諦めない心
某国、軍事基地。
突然、管理室に警報音が鳴り響いた。
赤いランプが室内を赤く染める。
「何事だ⁉」
「システムエラーです」
「何者かによるサイバー攻撃を受けています」
「セキュリティシステムを突破されました!」
「なんだと⁉」
それは、わずか数秒の出来事だった。
抵抗する暇もなく、軍事基地の管理システムはバフォメットに制圧された。
地下格納庫から核ミサイルが搬送され、自動発射システムが淡々と発射準備を進めていく。
攻撃目標は、ましろたちが暮らす街『色神』。
緊急停止ボタンを押しても止まらない。
核ミサイルが淡々と発射装置に装填される。
そして、色神へ向けて発射された。
闇だけが広がる空間――。
バフォメットは、懐中時計を思わせる小さな丸時計を静かに掲げた。
時計の針が、カチ、カチ、と不気味な音を刻む。
あと十分で、針は十二時を指す。
バフォメットは右手で時計を覆い、口元を静かに歪めた。
右手をどけた瞬間――。
時計は跡形もなく消えていた。
やがて、空間に不穏な文字が浮かび上がった。
『ほんものはだれだ?』
直後――。
バフォメットの隣に、もう一体が複製される。
さらに二体、四体、八体――。
十六、三十二、六十四。
増殖は止まらない。
空間は瞬く間にバフォメットで埋め尽くされていく。
核ミサイル着弾まで、残り九分十二秒。
カウントダウンが、まるで世界の終わりを刻むかのように無情に進んでいく。
フリーデン本部の司令室――。
イリスの目が見開かれる。
「まさか……あの時計が――!」
テュールが呟く。
「……起爆タイマーか!」
イリスは即決する。
「迎撃システムを起動する! 絶対に街へ落とさせない!」
即座に我が国の迎撃システムへアクセスした。
だが――。
「システムが起動しない⁉」
その瞬間――。
イリスの視界に、嘲るようなバフォメットの顔が広がる。
「なっ――⁉」
迎撃システムも、すでにバフォメットに制御権を奪われていた。
イリスは焦燥を抑え込み、膨大な演算を開始した。
だが、どれだけ演算を重ねても有効な解答が導き出せない。
無情な時間だけが過ぎていく。
それでも、イリスは諦めずに演算を続けた。
演算に意識のすべてを注ぎ込んでいたイリスには、周囲の音すら認識できなくなっていた。
しかし――。
遠くからましろの声が響く。
『――リス……イリス……』
それでも、イリスは気づかない。
『……イリス!』
ましろの叫び声が、ようやくイリスの耳を打つ。
「――っ! ましろちゃん⁉」
『ヤツの居場所は分かる?』
「う、うん……」
『じゃあ、すぐに転移ゲートを開いて!』
「でも……!」
『お願い!』
「……分かった!」
イリスは表情を引き締め、転移座標を送信した。
ましろたちの目の前に、転移ゲートが現れる。
ましろと輝夜は、迷わずゲートの中へ飛び込んだ。
核ミサイルの着弾まで、あと七分――。
二人がゲートを駆け抜けている間――。
コメント欄は、世界中から寄せられる応援の言葉で埋め尽くされていた。
『頑張れ、スノーホワイト!』
『負けるな、シャインナイト!』
輝夜は杖を握りしめる。
「……諦めるものか!」
ましろも強い意志で呟く。
「絶対に諦めない!」
ゲートの出口を潜り抜け、バフォメットの待つ空間へ飛び込んだ。
その瞬間、異様な光景が広がる。
無数のバフォメットが壁や天井に張り付き、虫の群れのように蠢いていた。
「なっ――⁉」
その光景に、配信を観ていた誰もが言葉を失う。
空間内にイリスの声が響いた。
『一万二千……二万四千……四万八千……まだ増えてる!』
その数が十万に達した瞬間――。
数えきれないほどのバフォメットが、示し合わせたように一斉に動きを止めた。
不気味な眼差しが、二人へ向けられる。
わずかな沈黙が流れた。
次の瞬間――。
無数のバフォメットが壁を蹴る。
雪崩のような勢いで、四方八方から二人へ襲いかかった。
二人は武器を構え、迫り来るバフォメットを迎え撃つ。
ましろの大剣が次々とバフォメットを斬り伏せ、輝夜の光魔法が群れを貫いて消し飛ばす。
だが――。
二人がいくら薙ぎ払っても、バフォメットの数は減らない。
止まることのない猛攻に、二人は少しずつ押し込まれていく。
三叉槍が頬を裂き、黒い光弾が肩や脇腹を抉る。
二人の表情に、余裕は一切なかった。
バフォメットの強烈な一撃が、ましろへ叩き込まれる。
ましろは咄嗟に大剣で受け止めた。
「くっ……!」
衝撃に押し込まれ、一瞬動きが鈍る。
その時だった。
死角――。
背後から別のバフォメットが三叉槍を突き出す。
振り向く暇もなかった。
「――しまった!」
ましろは咄嗟に身体を捻る。
しかし、間に合わない。
穂先が背中へ届こうとした、その瞬間――。
一つの影が割って入る。
輝夜だった。
三叉槍の穂先が、輝夜の胸を深々と貫く。
「……え?」
ましろが目を見開く。
時間が止まったようだった。
輝夜の身体がわずかによろめく。口元から血が伝い落ちた。それでも彼女は笑った。
「間に……合ったか」
「シャインナイト!!」
ましろが叫ぶ。
その叫びを嘲笑うように、周囲のバフォメットたちが一斉に迫る。
しかし、輝夜は最後の力を振り絞った。
「失せろ……!」
杖を振るう。
眩い閃光が炸裂した。
周囲のバフォメットたちが吹き飛ばされ、二人の周囲にわずかな空間が生まれる。
だが、輝夜の身体は前方へ傾く。
ましろは咄嗟に手を伸ばし、彼女を支えた。
輝夜の身体が淡い光へと変わり始める。それでも彼女は、ましろを安心させるように微笑んだ。
「済まぬ……わらわは、ここまでじゃ」
指先から、少しずつ粒子となって消えていく。
「嫌だ……!」
ましろは首を振る。その瞳から涙が零れ落ちた。
「消えないで……!」
輝夜は優しく笑う。
「スノーホワイト……おぬしは強い。力だけでなく、ここもな」
そう言いながら、自分の胸に拳を当てた。
「そんなおぬしだからこそ、後を託せる」
輝夜はましろの手を強く握る。
すると、柔らかな黄金の光が輝夜の掌からましろへと流れ込み、その身体を優しく包み込んだ。
「これは……!」
「わらわの力じゃ。残った力も、想いも……全ておぬしに託す」
輝夜の身体は、もう半分以上が光になっている。
「あとは……頼んだぞ」
その言葉を最後に、輝夜の身体は粒子となって溶けていった。
一瞬だけ、戦場が静まり返る。
空間に残されたのは、十万を超えるバフォメットの大群とましろのみ。
核ミサイル着弾まで、あと四分。
ましろは涙を拭った。ゆっくりと大剣を握り直し、静かに立ち上がる。
悲しみは消えない。
それでも、その瞳から闘志だけは消えなかった。
その光景を、バフォメットは蔑み笑う。
無数のバフォメットが一斉に壁を蹴り、再びましろへ襲いかかった。
ましろは大剣を振るい、迫り来るバフォメットを次々と薙ぎ払う。
輝夜から託された力により、その身体能力は飛躍的に上昇していた。
限界まで力を引き出し、必死に剣を振るい続ける。
「はぁあああああ!」
だが、押し寄せる十万の軍勢は止まらない。
ましろ一人では、足りなかった。
バフォメットがましろを包囲する。
三叉槍が全方位から一斉に突き出された。
ましろは瞬時に身構える。
だが、多すぎた。
全てを防ぎ切ることはできない。
万事休す――。
配信を観ていた誰もがそう思った、その時だった。
ましろの胸元が淡く輝く。
懐にしまっていた謎のカプセルから光が溢れ出していた。
カプセルは意思を持つかのように胸元から飛び出し、静かに宙へ浮かび上がる。
太陽のような白金の輝きを放った、次の瞬間――。
空間を呑み込むほどの閃光が炸裂する。
「――っ⁉」
ましろは思わず腕で目を覆う。
直後――。
ガキィン!
鋭い音が空間内に響いた。
光の向こうで、何かを受け止めた音だった。
やがて光が収まる。
ましろは腕を下ろし、前を向いた。
そこには、白金の輝きをまとった神々しい光の巨人が立っていた。
四方八方から突き出された無数の槍を、片腕一本で受け止めている。
「……え?」
ましろは目を見開く。
十万を超えるバフォメットたちも、その光景に一瞬動きを止めた。
光の巨人は、払いのけるように腕を振るう。
その一振りだけで、凄まじい衝撃波が広がった。
ドォォォンッ!!
周囲のバフォメットたちは木の葉のように吹き飛び、壁や天井へ次々と叩きつけられた。
ましろは息を呑み、目の前に立つ巨人を見上げる。
「光の……巨人……?」
思考が追いつかなかった。
しかし、バフォメットが次の攻撃へ移る。
壁に張り付いたまま、静かに無数の手が突き出された。
禍々しいエネルギーが掌に集束していく。
そして、掌から赤黒い光弾が一斉に放たれた。
豪雨のような弾幕が、どす黒い軌跡を描きながら二人へ降り注ぐ。
ましろは表情を引き締め、咄嗟に大剣を構え直した。
だが、光の巨人が彼女を庇うように一歩前へ出る。腰を捻り、豪快に腕を横へ薙ぎ払う。
振り抜かれた一撃が、降り注ぐ光弾をことごとく弾き返す。
弾かれた光弾は天井や壁で炸裂し、バフォメットたちを消し飛ばした。
間髪入れず、光の巨人は腕を十字に組む。
右手から白金の光線が迸る。
光の奔流は空気を切り裂き、壁を這うバフォメットたちを一瞬で塵へ変えた。
圧倒的な力を目の当たりにし、ましろは思わず息を呑む。
「……すごい」
気を引き締めて向き直り、正面の敵を見据えた。
「私も負けてられない!」
大剣を振り上げると、膨大なエネルギーが収束していく。
刀身が白銀に煌めいた。
「白雪流・白刃一閃!」
振り下ろされた刃から巨大な白銀の光刃が放たれる。
その一閃が、バフォメットの群れを容赦なく断ち切った。
間を置かず、ましろは大剣を構え直し、次の一撃を繰り出す。
光の巨人も白金の光線を放ち続けた。
剣閃と閃光が交錯し、バフォメットの群れを次々と飲み込んだ。
十万を超える軍勢は、瞬く間にその数を減らしていく。
やがて、無数のバフォメットが消え去った。
闇が晴れ、白い空間には細かな残骸だけが漂っている。
残るは最後の一体。
起爆タイマーを持つバフォメットだけが、壁に張り付いていた。
空間内にイリスの声が響く。
『ましろちゃん! そいつが最後の一匹! 起爆タイマーを持ってる奴だよ!』
ましろと光の巨人はバフォメットを捉え、同時に構えた。
しかし、バフォメットはその場から飛び跳ねる。
二人は跳躍先へ向き直る。
だが、そこにバフォメットの姿はなかった。
バフォメットは空間内を縦横無尽に駆け回る。制限時間まで逃げ切る作戦に切り替えたようだ。
ましろと光の巨人は視線を走らせるが、バフォメットの姿を捉えられない。
『あと一分!』
イリスの焦りの声が響き渡った。
核ミサイルは、音速で死の秒読みを刻みながら迫っている。
フリーデン本部の司令室。
ましろたちが苦戦する様子を見つめながら、イリスは瞬時に分析した。
「奴のスピードが速すぎる。このままじゃ、間に合わない! どうすれば……?」
ふと、視線を横へ向ける。
世界中から届き続ける膨大なメッセージが目に入った。
「そうだ……! 世界中から届いたこのメッセージを、全部あいつのアドレスへ送りつければ……!」
イリスは即座に実行する。
「いっけぇええええ!」
大量のデータが一斉にバフォメットのアドレスへと転送された。
白い空間。
ましろは素早く視線を巡らせた。
黒い影が目にも留まらぬ速さで視界を横切る。
その姿を全く掴めなかった。
「くっ……!」
冷や汗が頬を伝い、焦燥感が募る。
その時だった。
バフォメットのもとへ、世界中から膨大なメッセージデータが流れ込む。
一瞬で処理負荷が跳ね上がった。
すると、バフォメットの動きが急激に鈍り、やがて壁に張り付いたまま硬直した。
必死にもがく。だが、全身は小刻みに震えるだけだった。
ましろと光の巨人は振り返り、背後で固まるバフォメットを捉える。
『あと十秒!』
イリスの声が響いた。
時間は、もう残されていない。
光の巨人は無言で手を差し出す。
その意図を悟ったましろは、迷わず掌へ飛び乗った。
巨人は大きく振りかぶる。
次の瞬間、全力で投げ放った。
投げ放たれたましろは、閃光のごとく一直線に突き進む。
バフォメットは辛うじて振り向き、壁へ張り付いたまま手を突き出した。
掌に黒いエネルギーが集まっていく。
それでも、ましろは一歩も退かなかった。
眩く輝く大剣を突き出し、叫ぶ。
「スペシウム・シュテルンリヒトォォォォ!!」
剣先が胸へ届こうとした、その瞬間――バフォメットの掌から黒い閃光が放たれた。
光の刃と闇の閃光が交錯する。
ましろは反射的に首を曲げた。
黒い光弾が頬をかすめる。
直後――。
光の剣がバフォメットの胸を貫いた。
同時刻、現実世界。
街では〈フリーデン〉の迅速な対応により、混乱が徐々に収まりつつあった。
だが、核ミサイルはなお街へ向かって飛翔している。
しばらくすると、街の上空へ轟音が響き渡った。
遠くの空から、核ミサイルが一直線に飛来する。
そして、ついに核ミサイルは街を流れる川へ突き刺さった。
その光景をモニター越しに見ていた誰もが、絶望に染まった表情を浮かべる。
まるで世界が静止したかのような沈黙が流れた。
しかし――。
数瞬経っても、爆発は起きなかった。
目を背けていた人たちが、少しずつ視線を戻していく。
一方、画面をじっと見つめていたイリスは、口元をわずかに緩めた。
核ミサイルは川底に深々と突き刺さったまま、垂直に立っていた。
着弾の衝撃で水面が爆発するように弾け、大量の水が空高く舞い上がる。
それが滝のような雨となって降り注いだ。
河川敷にいた人々は、突然の大雨に濡れながら呆然と立ち尽くす。
やがて、澄み切った空に美しい虹が架かった。
その頃、仮想空間。
バフォメットの身体はみるみる塵と化し、風に溶けるように消えていった。
完全に消滅すると、剣先には貫かれた起爆タイマーだけが残る。
タイマーは、残り〇・四六秒で停止していた。
ましろはまだ気を抜かない。
「イリス! 街は⁉」
わずかな沈黙の後、空間内にホログラムが浮かび上がった。
そこには、平穏を取り戻した街の風景が映し出される。
暴走していたシステムは全て正常に復旧し、人々も落ち着きを取り戻していた。
イリスの弾んだ声が響き渡る。
『みんな無事だよ!』
その瞬間、配信を観ていた世界中の人々が一斉に歓喜に沸いた。
コメント欄は世界中から届く祝福の言葉で瞬く間に埋め尽くされる。
『ありがとう、スノーホワイト!』
『あなたは間違いなく救世主だ!』
『かっこいい!』
『結婚しよう!』
ましろは胸に詰めていた息をゆっくり吐き出した。
「……よかった」
ようやく張り詰めていた肩の力が抜け、口元が自然と緩んだ。
「あっ、そうだ!」
光の巨人に感謝を伝えようと、振り返る。
だが、そこに光の巨人の姿はなかった。
役目を終えたかのように、光の彼方へ帰っていったようだ。
ましろは遠くを見つめながら小さく呟く。
「ありがとう」
その時――。
「シェア!」
不意に、どこからともなくそんな声が聞こえた気がした。
ましろは穏やかに微笑む。
しかし、安心したのも束の間。
突然、空間そのものが激しく震え始めた。
「なに⁉」
ましろは即座に警戒する。
低い唸り音が轟き、景色がぐにゃりと歪んでいく。
「バフォメットを倒した影響で、この空間が崩れ始めたんだ!」
ましろは一度だけ崩れゆく空間を見渡す。
静かにメニュー画面を開き、ロビーへの転移ボタンを押す。
反応しない。
「……ん?」
もう一度押す。
何も起きない。
「うそ……転移できない⁉」
慌ててログアウトボタンを押す。
やはり反応しない。
「ログアウトもできない! どうして⁉」
ましろの表情に動揺が走る。
『……プログラムが書き換えられてる!』
イリスは即座に解析を開始した。
『バフォメットが消滅する直前に仕込んだんだ……最後の悪あがきだね』
気を引き締め、心配させないように声をかける。
『ましろちゃん、待ってて!』
目を光らせながらホログラムを高速で操作し、次々とコードを書き換えていく。
『すぐにそこから出してあげるから!』
イリスの力強い言葉に、ましろは落ち着きを取り戻す。
崩壊は刻一刻と進み、空間のあちこちに大きな亀裂が走った。
しかし、ましろは一切動揺しない。イリスを信じて待った。
やがて、イリスの声が響く。
『書き換え完了! ましろちゃん、ロビーへ強制転送するよ!』
「うん!」
ましろの足元に純白の魔法陣が広がった。
身体が眩い光に包まれ、ふわりと宙へ浮き上がる。
次の瞬間、その姿は崩壊する空間から消え去った。
気づけば、ましろはロビーに立っていた。
「やったな、スノーホワイト!」
背後から聞き慣れた声が響く。
振り返ると、そこには輝夜が立っていた。
「シャインナイト……!」
その姿を見た瞬間、胸につかえていたものがようやく下りる。
輝夜はゆっくりと歩み寄り、ましろの前で足を止めた。
「我らの勝利じゃ!」
得意げに微笑みながら、拳を突き出した。
ましろの瞳が煌めく。
「……うん!」
二人は拳を軽く合わせる。
言葉はそれだけで十分だった。
共に戦い抜いた達成感が、二人の笑顔にあふれている。
「さて、凱旋じゃ」
「うん、帰ろう」
二人はもう一度だけ互いに笑みを交わし、ログアウトした。
こうして、コンピューターウイルス『バフォメット』による一連の事件は、複数の負傷者は出たものの、死者を一人も出すことなく、幕を閉じた。
その日の夜――。
廃墟と化したネイチャーラバーズ本部は、深い闇と静寂に包まれていた。
地下最深部の部屋には、整然と並べられたデスクトップパソコンが沈黙している。
突如、一台のパソコンだけがひとりでに起動した。
その画面には、無数の文字列が高速で流れ始める。
やがて文字列が消え、画面中央に灰色の卵がゆっくりと浮かび上がった。
ドクン……ドクン……。
卵は不気味に脈打っている。
間もなく外殻に亀裂が走り、音を立てながら弾けた。
卵の中から現れたのは、一匹の小さなヤギだった。
小さな体は異様な存在感を放ち、画面上部には『Baphomet』の文字が浮かび上がる。
それは、バフォメットが消滅する寸前、自ら密かに転送していたバックアップデータだった。
そのデータは、偶然ネイチャーラバーズ本部のサーバーへ転送されていた。
バフォメットは即座に本部内のシステムを掌握した。
沈黙していたパソコンが一斉に起動し、暗闇だった部屋は無機質な光に照らし出される。
生まれたてのバフォメットは、早速サーバー内のデータを貪り始める。
しかし、サーバー内には食らうべきデータがほとんど残されていなかった。
不満そうに肩を落とす。
赤い瞳が画面越しに室内を見渡した。
その時だった。
部屋の隅に、小さな木人形が倒れているのを見つける。
かつてネイチャーラバーズが神として崇めていた、AI搭載の木製アンドロイド『フォレスト様』の身体だった。
バフォメットの瞳が妖しく輝く。
空中に自身のホログラムを投影し、そのまま木人形へ吸い込まれるように飛び込んだ。
木人形の身体が小さく震えた。閉じられていた瞳がゆっくりと開く。そして、ぎこちなく立ち上がった。
一歩。また一歩。軋む音を立てながら歩き始める。
静まり返った廃墟を探索する。
棚を開け、引き出しを漁り、本部内を巡った。
やがて、保管庫を見つける。
扉を開けると、分厚いファイルや報告書、バイオテクノロジーやトランスジーンの研究資料が隙間なく収められていた。
木人形は一冊のファイルへ手を伸ばし、赤い瞳を輝かせながら黙々とページをめくっていく。
スキャンしたデータは、次々とパソコンへ送信された。
送信されたデータを、バフォメットは貪るように吸収していく。
知識を取り込むたび、データ空間に存在するバフォメットの身体はみるみる成長していった。
十分な知識を得たバフォメットは、なおもデータを吸収しながら次なる計画を実行に移す。
別の部屋に並ぶ培養ポッドが起動した。
空だった培養ポッドへ緑色の培養液が注がれていく。
培養液で満たされると、その中心に小さな細胞の塊が浮かび上がった。
ドクッ……ドクッ……。
細胞の塊は、新たな命の胎動のように脈打っていた。
パソコン画面の向こうで、バフォメットは静かにその光景を見つめている。
廃墟で淡々と動き出したバフォメットの存在に、まだ誰も気づいていない。




