持ち帰らずに店に置いてもらっていたのだ。


 マティーニを一杯飲んでピースを一本。それからウィスキー一杯、煙草を二本。それがいつものパターンだった。一回で三本しか吸わぬのに、ピース缶は五十本入りだった。一缶開けたら十六回は通わねばならない。しかも十六回目は半端に終わる。するとバーテンダーが新しいピース缶をすっと差し出す。私は律儀にそのバーに通い続けた。


 週に二度か三度も店に顔を出していると、常連仲間もできる。バーボンばかり飲む西部劇かぶれ、わざわざ高い席料を払って安焼酎をキープしている貧乏貴族、ウイスキーのチェイサーにビールを飲むうわばみ姫。どんな酒を好むのか、どんな会話が好きなのか、よく知っていたが、どの客の名前も知らなかった。


 それでもいつのまにか、私はうわばみ姫と付き合うようになった。きっかけはピース缶だった。


「ねえ、一本くれない?」


 いつもは煙草を吸わないうわばみ姫にピースを一本渡した。マッチを擦って火をつけてやると、うわばみ姫は深く深く吸い、長く長く吐いた。そうしてあっという間にピースは灰になった。

 指先の長さだけ残ったピースの吸い口の、口紅の赤さがバーの暗い照明の中で、ねっとりと光った。


 うわばみ姫が席を立った時、バーテンダーは彼女の分と同時に私の分のレシートも差し出した。私とうわばみ姫は無言で支払いを終え、無言で店を出た。


 私たちはいつもバーで待ち合わせ、うわばみ姫の家に向かった。かすかな酔いとレコード、うわばみ姫のうっすらと汗をかいた肌。あの部屋のことで覚えているのはそれだけだ。彼女がどんな声をあげたのか、彼女がどんな瞳で私を見たのか、もう分からない。ただ、彼女が聞かせてくれたマイルス・デイヴィスのレコードジャケットを私は今でも愛している。


 うわばみ姫は初めて共に過ごした夜以来、煙草を吸うことはなかった。だが、ピースの缶を開けるのが好きで、私が一本吸い終わると缶を開けて次の一本を取り出す。そうして指についた煙草の香りを嗅いでいた。


「甘い香りね」


 彼女はたびたびそう言って、目を細めることが多かった。その顔が悪魔的で、私は何かを吸い取られるような気がして、その何かを取りもどすように煙を深く吸い込んだ。

 私たちは何かを吸い取り、吸い取られ、そうして何も吸い取れるものがなくなってしまった夜、共にバーに向かった。


「ねえ、一本くれない?」


 うわばみ姫は缶を開けて、真っ赤な爪先でピースをつまみ、咥えた。マッチを擦って火をつけてやると、深く吸って、吐き出す煙と共にこんなことを話した。


「ピースはもともと、New Worldっていう名前になるはずだったの。けど、当時の技術じゃカッコいいパッケージデザインに出来なかったのね。だから、名前が変えられたの。たったそれだけのものでしかないのよ、名前なんて」


 うわばみ姫は深く吸い、長く吐いた。


「じゃあね」


 彼女が席を立っても、バーテンダーは私のレシートをきらなかった。ピース缶はちょうど五十本を吸い終わり、私はそれ以来、バーに足を運ぶことはなくなった。


 なんとなくピースを買わなくなった。とくに理由はないような気もしたが、大切な理由があったような気もする。けれど、どちらでも大した差はない。煙草の味を私はパッケージのデザインほど覚えてはいなかったのだから。


 私は今でも人に自分の名を名乗ることが苦手だ。私の名前がピースだろうとNew Worldだろうと私の顔は変わらないし、私の味はどうせ覚えてはもらえないのだから。私はあのバーで呼ばれていた通り、ただのピース缶でしかないのだから。


 あのバーのことを思い出す時、私は自分の影をNew Worldになり損ねた曖昧な何ものかとして見ている。うわばみ姫が吐き出した煙よりも薄い薄い記憶だ。いったい自分がどんな顔をした若者だったのか、今はもう知るよしもない。

 出来れば宵闇の夜空のようなピース紺の深みを持っていたのなら、あのバーで出会った人たちの中に私の呼び名「ピース缶」はまだ生きているのかもしれない。


 そんなことを考えながら、なつかしい缶を開けた。

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