第十四話:項羽(こうう)――中国史上最強の戦歴を誇る猛将
戦場に立っただけで、敵の心を折る男がいた。
名は――
項羽。
身長は八尺余り。
力は人並み外れ、数百キロはある鼎を一人で持ち上げるほどだったという。
だが、彼の恐ろしさは怪力ではない。
戦場を支配する力。
数万の兵を、巨大な一つの獣のように動かす才能。
それが――
項羽だった。
項羽は楚の名門。
項氏。
祖父は、秦と戦った楚の名将・項燕。
秦に滅ぼされた楚の恨み。
その血を受け継いだ少年は、幼い頃から戦いだけを見て育った。
「秦を倒す」
それだけが、彼の中にあった。
若きまだ二十にも届かぬ頃。
項羽は剣を学ぶ。
すぐ飽きる。
「一人を斬っても、意味はない」
兵法を学ぶ。
途中でやめる。
「大まかでいい。勝てばいい」
理解している。
戦とは、技ではない。
流れだと。
その後時代は乱れる。
始皇帝の死後。
巨大帝国・秦は崩壊へ向かう。
各地で反乱。
農民。
将軍。
王族。
誰もが天下を狙う。
その中で、項羽が立つ。
最初は小さな軍だった。
だが――
戦えば勝つ。
敵が多くても勝つ。
兵が怯えても、彼だけは前へ出る。
「俺について来い」
言葉ではない。
背中で示す。
・巨鹿の戦い――数万の兵で秦軍四十万を破る
秦の最後の大軍。
章邯。
かつて秦を支えた名将。
その率いる軍勢は――
約四十万。
巨大な軍団だった。
対する項羽。
率いる楚軍は――
わずか数万。
兵力差は、あまりにも大きい。
諸侯の誰もが思った。
「勝てるはずがない」
普通ならば、待つ。
援軍を待つ。
敵が疲れるのを待つ。
有利な時を選ぶ。
だが――
項羽は、違った。
夜。
川を前に、彼は命じる。
「渡る」
兵たちは息を呑む。
「しかし、退路が……」
その言葉を遮るように――
船が沈む。
次々と。
戻るための船は、消えた。
さらに、鍋を割る。
食料を三日分だけ残す。
生き延びるためではない。
勝つために。
逃げ道を、すべて消した。
兵たちは理解する。
もう帰れない。
敗北すれば、死ぬ。
ならば――
勝つしかない。
「勝つか、死ぬか」
項羽は、ただ前を見る。
その姿に、兵たちは震える。
恐怖ではない。
狂気に近い覚悟。
そして――
戦いが始まる。
項羽は先頭に立つ。
盾を持つ兵を押し退け、
槍の壁を突き破り、
秦軍の陣へ突入する。
「項羽は死んだ!」
諸侯の誰もがそう思った。
敵も。
あまりにも無謀だったからだ。
だが――
最終的に戦場に立っていたのは、死んだはずの男だった。
項羽。
血に染まりながら、まだ進む。
止まらない。
倒れない。
一人で戦場の流れを変える。
「化け物だ……」
敵兵が恐れる。
味方も息を呑む。
数十万の秦軍。
次々と敵将を葬る。
その巨大な壁が――
わずかな楚軍によって、正面から砕かれていく。
それは戦いではなかった。
巨大な波が、岩を削るような破壊だった。
諸侯たちは見た。
そして、悟る。
「この男には勝てない」
「この男についていけば、天下を取れる」
秦軍は崩れる。
四十万の大軍が、恐怖によって瓦解していく。
長く中国を支配した秦。
その最後の希望は、ここで砕けた。
そして――
一人の男の名が、天下に轟く。
項羽。
後世、人々は彼をこう呼んだ。
覇王。
天下を治めた王ではない。
しかし、戦場において――
彼ほど恐れられた男はいなかった。
・彭城の戦い――三万で五十六万を粉砕する
そして――
項羽最大の伝説。
その名は――
彭城の戦い。
天下を巡り、
劉邦との決戦が始まっていた。
劉邦は、ただ一人ではなかった。
各地の諸侯を味方につけ、
巨大な連合軍を作り上げる。
その数――
約五十六万。
史記では、五十六万人とも記される大軍。
大地を埋め尽くす兵。
旗。
馬。
武器。
その光景を見た者は、誰もが思った。
「これで終わった」
「項羽に勝ち目はない」
対する項羽。
率いる兵は――
わずか約三万。
五十六万 対 三万。
約二十倍。
普通ならば、戦わない。
逃げる。
守る。
時間を稼ぐ。
それが常識だった。
しかし――
項羽は笑った。
彼は知っていた。
大軍には弱点がある。
数が多いほど強い。
それは間違いではない。
だが――
数が多すぎる軍は、
一度崩れれば、
巨大な体を持つ獣のように、
自分自身の重さで倒れる。
劉邦軍は、勝利を確信していた。
敵は少ない。
項羽は追い詰められている。
もう終わりだ。
兵たちは緊張を失う。
酒。
宴。
勝利の空気。
陣は広がり、
命令は届かず、
巨大な軍は一つではなくなっていた。
その時。
夜明け。
霧の向こうから――
楚の旗が現れる。
項羽軍。
わずか三万。
だが、その姿は兵力差を感じさせなかった。
まるで――
嵐。
「敵襲!」
叫び声が響く。
「敵は少ない!」
最初、劉邦軍はそう思った。
押し返せる。
数では勝っている。
そう考えた。
だが――
次の瞬間。
戦場の空気が変わる。
項羽が来た。
先頭。
自ら。
敵陣へ突っ込む。
斬る。
倒す。
進む。
止まらない。
一歩進むたびに、敵陣が崩れる。
兵たちは見る。
味方の将が、
誰よりも前で戦っている。
逃げる理由がない。
戦う理由しかない。
項羽率いる楚軍三万は、一つの巨大な獣となった。
項羽という牙を持つ獣。
襲われた劉邦軍は混乱する。
命令が届かない。
隊列が崩れる。
隣の兵が逃げる。
その姿を見た者も逃げる。
恐怖は、瞬く間に広がる。
「逃げろ!」
最初の一人が叫ぶ。
それだけだった。
五十六万の軍勢は、
強大な軍隊ではなく――
逃げ惑う人の群れへ変わった。
敗走。
大量の兵が川へ殺到する。
逃げ道を求め、
互いに押し合う。
味方同士が混乱し、
多くの犠牲が出る。
巨大な軍が、
わずか三万の軍によって崩壊した。
結果。
劉邦軍――壊滅。
項羽軍――大勝利。
兵力差二十倍という絶望的な状況を覆した中国史上でも屈指の大逆転勝利だった。
項羽は、この戦いだけではない。
三千ほどの兵を率いた織田信長が、三万の大軍を率いる今川義元を破った桶狭間の戦い。
それをゆうに上回る圧倒的な兵力差を覆す大逆転劇を――
項羽は中国史に何度も刻んできた。
彼の戦歴は、常識では考えられない勝利の連続だった。
そして数々の戦場で圧倒的な武勇を見せ、敵を恐怖させ続けた。
圧倒的な兵力差。
絶望的な状況。
それでも項羽は、卓越した武勇と戦術によって敵軍を打ち破った。
彼は「負けない将軍」ではなく――
追い詰められた時こそ、最も恐ろしい力を発揮する覇王だった。
人々は震えた。
「項羽には勝てない」
「戦場では、あの男は人ではない」
「戦場では、神だ」
そう語られるほどだった。
実際、
彼が率いた軍は無敵だった。
正面から戦えば、誰も止められない。
しかし――
この彭城の戦いの勝利こそが、
後の悲劇の始まりでもあった。
項羽は、
戦えば勝てる男だった。
だが――
天下を治める戦いは、
剣だけでは勝てなかった。
項羽には弱点があった。
戦には勝てる。
しかし――
天下を治めることができない。
敵を倒す力。
人を従わせる力。
それは別のものだった。
そして項羽には、もう一つの弱点があった。
それは――
強すぎるがゆえに、一人で戦いすぎたこと。
戦場で正面からぶつかれば、項羽は勝つ。
誰も止められない。
だから劉邦は、正面から戦わなかった。
戦えば負ける。
ならば――
戦わない場所で勝つ。
楚と漢の戦いは、次第に別の形へ変わっていく。
劉邦軍は、項羽がいる場所を避ける。
項羽が東へ向かえば――
西を攻める。
項羽が南へ向かえば――
北を奪う。
項羽が大軍を率いて奪われた土地を取り戻しに行けば――
その瞬間。
項羽の居なくなったその場所が落とされる。
項羽は勝つ。
目の前の敵を倒す。
城を奪い返す。
敵軍を撃破する。
だが――
その間に、別の場所が失われる。
「またか……」
項羽は地図を見る。
一つ取り戻せば、また一つ失う。
敵を追えば、別の場所を奪われる。
戻れば、追っていた敵は逃げる。
まるで影を追うようだった。
項羽は戦場では無敵だった。
しかし、天下は一つの戦場ではない。
広大な中国全土。
無数の城。
無数の民。
無数の判断。
すべてを一人で守ることはできない。
一方、劉邦は違った。
自分が前線にいなくても、戦いは続く。
韓信が軍を動かす。
蕭何が兵站を支える。
張良が策を巡らせる。
劉邦は、自分一人で戦っていなかった。
項羽は、一つの戦いには勝つ。
劉邦は、戦争そのものに勝とうとしていた。
この差は、少しずつ広がっていく。
項羽は思う。
「なぜ優勢でなくなっている?」
戦えば勝っている。
敵将を倒している。
兵も強い。
なのに――
天下は、少しずつ劉邦のものになっていく。
最強の武将。
無敵の戦士。
しかし――
一人の英雄だけでは、巨大な時代を動かすことはできなかった。
そして、最後。
項羽は気づく。
自分が戦っていた相手は、劉邦という一人の男ではない。
韓信。
張良。
蕭何。
そして――
劉邦のもとに集まった、無数の人間の力だったのだ。
項羽は違った。
自分が強すぎた。
だから、人を信じられなかった。
そして味方が離れていった。
項羽は、劉邦と和議を結ぶ。
鴻溝を境として、天下を分ける。
そう誓い合ったはずの約定は――
何の価値もない紙切れのように即、踏みにじられた。
舌の根も乾かぬうちに盟約は破られ、
楚の項羽軍は背後から襲撃を受ける。
鬼畜にも劣るあまりに卑劣な行為。
そして――垓下に追いつめられる。
項羽――
予期せず油断していたとはいえ初めての敗北だった。
最後の戦い。
垓下。
四面楚歌。
かつて天下を震わせた覇王は、
今や数十万の敵軍に包囲されていた。
兵は減った。
共に戦った仲間も、次々と姿を消していった。
それでも――
剣を握るその手は、最後まで震えなかった。
敗れたのではない。
力が尽きたのではない。
ただ――
「時が、自分を見捨てたのだ」
そう語るかのように。
項羽は最後まで、覇王であり続けた。
烏江。
逃げる道はあった。
船もあった。
生き延びることもできた。
だが、項羽は拒んだ。
「江東の者たちに、何の顔をして帰れようか」
そして――
自ら命を絶つ。
項羽。
最終的に敗者。
しかし――
中国史上、最も恐れられ、最もすさまじい戦歴を残した猛将。
勝利数ではなく、
戦場で見せた圧倒的な破壊力。
その名は、二千年以上経った今も残る。
「覇王」
それは皇帝になった男の名ではない。
皇帝になれなかった、最強の男の名だった。
歴史上、「同盟を結んでおきながら背後(後ろ)から攻める」行為(背信行為や挟み撃ち)を行った人物・勢力は数多く存在する。
劉邦以外に特に有名な事例を以下に挙げる。
1. 浅井長政 (織田信長への背信)
【背景】 織田信長と同盟を結び、信長の妹である「お市」を妻に迎えて義兄弟の契りを交わしていた。
【裏切り】 信長が朝倉氏(越前)を攻めた際、長政は長年の同盟関係にあった朝倉家との関係を優先し信長の背後を突いた(金ヶ崎の退き口)。
その後、激怒した信長・徳川家康の連合軍と「姉川の戦い」で激突することになった。
2. 武田信玄 (今川氏への背信)
【背景】 今川家・北条家との間で、互いの領土を侵さない「甲相駿三国同盟」を結んでいた。
【裏切り】 桶狭間の戦いで今川義元が戦死し、今川家が弱体化すると同盟を破棄。
今川領(駿河)へ背後から侵攻して滅亡させた。
これにより、もう一方の同盟相手であった北条家とも対立関係になった。
3. 毛利元就 (陶晴賢への背信)
【背景】 周防の大名である大内氏(および実権を握った陶晴賢)と同盟関係にあった。
【裏切り】 大内氏の内紛(陶晴賢のクーデター)に乗じて独立を画策。
厳島の戦いにおいて、それまで同盟関係を装っていた陶晴賢の軍を奇襲・挟み撃ちにして壊滅させた。
4. 孫権 (蜀・関羽への背信)
【背景】 魏・蜀・呉が争う三国時代において、共通の敵である魏に対抗するため蜀(劉備・関羽)と同盟を結んでいた。
【裏切り】 蜀の猛将・関羽が北方の魏と交戦している隙を突き、呉は同盟を破って関羽の背後(荊州)を強襲 。(樊城の戦い)
退路を断たれた関羽を捕らえて処刑し、領地を奪い取った。
この報を聞いた蜀の劉備は激怒し、義兄弟の仇を討つべく、呉討伐の大軍を起こして夷陵の戦い(いりょうのたたかい)が発生することになる。
その他
・ドイツ(ナチス・ドイツ)
1939年:ナチス・ドイツはソビエト連邦と独ソ不可侵条約を締結。
1941年:条約を破り、ソ連へ侵攻。
・ロシア(ソ連)
1932年:フィンランドと不可侵条約を締結。
1939年:フィンランドへ侵攻し、冬戦争が勃発。
1939年:ポーランドとの不可侵条約があったにもかかわらず、ドイツの侵攻に続いてポーランド東部へ進軍。(バルバロッサ作戦)
1941年:日本(大日本帝国)はソビエト連邦と日ソ中立条約を締結し、互いに不可侵を約束した。
1945年:日本がすでに劣勢となっていた状況でソ連はこの条約を一方的に破棄し、満州・南樺太・千島列島へ侵攻。(対日参戦)
これにより日本軍は挟撃される形となり、戦局は決定的に悪化。
この時の占領は戦後の領土問題――いわゆる北方領土問題へとつながっていく。
ロシア(現代)
1997年:ロシア連邦とウクライナは友好協力条約を締結。
2014年:ロシアがクリミア併合を実施。
2022年:ロシアがウクライナへ全面侵攻。
多くの国や国際機関は、これを国際法や両国間の合意に反する行為と位置付けている。
一方、ロシア政府は安全保障上の理由などを挙げて自国の行動を正当化すると主張している。




