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第8話 そして、転生へ


 あれから、どれだけの時間が過ぎたのだろう?


 一週間か。一か月か。それとも、もっと長いのか。


 もう、正確な感覚など残っていない。


 薄暗い部屋。窓から差し込む月明かりだけが、この狭い世界をぼんやりと照らしている。


 俺はベッドに横たえられたまま、手足を縄で縛られ、口には固い布を押し込まれていた。


 息を吸うたびに布が喉の奥に食い込み、時折、咳き込みそうになるのを必死に堪える。


 身体のあちこちが痛む。縄が肌に食い込んだ跡は、もう赤黒く変色していた。


 それでも、もう痛みなどどうでもよかった。


「兄さ〜ん?起きてるー?」

「っ!?」


 ──恐怖。


 扉の向こうにいる『あいつ』への、どうしようもない恐怖。


 かすかな物音がする。


 足音だ。


 ゆっくりと、近づいてくる。


 心臓が、痛いほどに高鳴る。

 息を殺す。身体を硬くする。


 逃げられないと分かっていても、本能が拒否反応を示す。


 扉が、静かに開いた。


「ただいま、兄さん♪」


 長い黒髪が月明かりに青白く浮かび上がる。


 優しい笑みを浮かべたまま、彼女は部屋に入ってきた。


 その手には、鈍く光る何かが握られていた。


「ふふっ……今日もちゃんと栄養をつけなきゃね」


 優奈はそう言いながら、俺の猿轡を外した。


 布が外れた瞬間、肺に冷たい空気が流れ込む。咳き込みそうになるのを、必死に堪えた。


「……優奈」


 掠れた声しか出ない。


 名前を呼んだだけなのに、彼女の顔がぱっと明るくなる。


「うん、兄さん。わたしだよ。ちゃんと分かってくれるんだ」


 俺の隣に腰を下ろす。手に握られていたのは、果物ナイフだった。


 小さな林檎を、丁寧に皮ごと剥いていく。刃物の音だけが、狭い部屋に落ちる。


「今日学校でね、先生がまた聞きに来たの。『お兄ちゃんはどこ?』って」


 笑顔のまま、首を傾げる。


「不思議だよね。わたしがずっと守ってるのに。兄さんは、もう、どこにも行かないのに」


 林檎の一切れを、俺の口元へ運ぶ。拒めば、また布を押し込まれる。分かっていた。


 だから噛む。甘い汁が、乾いた舌に染みる。


 甘いはずなのに、喉を通らない。


 澪の血の臭いが、まだ鼻の奥に残っている気がした。


「ふふっ……えらいえらい。もうすっかり素直になったね」


 頭を撫でられる。


 その掌は温かい。妹の掌だ。


 なのに、肌が先に拒否する。


 触れてほしかった手は、もっと細くて、夕日の残る部屋で頬に触れた方だった。


「……澪は」


 名前を出した瞬間、指先が止まった。


「……ん」


 本当に短い間。


 でもすぐ、また笑った。


「あいつなら、もういないよ?兄さんを誑かした人は、もういないんだよ?」


 次の一切れを、優しく押し込む。


 咀嚼する音が、自分の耳にだけ大きく聞こえる。


 ──澪が、いない。


 その一言で、胸の奥が落ちる。


 いつも隣にいてほしかった人が、もう二度と笑わない。


「ありがたみって、なくなってから分かるって本当なんだ。苦しかった時が、一番よかった。誰も理解してくれなくて、兄さんがわたしだけを見てくれて。二人だけの世界。それが正解だったのに」


 優奈の額が、触れそうな距離まで近づく。


「ね、兄さん。わたしのこと、好きだよね?」


 答えられない。


 好きも嫌いも、もう言葉にならない。


 残っているのは、目の前で刃が澪を貫く音と、届かなかった彼女の「助けて」だけ……。


「──好き、だよね」


 確認ではない。


 決定だった。


「答えなくていい。兄さん、不器用だもんね。でも、身体は正直だよ?わたしが傍にいないと、すぐ変な女に優しくしちゃう」


 囁きが、耳の奥へ入る。


「大丈夫。今度はわたしが、全部決めるから。ご飯も、寝る時間も、誰と話すかも。兄さんは──何も考えなくていいんだよ?」


 猿轡を、再び噛まされた。


 布が歯茎に食い込む。


 最後に見えたのは、満足そうに目を細める優奈だった。


「今日はもう寝るね。明日も学校だから。ちゃんと帰ってくるから、待ってて」


 部屋の隅の薄いマットへ行く。


 長い髪が頬にかかり、眠る姿は、昔の妹のままだった。


 その後も同じ夜が、何度も繰り返された。


 学校の話、施設の話、先生の話。


「兄さんがいないと寂しい」と、穏やかに笑う話。


 林檎を剥く音。

 口に運ぶ指。

 外される猿轡。

 すぐに戻される布。


 優奈が笑うたびに、胸の奥が削れる。


 可愛い声で「兄さん」と呼ばれるたびに、澪が死んだ部屋の空気が戻ってくる。


 同じ月明かり。

 同じ狭い空間。

 同じ、逃げられない時間。


 目を閉じると、彼女が見える。


 教室の隅で気兼ねなく話しかけてくれる彼女の顔。


 宿題を奪いながら、「助け合いだよ」と笑う彼女の顔。


 ゲームセンターの蛍光灯。

 初心者狩りをして調子に乗る彼女の声。


 夕日の中で、俺の手を握った彼女の指の感触。


 みんなが敵なわけじゃない、と教えてくれた彼女の言葉。


 あの時、俺は初めて、この世界にも温もりがあると信じられた。


 だから、どんなに理不尽でも、叩かれても、彼女が隣にいるなら立ち上がれた。


 その彼女が、今はいない。


 そして、その事実に自分が少しずつ慣れ始めている。


 優奈が林檎を運ぶたび、彼女の笑顔が自分の中から消えていく……。


(い……や……だ)


 薄れることが、一番怖かった。


 忘れることは、澪を二度殺すことになる。


 涙は、怒りより先に出た。


 助けて、と言われた。


 名前を呼ばれて、最後まで俺を見ていた。


 なのに俺は、鎖の内側で、今も生きている。


 それだけが、耐え難かった。


 何日目だったのかは、分からない。


 優奈はいつも通り、林檎を食べさせ、頭を撫で、布を戻し、マットで眠った。


 規則正しい寝息。

 長い髪が頬にかかり、何も知らない少女のように見える。


 その手元に、果物ナイフが無造作に置かれていた。


 縄は、最初ほど深くは食い込んでいない。


 優奈が食事のたびに結びを解き、食べ終わるとまた縛る。その繰り返しで、結び目が少しずつ雑になっていた。


 鎖は短い。


 肩が裂ける。

 縄が手首の古い傷をこじ開ける。


 それでも身体を捩り、指を伸ばす。


 金属が骨に当たる感触。

 視界が白む。


 柄に、届いた。


 冷たい。


 握った瞬間、頭の中が真っ赤になった。


 隣で眠る優奈の首筋が、月明かりの中ではっきり見える。


「…………」


 今なら、やれる。


 この地獄を作った張本人を、同じ刃で終わらせられる。


 澪の仇を、ここで取れる。


 腕が上がる。


 怒りのままに、振り下ろそうとした。


「っ……」


 ──降りなかった。


 刃先は、優奈の喉のすぐ上で止まる。


 手が震える。

 呼吸が、自分のものではないみたいに浅い。


 眠っている顔は、あの頃の優奈に重なる。


 墓前で花を供えて、俺の傷を見て、無理に笑っていた妹に。


 あの夜、クローゼットへ押し込んだ手の感触。


「…………」


 情けなかった。


 彼女を失った男が、失わせた相手にさえ、最後の一線を残している。


 かつては誰よりも守りたかったはずのこいつへの怒りは本物だ。


 殺意も、本物だ。


 ただ、それを実行する勇気だけが──俺にはなかった。


(はは……)


 刃を、こちらへ向ける。


 迷いは、もうなかった。


 優奈を殺す勇気がないなら、少なくとも、この支配の中で呼吸し続けることだけは拒否できる。


 ──「生きていていい」と思わせてくれた彼女は、もういない。


 熱いものが溢れる。


 痛みより先に、空気が軽くなる。


 視界の端で、優奈の寝顔が揺れる。


 これでもう、こいつの声を聞かなくて済む。


(ああ……)


 最期に浮かんだのは、優奈ではなかった。


 夕日の残る、家具もない部屋。


 頬に触れた手。


 届かなかった「助けて」。


 そして、あの馬鹿な問い。


『もし本当に「凄い力」が手に入って、一つだけ願いが叶うなら──優也は、何をお願いする?』


 俺の意識は、あの日に見つけた答えを求めたまま、完全に闇へ沈んだ。


*


 暖かい。


 柔らかい布の感触と、甘いミルクのような匂い。


 瞼の裏が、明るい光で赤く染まる。


「おっ、目を開けたぞ」


 若い男の声。


 知らない声だ。


 ゆっくりと目を開けると、見知らぬ天井が広がっていた。


 身体が、異様に軽い。


 腕を上げようとすると、短い、赤ん坊の手が目の前に現れる。


「見てください、アルドルフ様。指を握っていますよ」


 隣から、女性の優しい声がした。


 頬に、柔らかな指が触れる。


 温かい。


 だが、触れてほしかった手ではなかった。


「ミハイル様とアルドルフ様のご子息です。将来はきっと立派な……」


 二人は、幸せそうに笑い合っている。


 その笑顔に、敵意も狂気も、何一つ混じっていなかった。


(……は?いや、待て……え)


 短い手が、視界の中でひらひらと動く。


 自分の意思で、確かに動いている。


 身体が小さい。

 声も出せない。


 なのに、肺の奥まで深く息が吸える。


 縄の跡も、鎖の感触も、血の臭いもない。


(……い、生きてる?)


 いや、違う。


 死んだはずだ。


 刃を自分へ向け、意識が落ちるところまで、はっきり覚えている。


 なのに、今、俺はここにいる。


「ミハイル様、アルドルフ様。魔力の測定をそろそろ?」


 別の声がした。


 白い服を着た男が、小さな結晶のような道具を手に近づいてくる。


 ──魔力。


 その単語が、脳の奥を強く叩いた。


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