エピローグ
数週間後。
ドレスデン。
エルベ川の水面に、夕方の光が長く伸びていた。
旧市街の石造建築は、戦争も再建も観光客も全部飲み込んだ顔で並んでいる。
路面電車がベルを鳴らして通り過ぎた。
川沿いから少し入った店に、五人はいた。
剛。
蜂。
栗。
牛。
臼。
当然、誰も武装していない。
剛の左腕には、いつもの五本の指があった。
テーブルの上に銃はない。
あるのはコーヒーと、食べ終えた皿だけだった。
栗が椅子にもたれた。
「親父さん、やっと白になったな」
「最初から白だった」
剛が答えた。
牛がカップを置いた。
「書類が追いついただけじゃ」
米丸救出とKAKI-3の回収について、GHSC内部で通り一遍の聴取があった。
事実をそのまま話した。
拘束されたり咎められることはなかった。
牛が先に送っていた資料が、会社にとっても無視できない重さを持っていた。
完全に会社内部のこととして処理されたらしい。
GHSC……Global Harmony & Stability Corporation。
「世界調和安定社」とはよく言ったものだ。
誰もその話を続けなかった。
もう終わった。
誠の名前は、あるべき場所へ戻った。
それでいい。
栗が剛を見る。
「で、お前どうすんだ」
「何が」
「これから」
剛は窓の外を見た。
エルベ川の向こうに、夕日を受けた屋根が並んでいる。
「まだ決めてない」
「そうか」
栗はそれ以上聞かなかった。
蜂も何も言わない。
牛はコーヒーを飲んだ。
臼は皿に残った最後の一切れを食べた。
それだけだった。
*
店を出た。
石畳。
観光客。
自転車。
路面電車。
遠くに聖母教会の丸い屋根が見える。
エルベの向こうには新市街。
橋を渡る人の流れ。
夕方のドレスデンは、五人が何をしてきたかなど知る必要もなく動いていた。
栗が先に離れた。
少し歩いてから振り返る。
「じゃあな、KANI」
剛は一拍置いた。
「CHESTNUT」
「もうそれで呼ぶな」
栗が苦笑いした。
そのまま手だけ上げて、人混みへ消えた。
牛と臼も別れた。
牛は最後まで何か機械の話をしていた。
臼は聞いているのかいないのか分からなかった。
蜂も、
「じゃあね」
それだけ言って歩いていった。
剛は一人になった。
*
エルベ沿いを歩いた。
行く場所がないわけではない。
行く場所を決めていないだけだった。
三年前とは違う。
その違いを、わざわざ言葉にする必要もなかった。
*
遠くから音がした。
二気筒。
低い。
だが、等間隔ではない。
ドッ。
少し間があって、
ドドッ。
また間。
空冷Lツインの不等間隔爆発。
均等に刻むというより、二つの鼓動がずれて重なるような音だった。
近づいてくる。
マットグレーの車体。
丸いヘッドライト。
細身のタンク。
Ducati GT1000。
剛の傍で止まった。
エンジンは回ったまま。
ドッ。
ドドッ。
ドッ。
回転は一定なのに、音だけ聞けばどこか脈が乱れている。
不整脈みたいだった。
蜂がエンジンを切った。
急に静かになる。
後ろに括りつけていたヘルメットを取った。
シールドのない、クラシックなジェットタイプ。
剛へ差し出す。
何も言わない。
剛も聞かなかった。
受け取った。
*
ヘルメットを被り、後ろに乗る。
蜂がエンジンをかけた。
また不規則な二気筒の鼓動が始まる。
ドッ。
ドドッ。
車体が小さく震えた。
剛は右腕を蜂の腰へ回した。
一瞬だけ迷う。
左。
五本指の義手。
その手も、蜂の身体へ軽く添えた。
蜂は何も言わなかった。
GT1000が動き出した。
加減速に合わせて身体が前後に揺れる。
剛の胸が蜂の背中へ近づく。
ジェットヘルメットの開いた顔まわりから風が入った。
匂いがした。
キャンプのときとは違う。
あのときは汗だった。
暑さと運動と、生きている身体そのものの匂い。
意味を考える前に身体が反応した。
今度は違った。
髪からなのか。
リンスなのか。
ごく薄い香水なのか。
分からない。
ただ、いい匂いだと思った。
今度はちゃんと、頭でそう思った。
剛は少しだけ右腕に力を入れた。
左の五本指は、そのまま軽く触れていた。
蜂は振り返らなかった。
*
GT1000はエルベ沿いを走った。
橋を渡る。
石造りの街が後ろへ流れていく。
路面電車。
自転車。
川面。
夕方の光。
やがて建物が少しずつ低くなった。
どこへ行くのか。
剛は聞かなかった。
蜂も言わなかった。
エンジンの音と、路面の振動だけがあった。
急いで答えを出す必要はない。




