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第9話 今度は、俺自身が理不尽になってやる

 ミナト・クロフォード──それが、この世界での俺の名前だ。


 生まれは王国の第二王子。まさに、かつての俺とは真逆と言ってもいい立場。


 だが、俺はただの赤ん坊ではない。

 前世の記憶を、全て持ったまま生まれ直した人間だ。


 薄暗い部屋で鎖に繋がれ、目の前で大切な人を殺され、自ら首筋を切って死んだあの日の記憶が、鮮明に残っている。


 ──転生した。


 本当に、異世界に生まれ直したのだ。


「あーうぅ」


 意味のない声を上げながら、天井を見る。


 視界の端で、薄い光が揺れていた。


 魔力のオーラ──前世にはなかったものだ。


(これが、魔力……?)


 表向きは普通の赤ん坊のまま、心の中だけが騒ぐ。


 まだ夢だと疑いたくなる。

 異世界の物語に、本当に足を踏み入れてしまったような感覚だった。


「ミナト様のご夕食をお持ちしました」

「ありがとう。さあ、ミナト」


 使用人と思しき女性が部屋に入る。


 母は俺を抱き直すと、優しく微笑んで口元へスプーンを寄せた。


 温かい味が広がる。

 初めての味なのに、妙に落ち着く。


 それと同時に、身体の奥へ何かが染み込むような感触があった。


(……これ、魔力が増えている?)


 確信はない。

 それでも期待だけは、簡単に膨らんだ。


 この世界では、成長そのものが力につながるのかもしれない。


「ふふ。この子は、すごい子になりますね」

「ええ。私たちの子ですから」


 前世では得られなかったものだ。


 温かい家族。

 豊かな魔力。


 その幸福に、胸が熱くなる。


(家族……か)


 母の腕の中で、その単語だけが遅れて届く。


 抱き直されるたびに体温が移る。

 髪に触れる指が、理由もなく丁寧だ。


 前世では、食卓は壊れた。

 両親の名前は墓に刻まれた。


 残ったのは、守ると言って守れなかった自分と、隣にいるべきではなかった夜だけだ。


 なのに今は、奪われたものが形を変えて戻ってきたみたいだった。


 血の臭いのない部屋。

 怒声のない天井。

 スプーンを口元へ運ぶ手が、途中で止まらない。


(帰ってきた……のか)


 違うと分かっている。


 この腕は前の母さんではない。

 父さんではない。


 それでも、失ったものの代わりが、今ここに温かく──。


 ──兄さーん。朝ですよー?


「っ……!」


 頭の中を、あの声が過る。

 背筋を冷たいものが伝った。


 ──もう、どこにも行かないでね?


 短い。


 だが、それで十分だった。


 身体が震える。

 急な吐き気と目眩。


 それは、もういないはずのあいつの声。


「ミナト様?」

「ミナト、大丈夫?」


 母と使用人の女性が覗き込む。


 その優しさが、今は痛かった。


「ぅ……」


 ──ここは、もうあの地獄じゃない。


 分かっている。

 分かっているのに、身体が拒否する。


 幸せを感じるほど、また失う想像が膨らむ。


「泣かないで、ミナト」

「きっと怖い夢でも見たのでしょう」


 使用人と母の手が、背中を撫で、頭を撫でる。


 温かい。


 それでも、残像は晴れない。


(……まだ、足りないのかよ)


 あいつは、もういない。


 なのに、ふとした拍子に、あの部屋の空気が戻ってくる。


 何度、心の中で繰り返しても、不安だけが胸を締めつけた。


 俺は、ただ泣き続けた。


*


 その後も、日常は穏やかに過ぎた。


 父は厳しく、しかし嫌な人間ではなかった。

 兄を叱る声は大きくても、俺には丁寧だった。


「おぉ、小せえ」


 ベッドの縁から覗き込んでくるのは、まだ幼い兄だった。


 名前はアルフェン。

 俺より四つ上であり、王子というより子供の顔をしている。


 短い指で俺の頬をつつく。

 力はない。


 悪さというより、珍しいものを確認しているだけだ。


「目は開いてるのに、歩けもしないのかよ。オレの弟なのにな!」

「アルフェン。弟をいじめるな」

「いじめてねーよ!見てるだけ!」


 そう言いながら、今度は俺の握った拳に自分の指を添えてくる。


 赤ん坊の手では、兄の指を包み込めない。

 それだけで兄は面白そうに笑った。


「やっぱ弱いな!オレが守ってやるしかないか!」


 軽口だった。


 なのに、「守る」と言われる感触だけが胸に残る。


 前世でも、今世でも、先に口にするのはいつも誰かだ。


 母は笑って兄の頭を撫で、兄は少しだけ照れた顔をした。


 嫌味はない。

 上からでもない。


 ただ、自分が兄であることを、もう気に入っている。


 俺は声にならないまま、その指を握り返した。


 兄は目を丸くして、得意げに父を見た。


「ほら!オレのこと気に入ったぞ、こいつ!」


 父は短く鼻を鳴らしただけだった。


 それでも、その場の空気は壊れなかった。


 母は毎日のように傍にいて、夜は低い声で絵本を読んでくれる。


 王子として、過剰なほどに恵まれた環境。


 前世の俺から見れば、信じられないほどに穏やかな日々だった。


 そうして、日が過ぎ、週が過ぎ、ひと月が過ぎる。


 身体も少しずつ大きくなり、俺もこの世界のリズムに慣れ始めていた。


 いや、慣れたつもりでいただけなのかもしれない。


*


 深夜。


 誰もいない寝室で、不意に目が覚めた。


 薄い月明かり。

 冷えた空気。


 誰もいないはずの部屋なのに、胸の奥が先に騒ぐ。


「っ……」


 原因は分かっている。


 あいつだ。


 理由は、いまだにうまく言葉にできない。


 ただ、身体が先にすくむ。


 ──兄さん♪


 本当はそこにいないと分かっている。


 分かっていても、反応してしまう。


 鎖の音。

 足音。

 あの笑顔。


 ──兄さ〜ん?どうして逃げるのー?


 見たくない、と思った時には遅かった。


 ベッドの上でうずくまる俺へ、近づいてくる気配だけが膨らんでいく。


 逃げようとしても、身体が動かない。


 金縛りではない。


 ただ、恐怖が先に身体を押さえ込んでいる。


 ──こっちでも、また会えたね♪


「あああぁッ!!」


 叫んで、跳ね起きた。


 呼吸が荒い。

 心臓がうるさい。

 冷や汗が背を伝う。


 赤ん坊の身体でも、恐怖だけは同じだった。


 部屋には、誰もいない。


「はぁ……はぁ……」


 呼吸を整えようとしても、すぐには戻らない。


 転生してから、何度も振り払おうとしたが無理だった。


 むしろ、前よりはっきりする気がする。


 ──明日も、楽しみにしてるからね。


 耳元で言われた気がして、肩がすくむ。


 幻でも本物でも、不快なことに変わりはない。


(くそっ……)


 布団を叩く。


 大きな音にはならない。

 それでも、今の俺にはそれが精一杯だった。


 王国の第二王子として生まれ直した。

 家族もいる。

 環境もいい。


 なのに、まだ過去の部屋から出ていない。


「は……はは」


 自嘲が漏れる。


 外見が変わっても、中身は同じなのか。


 また同じ場所で立ち止まるのか。


 その時、違和感があった。


「なんだ……?」


 暗い空気の中に、薄い熱がある。


 目を凝らすと、光の粒が見えた。


 宝石のように、小さく揺れている。


 指で触れることはできない。


 なのに、胸の奥がそれに反応する。


 さっきまで部屋を占領していた鎖の音が、わずかに遠のく。


「魔力……」


 夜の天井を見ながら、別の声が重なった。


 幻聴ではない。

 あいつの声でもない。


『ゲームによくあるじゃん?魔力とか波動とか。もし世界にそんな力があって、一人だけ別格に強かったら、優也は何をする?』


「…………」


 この力を完璧に使いこなせれば、安心できるだろうか?


 どれだけ理不尽なものが現れても。


 どれだけ大切なものを奪おうとする奴が現れても。


 今度こそ、何も奪わせないくらい強くなれたなら──。


「……っ」


 鎖は、もうついていない。


 だが恐怖は、まだ残っている。


 この世界なら、不可能を可能にできる力がある。


 だから、自分で手に入れるしかない。


 ──現実逃避?


 ああ、そうだろう。


 分かっている。


 それでもいい。


 俺は弱い。

 誰よりも脆い。


 だからこそ──。


 澪を思い出す。


 夕日の中で笑った顔。


「好きだ」と初めて言えた人。


 鎖に繋がれたまま、目の前で何度も刺され、最後まで俺を見ていた瞳。


 助けたかった。


 抱きしめたかった。


 なのに、何もできなかった。


(……だったら)


 天井を見ながら、決めた。


 過去は変わらない。


 忘れることも、できない。


 ならば、それを利用してやる。


 かつては、理不尽を味わわされた。


 何の力も持たないまま、ただ奪われる側だった。


 ならば今度は──俺自身が理不尽になってやる。


 誰にも奪わせない。


 誰にも好き勝手させない。


 何を言われようが、何をされようが──。


 それすら全部、力でねじ伏せられるくらいに。


 そう思った瞬間。


 俺の中の何かが、わずかに変わった気がした。


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