生誕の光と闇 4
とてもきれいな人だった。
ストレートの長い黒髪に整った目鼻立ち。東洋人らしい容姿は、だがおそらく、西洋の血も交じっているのだろうとわかる青い眸。スタイルのよさが際立った濃紺のドレスに身を包み、艶冶な微笑を口元に刷く。
「검은 선생님」
紡がれた言葉に一匠はすぐさま反応した。
「日本語で話しなさい。ここは日本だ」
肩をすくめた仕草が叱られた生徒のようだった。
「ニホンゴ、うまくない。センセ、厳しい。変わらない」
アラ、と次いで言葉を発したのは水無月だった。美玲じゃない、と気安い口調で。
「アンタも日本に来てたの? やあね、なによこんな時に……って、アラアラ、まあまあ……」
どこかのおばちゃんのような感嘆符は、静かに嫌味っぽい様子で閉じられる。「ミナミ、久しい、ぶり」と発せられた声は舌っ足らずな発音で、それがいやに彼女の美人過ぎない抜けた感じを表していた。
歩み寄ってきた彼女がニコリと、絵になりそうなやわらかさで微笑む。美桜の背後にいた男性へ、親しみを込めた雰囲気で。
「シュウ。逢いたかった」
場の雰囲気を変える、存在感ある女性だった。モデル並みにスタイルのよい長身の美女。しかし、やわらかさもありながら筋肉質の体格の良さが見えるのは、きっと体育会系のタイプだから。
笑顔と彼女の雰囲気が、息を呑む美女なのにどこか人懐っこい印象を与えた。彼女がさらに歩を進めるより前に、一匠の言葉が出る。
「美玲。だれの指示でここに来た」
顔色を一変させた美女が、ほんとうに委縮したように縮こまった。「ごめんなさい、センセ」と申し訳なさそうに謝る。
小さな苦笑は一条からもれた。一匠、となだめる声で。
「君がかつて、数多の傭兵を指導した立場であっても、美玲は一条家に連なる者だ。私が招いたんだよ。刺国若比売命の護衛にと思ってね」
「公己仁さま──」
反論しかける彼に、もちろん、と言葉が続く。
「その件は改めて、会合時に議題に上げる。──一匠」
それはやわらかな声なのに、絶対的な立場でもって相手を封じ込める、目に見えない圧力だった。
「私たちの挨拶はまたにしよう。私も暇な身ではない。──彼女と、話をさせてもらえるね?」
美桜をつかむ手に力が込められたが、それを静かに解き返した。離して、と小さな声で。固まった背後の気配から距離を置く。
足の高いスツールから降りて、水無月の背後から歩み出た。
「一匠おじさん、大丈夫。……ありがとう」
あの人に対して怒りの気配を見せ、はっきり近付くなと言ってもらっただけで、美桜には何よりの力だった。彼女は一人ではない。大切にしてくれている人たちがいる。彼女を傷付けた相手に、人前ではあまり見せない怒りをあらわにしてくれる人が。
今度は自分が答えなければ、と伯父を見つめ返すと、一匠はぎゅっと強く眉根を寄せた。ややして、小さくうなずく。
進み出かける彼女に、水無月が腰をかがめてそっと口にした。「みんな近くにいるから、何かあったら呼びなさいよ」と彼女を力付けるように。それにも小さくうなずき、感謝の思いを眼差しに込める。
歩み出た彼女を、一条がやわらかに迎えてほほ笑んだ。「少し離れましょうか」と、彼女を店内から外の回廊へ連れ出す。
照明を加減されている店内とは違って、回廊の方はやわらかな灯りだった。人がいない端で足を止め、対面した男性がにこやかな眼差しを向けてくる。
「挨拶が遅れましたが──聖魔一族、一条家当主を務める、一条公己仁と言います。お名前を伺っても? 刺国若比売命」
内心で吹き荒れる思いを、美桜はどうにかこらえた。眸を返して答える。
「高城美桜です。お初にお目にかかります。一条家のご当主さま」
眼鏡の奥の眸が、少し愉快そうにゆらめいた。
「私が日本にいない間、ずいぶんと我が家の者がご迷惑をおかけしたようだ。あなたには、個別にお詫び申し上げる」
美桜は顔をゆがめそうになって、どうにかこらえた。結構です、と返して、問い返される表情に納得した。自分は侮られているのだと。
少し息を入れ替え、小梅や他の人たちから忠告や指導されたものを改めた。そして直球で挑んだ。
「一条家に籍を置く貴巳という方が私に乱暴した件は、すでに謝罪ももらって処罰も聞きました。元は一条家の者だという由基さんと絢音さんの件も。──現、一条家の者である九重の件も。すべて終わったことです。一条家当主として謝罪していただくのならともかく、わたしは今日、はじめてあなたとお逢いしました。あなたは個別に、何をわたしに謝罪なさるのですか?」
ゆらめいた眸がさらに色を深めた。フッと笑う口調で言葉が紡がれる。
「あなたの立場には、個別に同情申し上げている。私は一条家の当主だが、一人の聖魔でもある。一族に身を置く一人として、同族が起こした行為に謝罪する気持ちはあります」
どこかの政治家みたいだなと美桜は思った。のらりくらりと責任を回避する。五大家当主は大狸揃いだと小梅は言っていた。自家の有利になるためなら、どんな手でも使ってくる──。
「……今日、ここにいらっしゃったのは、なんのためですか?」
偶然なんて信じない。今この時に、聖魔一族、本家の当主である人物が美桜の元旦那と一緒にいたこと。そしておそらく──、シュウと関りがあった女性を呼び寄せたこと。
なに、と公己仁はやわらかくほほ笑んだ。
「よその家はずいぶんとあなたと距離を縮めているようなのに、当家はかなり出遅れてしまったからね。遺憾なことに、ハンデも背負ってしまった。少しでも誼を結ぼうと思っただけですよ」
なんてウソくさい、と感情のまま反発しそうだった。彼の行為はすべて友好関係とは真逆の行為だ。彼女や伯父の一匠に、警戒心や不快感を与えるもの。そう考えて、ふと違和感を覚えた。
一条家の当主がそんなことをする、メリットはなんだろう。美桜の傷や弱点を突いて、彼女を揺さぶるのが目的か。会合時に有利に事を進めるためか。
大きな型の眼鏡とその奥の眸を見つめ、美桜はふと気付いた。違和感。何か──ブレている……?
聖魔一族のことを皐月から学んでいる時、各家の役割や当主のことも聞いた。けれど、一条家の当主に関しては口にされなかった。難しそうに眉根を寄せた皐月が口にしたのは、話すことは禁じられている、ということ。そして──会合時に逢えばわかりますと、それだけ。
でも、こうして対面しても、さっぱりわからない。美桜は何か見落としているのだろうか。
ぎゅっと視線を強くする彼女に、公己仁は小さく笑う。未熟な者に譲歩するように、眼鏡の淵を押し上げた。とたんに人の姿がブレて、美桜も目をみはる。フフ、とおかしそうに笑う声がもれた。
「あなたのピアスと一緒ですよ。一条家の当主には大きな特徴がある。……高城美桜さん。ひとつ、私からの挑戦を受けてみませんか?」
眉根を寄せた彼女に、公己仁は続けた。
「あなたは九重の真名を言い当てられた。本来なら、一条家当主しか知り得ぬものをね。おかげで、妃衣名どのがたいそうお怒りだ。あなたをどんな手を使ってでも手に入れて来いと仰せられて、私は今ここにいる。高城美桜さん──」
口にして、公己仁は微笑をした。ひどく人間っぽいさまで。
「美桜さん、とお呼びしても?」
「……はい」
ほんとうはお好きに、と尖った声で返したかった。しかし、きっとそういったどんな感情もこの人たちは逆手に取ってくる。美桜は未熟だ。大狸たち相手にどんなに虚勢を張っても、きっと全部看破される。
それでも、と姿勢を正した。彼女の中にも譲れないものはある。心に改めて眸を返した彼女に、公己仁は微笑を消して彼女を見つめてきた。
「美桜さん。あなたが私の真名を言い当てたら、私もこの場は引きましょう。今後、あなたの親族以外の関係者にも、手出しはしないと約束する。妃衣名どの──一条家の強権者も私が抑えましょう。いかがですか」
様々に思考をめぐらせた。彼女なりに、ひっしに。質問をしても? と問う声に公己仁はうなずく。なんなりと、と。
「その挑戦をわたしが受ける、メリットはなんですか?」
大きく目を見開いた公己仁が、次いで消した感情をあらわにした。ハハッ、と小さな、けれど確かな声にした笑いで。
それをとどめながら、口元を抑えたつぶやきがもれる。なるほど、と。
「あなたを傷付け、今もあなたの有益性を目にするや、関わりを持とうとする元伴侶。そこを突かれても、引き合いに出されても、あなたの弱みにはならない。まあ、確かに。鷹衛の迅が口にしたように、法的な効力もない赤の他人だ。そして……あなたはおのれのことも、一条家のことも教わってはいない」
まあ、刺国若比売命に関してはうちも他家と大差ない、と思うようにつぶやかれる。なるほど、と繰り返された言葉には、表面的に遊ぶ色ではない、本気の色が宿ったようだった。
少し、ゾワリとするような感情の色。今までは流れる時の中で起こった、さざ波とわずらわしさ、と捉えていたようなのが、今はじめて、美桜という一人の人間を認めたようだった。
「枷が外れかけたのもわかる。美桜さん、あなたはおそらく、とても危険な人だ」
揺るがず見返す彼女に、公己仁は微笑を収めると、静かな眼差しを傾けた。美桜さん、ともう一度彼女の名が呼ばれる。
「我が家に来ませんか?」
「……なんのためにでしょうか」
眼鏡の奥の眸が、とても静かに彼女を見つめてきた。どこか、秘めているものを伝えるように。
「来ればわかる──と言っても、信用には価しないでしょう。そうですね……。聖魔と妖魔、この戦いを止め得る──可能性がある。あなたが我が家に来れば」
眉をひそめた美桜に、うーん、と公己仁も説明しづらそうに指先を顎にあてる。困ったように彼女をながめ、苦笑する息をついた。
「やはり、先の話に戻る。美桜さん。私の精気を受けて、私の真名を当ててみてください。さすれば、答えがわかる」
とっさに身体が引いてしまった。他の人の精気にはおびえが勝ってしまう。身体を汚されるのと同じ──もしかしたら、それよりも嫌悪を抱くもの。彼女の中に踏み込み、染め替えられるような行為。
虚勢を張っても青ざめた彼女に、公己仁の面がフッと笑みの形を取った。ひどく人間くさく、どこか彼女に同情するように。
「何事も慣れですよ、美桜さん」
一瞬、美桜にも考える余地が生まれたのだが、続いた言葉は紛れもない一条家当主のものだった。
「あなたはこれから、様々な者から精気を受ける。今ここで、あなた一人が頑張っても意味がありませんよ」
眼鏡の奥の目が促すように彼女の背後に投げられた。見てはいけない、と美桜もわかった。五大家当主は──一条家は、美桜を傷付けて打ちのめして、意のままに操ろうとしている。
そう察せられたのに、美桜はふり向いてしまった。
十数メートルほど離れた場所に、伯父たちがいた。彼女を見守るために。それはおそらく、タイミングだったのだと思う。伯父は何かにふり向いていた。そしてその近くに、片腕に親しげに触れられながら、美玲と呼ばれた女性と何かを話す、シュウの姿があった。
──先に、美桜もしていたような仕草。
目にした二人のそれは、身長差があまりないために、さらに近い距離と慣れた空気だった。こういう時ばかり働く勘が教えた。二人が深い仲だったと。そして、そこに追い打ちをかける言葉。
「あなたは知っているはずだ。男はいつだって、あなたを裏切る。あなたとは別の女性を選ぶ。あなたから手を離す。声は聞き届けられない。いつでも──あなたは一人のままだ」
フラッシュバックが起きた。強制されたわけでもなく、過去の様々な光景が。
あの人と他の女性の姿。楽しそうに笑い合い、仲良く部屋に入っていく影。電車に乗って一人、知らない街を歩いて、事実確認をして、彼女の好きな季節に絶望を味わった。一人で張り裂けそうな思いを抱えて、だれもいない部屋へ帰った。裏切りが悲しくて、みじめで……みじめで、仕方なかった。自分の存在、すべてが。
隣人は常にそばにいた。真っ黒な影。そこに浸る心地よさ。何もかもがどうでもよくなった。世界も自分も、今すぐ滅茶苦茶になってしまえばいい──。
「…………」
大きく息をするのと、彼が目を上げるのは同時だった。目を合わせる前に、美桜は眸を戻した。
公己仁はほほ笑んでいた。彼女を傷付けてその反応を楽しむ、残酷な支配者のように。
「美桜さん。男に期待するのは止めなさい。それはあなたの身を滅ぼす」
苦しい息の中で、美桜は静かに深呼吸をした。まずは、深呼吸──。そう言われた。
実は、小梅御用達の隠れ家サロンには、エステティシャンとは別に、臨床心理士もそろっていた。心理的な問題の手助けをしてくれる人。その人から言われた。苦しい時は、まずは深呼吸をしましょう、と。
それを改めて、カウンセラーの先生と話した様々な話と、自分の行いと、たくさん泣いた記憶。すべてを美桜は内に抱きしめた。
そして、素直に自分の心を認めた。シュウに近付く女の人は嫌い。過去を匂わせる彼の行動もイヤ。腹が立つ。ムカつく。なんで、美桜以外の女性に気安くさわらせるの……!
「一条家のご当主さま。ありがとうございます」
問い返す瞬きに、美桜は八つ当たりのまま返した。
「稚拙な行動とひねりもない型通りのセリフ。予行練習にはなりました。五大家会合の」
眸が大きく面白そうな色を帯びた。次はどうやって傷付けて遊ぼうかと。その口が開かれる前に、美桜はサッと手を伸ばして彼の眼鏡を奪った。
うそくさい顔ではなく、本性をさらせと。
瞬間──。
地面が揺れた。同時に、周辺の空気の色が変わった。結界、と呼ばれるもの。同じ場所にいるのに、まったく別の空間を展開する彼らの術。
しかしそれより──。美桜は息を呑んだ。
目をみはる、まばゆい人物が現れた。黄金色の長い髪。堂々たる体躯。二人といない存在感。身近にするだけで恐れおののいてしまう、絶対的な人物。その身から発せられるエネルギーは、間違いなく自然界の調律を変えると断言できる。同じ生きものとは思えない、圧倒的な力。
それはまるで──。
知らず数歩下がった彼女を呼ぶ声が聞こえた。「美桜……!」と、あせったような伯父の声。「……を呼べ!」と言う意味もわからない。声がとても遠い。空間が歪んでいるのか、彼女の足元がおぼつかなくなっているのか、揺れる地面にふらつく彼女を公己仁がつかんで止める。
やわらかな笑みが向けられた。「大胆な人だ」、と。彫刻のように深く鋭角に彫られた顔立ちの人物から。
黒い双眸は周囲へ投げられ、淡々と状況を把握していた。ふむ……、と起こった事実をただ確認するように。
「刺国若比売命が神器を無効化するとこうなるか。美沙緒が言っていた通りだな。しかし、我の力ならば止められる。下僕も……まだ可能か」
なるほど、と口にした次には、つかんだ腕を引いて美桜の首筋に口付けた。深く──息をするように彼女がまとう精気を奪い取り、そして自身のそれを吹き込んだ。
「……っ」
声にならない悲鳴がもれた気がした。
全身で拒絶する思いと、その彼女の意志も簡単につぶす圧倒的な力。微塵になって、粉々。何も残らない。
彼女はちっぽけな存在。この人の前には、自我を持つことも、逆らう意思を持つことも愚かなこと。その圧倒的な力と存在を前に、ちっぽけな自分はただひれ伏すだけ──。
ちがう。違う……!
ひっしにふり払った彼女の手から、公己仁が眼鏡を取って自身に掛け直した。とたんに揺れていた地がゆるやかに収まり、数歩よろけた美桜も横の壁に手を付いた。何よりも自我を無視された怒りでいっぱいだった。
わたしは、とその思いのまま目を上げた。
「承知して、いません。あなたの挑戦を受けるなんて」
ふふ、と平凡な容姿の男性が笑った。その雰囲気ままのやわらかさと、平素な様で。
「でも、あなたは分かったでしょう? 私の真名と、あなた自身の役目。もうひとつ──」
口にされた言葉に、懸命にこらえていた感情の箍がゆるんだ。ひとつ、こぼれた涙は悔しさだったのか、絶望だったのか。
公己仁はそれにも笑った。彼女に同情するように、嘲笑うように。そして、一歩踏み込むと彼女の涙を指先で拭い、それをペロリと舐めた。彼女の涙、一筋すら自身のものであると見せ付けるように。
「今夜はこれで引きましょう、美桜さん。私もこれ以上はあなたに譲歩できない。あなたがどの選択をするのか──楽しみだ」
「……卑怯者」
精一杯の誹りも、彼はやわらかに受けた。私も後がない、と。
何気ない動作で手を動かすと、とたんに周囲の音が飛び込んできた。回廊に流れる音楽。離れたバーからは、小さくなかった地震にさざめく人々。美桜、とすぐさまそばに来た伯父の一匠。
美桜はそれでも、公己仁を睨む目を止められなかった。緊張を解いてはならない。そらしてはいけないと、どこかで感じていた。
彼はそれに、あくまで嘘くさく笑って返してきた。
「我が家に来て、私のものになりなさい、美桜さん。それがあなたと、あなたが守りたい者たちのためだ」
「絶対に……、イヤ」
なけなしの勇気をふりしぼった声は、ひどく弱々しいものだった。もっと、毅然と──付け入らせる隙もなく、きっぱりと。
美桜の中の思いと、現実と、いつもうまくかみ合わない。ちゃんと、周りに心配かけないよう、きちんとしたいのに。
公己仁の微笑が深まり、さらなる言葉が紡がれるのがわかった。彼女をまた、地の底に落とす絶望感。それがわかる。もう、あの闇に捉われるのは……。
目の前が暗くなりかけた、その時だった。
立ちふさがった影があった。ふたつ。大きな長身と鍛えられた背筋。背中だけなのに、感情を抑えているとわかるのに、明らかな激しい怒気がわかる人物。美桜と主従契約を結んだシュウ。
そして、たぶん、嘉哉に抑えられて姿を見せなかった宗興。
火のように熱い彼の気配に、美桜も小さく驚いた。あの未明の戦いの中でも、どこまでも静謐な気配を見せていた人なのに。
その宗興に、やあ、と公己仁の意識も向かった。彼女に向けたのと同じ、残酷に他者を支配する絶対的な者の態度で。
「木曽の宗興じゃないか。妖鬼将さえも魅了する、魔性の聖魔。妖魔と敵対する我ら聖魔一族に生まれたのは、何かの間違いではないか、妖魔の罠ではないかと言われていたね。久しく姿を見なかったが……どうやら、めでたく鬼沙羅の呪いも解けたようだ。妖鬼将の呪いを受けた者は希少だよ。その経験と検体は四条家へ提供すべきだ」
宗興の態度は変わらなかった。その気配も微塵も揺るがない。他の人とは異なる、芯に萌した強さ。属する世界の中で、傷付けられても、笑われても、おのれの誇りを踏みにじられても──。
彼は、自分を譲らなかった。
……美桜は、簡単に隣の闇に身をゆだねたのに。
彼の力強さを感じた前で、公己仁の声音はひとつ低くなった。自身の視界を遮る二人。一条家当主の行動を妨げる、如何なる権限を持つのだと。
「それで……木曽の魔性も、母親殺しの戦闘兵も。穢れを受けた者がなぜ、許しもなく私の前に立つ?」
絶対的強者からの頭ごなしの問い。立場を教える威圧と、彼女との間を阻む行為に、明らかな叱責を向けていた。
私は、美桜さんと話している、そこをどけ、と言わんばかりの圧倒的な命令と支配力。二人はそれに揺るがず立っていた。言葉はいくらか雄弁な宗興から。公己仁さまこそ、と。
「お聞きにならなかったのですか? 刺国若比売命はおっしゃいました。あなたの言葉に対し、絶対に嫌だと。ならば──我らは主人を守るため、相手がだれであろうと、その意に従うまで」
主人? と公己仁の目が面白そうに瞬き、思案するように黙した。そこに新たな声がかかる。公己仁さま、と揺るがない強い声が、美桜のそばから。
「この場は、引いていただけますか。これ以上の話があるのなら、会合の場で。他の方々の目もありますゆえ──」
怪訝そうな目が周囲を囲んだ顔触れをながめ、一人の人物に止められた。小さく愉快がる声がもれる。
「葉月。妙な気配を付けていると思ったら、胤興の使い魔、凪か。なるほど。刺国若比売命に近付く者を記録する──妖魔と、私もか。彼女に不埒なふるまいをする者は、会合時に査問にかける──と」
クク、と愉快そうに喉を鳴らし、しかし彼の気配は傲然と揺るがなかった。声にしない、愉快がるその気配が物語っていた。私を制する、如何なる権限をおまえたちが持つのだ──と。
まあ、いい、と反転して言葉は紡がれる。
「彼女にも告げたからね。今夜は引こう。──美桜さん」
表情も視線も遮られてわからないのに、美桜には公己仁の目が自分を見ているのがわかった。その存在であるのだと。
「会合時に、また。……あなたは、感情のまま話されるほうが似合っていますよ」
彼が視線を向けるだけで、他の聖魔たちは下がる。その間を悠然と歩き去る、絶対的な存在。
その気配が彼らの範囲から立ち去るのを、だれもが固唾を呑んで見守っていた。美桜が対峙していたのは、それだけの相手なのだと。
緊張が消えて息をつく彼女を、一匠が強く腕をつかんで向き合わせた。美桜、と少し彼女を咎める様子で。
「公己仁さまに何を言われた」
とっさに、美桜はその腕をふり払っていた。反射的な行動だった。自分でもその行動に驚いた。
「あ……」
壁伝いに背中を預けて逃げ、なぜ信頼した伯父の手を避け、距離を取らなければならないのか。その事実に美桜も目を見開いた。伯父の表情は、それを見て目をみはるものだった。
彼女のむきだしの傷口を目にしたように。驚く伯父に、美桜も追い詰められた。
「ごめん……なさい……」
弱いから付け込まれる。弱みだと思われているから、相手はこんな手を打ってくる。美桜が弱いから。傷を引きずっているから──。
彼女の危うい息遣いを察して、そばに来た気配にも、おびえて避けた。今は無理だった。だれにも触れてほしくなかった。
ごめんなさい、ともう一度謝って、自分の中に渦巻く、大きな感情と垣間見てしまったものへの混乱に捉われていた。整理がつかないまま、美桜はだれの手も拒否した。だれも、さわらないで──と。
そこに、足元から小さな声がかかった。美桜、と。いつもの声で。
「タマ……タマ」
急いでしゃがみ込んでその存在を腕に抱きしめた。今の美桜にとって、何よりの救いの存在だった。
その彼女の汗を、同じように膝を付いた傍らで、そっと拭ってくれる人がいた。一条家に籍を置いているのに、伯父の味方でいる人。
美桜は、彼女のことは信じると決めていた。
「立てる……?」と案じる表情の小梅に聞かれてうなずき、周囲を気遣う人に囲まれて、どうにかその場を離れた。
~・~・~・~・~
エレベーター前に移動するや、ったく、と苛立った声で美桜の身体は抱き上げられた。少し乱暴な手で。
どうしてもおびえと吐き気が走る彼女に、隻眼の男が告げた。少し我慢しろ、と。
「足元も危うい真っ白な顔色で我慢されちゃ、こっちも気が気じゃねえ。オレならまだいいだろ。ちょっと我慢しろ」
口にした神無月は、踏み込みかけたシュウや宗興を目線で制したようだった。おまえらは控えろ、と。そして考え込むように険しい顔付きのままの一匠へ目をやった。一匠さん、と断りを入れるように。
「オレらはいったん、ホテルへ戻ります。あの人が動いたってことは、かなりヤバいんじゃないッスか」
ああ、と眉根を寄せた一匠は考え込んでいた思考を切り替えるように簡潔な命を口にした。
「ケイナ、一緒に来い。宗興、玄翁へ連絡。──リツ、皆実、ヨシ、小梅。美桜を頼む」
それぞれが了承した気配で動く様子。美桜はひどい吐き気の中で、どうして、と思った。おじさん、なぜ。彼の名を呼ばなければ、彼が傷付く──。その名を呼ぶ声があった。別の女性から。
「シュウ──センセ。私、付き添う。女同士。OK?」
一人付いてきた、一族の関係者であるらしい女性だった。美玲、と呼ぶ一匠の声は厳しく冷たい。
「一度しか言わない。国に帰りなさい。今すぐだ」
センセ、と彼女の傷付いたような反論の声が出た。私、帰らない、と言葉がもどかしそうなのは、日本語で話せ、と一匠に言われたからだろうか。
折よく来たエレベーターに移動しながら、皆実がため息のまま彼女に告げていた。美玲、一匠さんの言う通りにして、と。そして声を出すのも難しくなっていた美桜が腕に込めた思いを聞いたように、タマが口にした。
「シュウ」と。
ハッとしたように、凍り付いていた彼が箱の中に乗り込む。
一匠と葉月、宗興、そして美玲と呼ばれた女性を扉の外に、その高層階から──彼女の最悪の誕生日となった場所から遠ざかっていった。