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第4話 変わっていく日常

 あれから優也は、少しずつ変わっていった。


 まずは施設内での態度を改めた。といっても、特別なことをしたわけではない。

 ただ、無意味に周囲を敵視するのをやめただけだ。


 しかし、それだけでも変化は大きかった。


「おはよう」

「お、おう……珍しいな。お前が挨拶するとか」

「……変か?」

「あ、いや。別に……なんつーか、これからもその調子でよろしく頼むわ」

「……ああ」


 最初の数日は、相手の方が戸惑っていた。挨拶が返ってくるたびに、施設の子供たちは顔を見合わせ、職員は書類の手を止めた。


 それでも、挨拶は続けた。

 続けているうちに、変化が訪れたのは相手の方だった。


「……あのさ」


 ある夜、廊下で呼び止められた。

 以前、陰口の輪にいた上級生の一人だった。目は合わせず、壁の方を見ている。


「前に、いろいろ言ったよな。お前のこと」


 優也は黙って立っていた。否定も肯定もしない。


「悪かった。妹のことも含めて、余計なこと言っちまった」


 言い終えると、相手はすぐ背を向けた。

 優也からの答えを求める様子もない。ただ、それだけを置いていく。


 別の日には、職員の方からも声がかかった。


「八神くん。前はきつく当たりすぎたね」


 消毒液の匂いがする処置室で、いつもの女職員がそう言った。

 以前なら、傷の手当てさえ無言で済ませていた相手だ。


「喧嘩のたびに説教ばかりして。ああいう言い方、必要なかった」

「……別に」

「別に、じゃないよ。こっちも、楽なラベルを貼って終わらせてた」


 それ以上は言わなかった。

 優也も、深く受け取らないことにした。


 謝罪を信じるかどうかより、敵意が薄れた事実の方が大きかった。


 施設の中で、完全に和解したわけではない。


 ただ、足音の方向を変える者は減った。

 すれ違うときの目線が、少しだけ落ちなくなった。

 それだけで、朝の空気は確かに違った。


「おい八神、このパンよく買うだろ?いるか?」

「……いいのか?」

「どうせ貰いもんだしな。オレの好みじゃねえし、残すよりマシだ」

「……もらう」


 日が経つにつれ、小さなやり取りが増える。

 廊下ですれ違うだけの関係が、会えば話す程度の距離になる。

 職員たちも、次第に警戒を解き、優也に対して柔らかく接するようになってきた。


 互いに意地を張る必要がなくなれば、距離が近くなるのもあっという間だった。


「おう八神、お前が言ってた格ゲーってこれだろ?学校の奴に借りてきてやったぜ」

「おっ、ゲーセンであるやつじゃん。何?八神、これ強いの?」

「……倒したい奴がいるんだ。付き合ってくれるか?」

「へぇ、いいねぇ。やろうぜ!」

「俺も混ざるか。八神の負けて悔しがる顔が見たいしな!」

「その動機はいらない」


 自由時間、時には夜中に施設内で同年代の子供たちと画面を囲んだ。

 コントローラーの連打音と、抑えきれない笑い声。誰かが勝って誰かが転げ回り、次の試合の順番で揉める。


 まだ裁判が終わっていないこともあり、陰口を叩く人間はゼロではない。

 だが、それ以上に理解を示そうとする人間が増えていった。


「だーー!また負けた!八神むかつく!」

「癖が分かりやすすぎるからな。相手はCPUじゃないんだぞ?」

「野郎……俺がやる!」

「バカ、それじゃお前、必殺技が出ないだろ!」

「あ?……って、ワンパンで負けた!?おいふざけんな!そのキャラバグだろ!」

「バグじゃない。お前の実力が悪い」

「てめっ、容赦ないな……!」


 どこにでもある、普通の日常。

 中学生らしい光景。


 優也にとっては、それが何よりも新鮮だった。


 自分の隣で友人がバカをやっている。

 彼女──澪と過ごす放課後と、地続きの温度。


 ただそれだけのことが、とても心地よかった。


「はぁ……ちょっと休憩休憩っと」

「そういや八神、最近優奈ちゃんと会ってやってるか?」

「……?ああ、別に普通だけど」


 同年代の友人の一人である少年が、遠慮がちに切り出した。

 コントローラーを置いた手が、一瞬だけ止まる。


「いや、その……すげー言いづらいんだけどさ。最近、優奈ちゃんの態度があまりに不自然なんだよな」

「不自然?」

「なんつーか、明るすぎるっつか、自由奔放っつか……」

「優奈は昔から割と人懐っこい性格だぞ?」

「いや、そうじゃなくて」


 別の子供が、顔を見合わせながら言葉を継ぐ。

 画面の光だけが、三人の顔を青白く照らしていた。


「あの子、目が怖くなったっていうか。前は笑うと目も一緒に笑ってたけど、今はなんか……怖いんだよな」

「俺も聞いたわ。施設の小さい子、優奈ちゃんに遊んでもらってるのに、途中で泣き出したって」

「……この前なんか、中庭で花摘んでるの見たけどさ。摘んだ花、全部潰してたぞ」

「え、マジで?」

「マジ。で、潰しながら笑ってて。八神、あれ普通か?」


 コントローラーの連打音が、誰のものでもなくなる。


 優也は言葉を失った。


 自覚がなかったわけではない。

 墓前で見た、あの口だけの笑顔。


 だが、それを他人に、しかも同じ屋根の下の人間から指摘されるのは、予想外だった……。


「……普通、じゃないと思う」

「だよな。兄貴が一番近くにいるだろ。様子、変だと思うなら言った方がいい」

「あ、いや。責めてるわけじゃねーからな?ただ、気にかけてやった方がいいと思うぜ」

「……あ、ああ。悪い、ありがとう」


 優也は言葉少なに答えた。


 友人たちはそれ以上深くは踏み込まず、すぐに試合の話へ戻る。


「よし、じゃあもう10試合くらいやるか!次は負けねえぞ!」


 再び友人たちのはしゃぐ声が室内に響く。

 画面の中で自分のキャラクターが倒され、友人の笑い声が弾ける。


 優也はコントローラーを握り直しながら、はっきりとは考えないようにした。


 ……考えれば、また苦しむことになる気がしたから。


「兄さん、おっはよー!」


 翌日の朝。優奈はいつものように笑顔で現れた。

 声は弾み、足取りも軽い。廊下の光の中で、まるで何もかもが順調であるかのように見えた。


「優奈」

「んー?」

「……元気か」

「当たり前じゃん!昨日も施設の子と遊んでて、先生に怒られちゃったよ。『はしゃぎすぎ』だって。ひどくない?」

「……泣かせたりは、してないか」

「え?してないよ?なんで?」

「……いや、なんとなく」

「ふうん。兄さん、変なの」


 優奈は首を傾げ、すぐに笑顔に戻る。


 その切り替えの速さに、胸の奥の不安が警告音を鳴らした。


「そっか。……それなら、いいんだ」


 優也はそれ以上、何も聞けなかった。

『目が怖い』とも、『花を潰していた』とも、言えなかった。


 聞いたところで、何ができるというわけでもない。


 第一審の判決が出ても、裁判そのものはまだ終わっていない。

 現実は、何一つ変わらない。


「どうしたの?兄さん、浮かない顔してるよ?」

「いや、ちょっと考え事だ」

「ふーん。学校?それとも──女の子?」


 一瞬、胸が鳴った。


 優奈は首を傾げたあと、にこりと笑った。


 その目は、笑いに追いついていない。


「名前、教えてよ」

「……いない」

「嘘つき。顔に出てる」

「出てない」

「……ふーん。でも、いいよ。兄さんが楽しいなら」


 言葉の内容は優しい。


 なのに、どこか品定めするような間があった。


「大丈夫だよ。何があっても、兄さんはわたしが守ってあげるからね」


 妹の言葉には、以前と変わらない優しさがあった。


 ──そうだ、この優しさこそが優奈だ。

 ──俺たちは、これまでもそうして支え合ってきたんだ。


 優也は必死に自分に言い聞かせた。


 そう思わなければ、立っていられなかった。


「……俺も」

「兄さん?」

「俺も優奈を守るから、何かあれば必ず言ってほしい。楽しいことも、嫌なことも」

「もっちろん!全部、兄さんに言うよ!」

「……ああ」

「兄さんこそ、約束だよ?もうわたしに嘘はつかないって」

「……もちろん。約束する」


 明るく笑った妹は、無邪気に跳ねながら去っていく。


 後ろ姿は軽い。

 影だけが、床に長く残る。


 その姿を目で追いながら、優也は願う。


 あの事件のせいで、普通の人生を送れなくなった妹が、少しでも幸せになれるように──。


 そして、自分の変化が、妹を置いていく結果にならないように、と。


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