最後の最後まで
その後、依田信蕃は武田勝頼が亡くなった後も田中城を死守。
「『御館様(武田勝頼)の命令が無ければ城を明け渡す事は出来ない。』
と断固拒否の構えを貫いていた。二俣の時のように。そこで殿は穴山梅雪様に連絡。勝頼は既に亡くなられた事を伝えた事により城の明け渡しに応じた。この働きに殿は感服。信蕃を家臣に採用しようと試みるも
『真偽を確かめるまでは。』
と謝絶。佐久に戻り真実を確認した後、織田の求めに応じ諏訪へ向かったのであったのだが、それは……。」
織田の謀略。
「これを知った殿は先回りをして信蕃に接触。遠江で匿う事に相成った次第である。」
「その節は……。」
「ただ甲斐では武田に所縁のある者を掃討する作戦が続いていた。危険な状況が続いていたのだが、其方らには幸。我らにとっては……結果的には幸か不幸かなのかな?織田信長様信忠様があのような事になり。今私は依田家のため、佐久で働いている次第である。」
「有難う御座います。」
「殿が其方ら兄弟を大事にしている理由に付いて話しながら考えていたのだが……。」
「何か思い当たる節が……?」
「……そうだな。武田勝頼に最期まで従い、その働きを信長様からも認められた土屋昌恒の遺児を殿が見つけられた際、
『忠臣の子は忠臣になる。』
と仰り採用された。今彼は秀忠様の小姓をしている。この事は其方ら兄弟にも当て嵌まる。父に感謝しなければならぬぞ。」
「わかりました。」
「そしてもう1つあるとするならば……。」
徳川家康の生い立ち。
「殿は幼少期、従属の証として織田に出された。そこであろう事か松平は今川方に転身。本来であればそこで……なのであったのだが、織田は殿を三河へ進出する際の神輿と考えたのであろう。一命は取り止められた。その後、太原雪斎様の働きがあり織田の手から逃れる事が出来たのだが……。」
そのまま駿府へ護送。
「松平の跡取りとして相応しい教育を施すためではあったのだが、人質である事に変わりは無かった。15年に及ぶ肩身の狭い思い。実家次第では命が脅かされる状況で生きなければならなかった。これと同じ境遇に立たされていた方々に対し、殿は寛大な所がある。
清康公の時から同盟関係にあり、今川時代。共に苦労した戸田家の遺児に対し、殿は
『康』の字と『松平』姓を与えている。」
「我ら兄弟と……。」
「うむ。殿はそれだけ其方らの事を大事に考えられている証である。その期待に応えなければならぬぞ。」
「わかりました。」




