2.4.4 警告
数日が経ったある日、トーラレルは偶然、一人で通路を歩いていた。あれから何度か、御堂の講義を受ける機会があったが、特に仲の進展はない。少女なりにアプローチをかけているのだが、どうにも、御堂には届いていない風がある。
(鈍い、というわけではないと思うのだけれど)
トーラレルは昔に読んだことがある読み物を思い出す。あの物語では、少女たちからの好意にまったく気付かないような、男としてどうかと思うような人物が主役だった。御堂がそうだとは思えない。むしろ鋭すぎると思うくらいだ。
なのに、自分の思いに気付いてもらえない。これは不自然である。トーラレルの脳裏に「もしや」という考えが浮かんだ。
(講師ミドールは、私の好意に気付かないふりをしている……?)
少女がさり気なく身を寄せても、耳元に口を寄せても、しな垂れかかっても、御堂はこれっぽっちも反応してくれなかった。彼がトーラレルからの好意的な行動を、意図的に無視していると考えれば、納得が行く。
「まったく……いけず、と言うのだったかな、こういうときは」
その理由も簡単に予想が付く。講師と学徒の関係や仕える領地の都合だとか、年の差などと言ったことが、御堂を素直にしてくれないのだと、トーラレルは推測した。
(どうにか、そういう障害を退かさなければならないね)
エルフの貴族令嬢は、己の目的のために頭を回転させる。そう思ったところで、一つのことに気付いた。
(そもそも、僕は彼と、どういう関係になろうとしているのだろう?)
あまりにも初歩的なところが抜けていた。他の女子が聞いていたら「ええ……」とでも漏らしただろうか。歩きながらトーラレルは再度、思考を回す。まずは目的を定めなければならない。これは軍事、恋愛関係なく基本のことだ。
(まずはそうだな、共に気安く呼び合える仲になろう)
想像する。講師とつけず、名前でミドールと呼ぶ。それはまた、どうにも勇気がいることだと思えた。そこで、一つ小さい疑問が浮かぶ。
(そういえば、彼の名前……家名はなんと言うのだろう。まさか、ただのミドールとかではないだろうし)
彼女はミドールがあだ名、通名であることを知らなかった。これをここで知っているのは学院長とラジュリィ、それに従者と従騎士の二人だけである。そのことに気付いたトーラレルは、内心に暗い感情が生まれるのを感じた。
(……これは、嫉妬というものだね)
恋敵は知っていて、自分は知らない、彼のこと。あの時はああ言ったが、その差は歴然だった。そもそも、トーラレルはラジュリィと御堂がいつから一緒に過ごしているかすらも知らない。
しかし、イジン家の長女はこのくらいで怖じけるような性格はしていなかった。むしろ、誰もいない廊下で一人挑戦的な笑みを浮かべてすらいた。
(多少の不利など承知の上だ。それを承知の上で、目標に向かって突き進む。それが我が家のエルフが示す生き様さ)
そこで、トーラレルはようやく自分がその目標、目的について考えていたことを思い出した。すっかり、思考が明後日の方向に反れてしまっている。これはいけない。そう考えてふと周囲を見たとき、もう一つのことに気付いた。
「……あ」
トーラレルの足が今踏んでいるのは、緑色の床であった。考え事に没頭するあまり、目的地である自身の教室を通り過ぎて、講師棟の方へと来てしまっていたのだ。
(しまった……僕としたことが、思いに耽りすぎたね)
ともかく、講師棟は基本的に学徒が立ち入る場所ではない。講師に咎められでもしたら面倒なので、踵を返して元来た道を戻ろうとする。
「おい、そこの学徒」
だが、それより先に声がかかった。近くの部屋から、その声の主が現れる。その男性講師は、ひょろりとした細長い枝のような様相をマントで覆っている。ゲヴィターであった。
「……何か、講師殿」
「そちらこそ、学徒が何用で来た……これはこれは、イジン家のトーラレル様でしたか、失礼しました」
部屋から出て、改めて学徒の姿を確認したゲヴィターは、それがトーラレルと知ると、口調を正して恭しく頭を下げた。その態度に、少女は溜め息で返す。この講師は地味にエルフから、あまり良い意味ではなく認められていた。典型的な魔術至上主義者であるためだ。それが身分を弁えていると、一部のエルフを増長させる原因になっている。
「以前から言っているけれど、僕は学徒でそちらは講師。その口の利き方は逆の意味で良くないと思うのだけれど」
「いえいえ、貴女は異なる国のとは言えど大貴族の長女。あの新入り講師のような失礼な口の利き方はできません」
新入りの講師、という言葉にトーラレルの長い耳がぴくりと反応した。それをゲヴィターは見逃さない。
「して、ここ最近、あの新入りが貴女に取り入ろうと色々しているようですが、ご迷惑でしょう」
「新入りというのは、講師ミドールのこと?」
「さようです。あの者は自分の身分も弁えず、この学院に居座るばかりか、イセカー家の令嬢や貴女にちょっかいを出す始末。学院長さえ許せば、この私自ら叩き出しやるというのに、口惜しいですな」
嫌らしい笑みを浮かべて、そんなことを言うゲヴィター。思わず、トーラレルは睨み付けるように強い眼光を向けた。けれども男性講師は笑みを変えず、怯みもしない。
「おやおや、貴女がお怒りになるとは思いませんでした。まさか、あの男に入れ込んでいるのは貴女の方でしたかな?」
思いを見透かされ、トーラレルは思わず口を抑えた。講師は邪な思考を隠そうとせず、更に言葉を続けて、遠回しに小馬鹿にするような口調になる。
「エルフともあろう者が、講師にそんな思いを抱くなど……これは、失礼ですが笑いの種ですな」
「なんだって……?」
「そんな貴女に一つ、ご教授して差し上げましょう。良いですか? 講師というのは……」
言いながら、数歩進んでゲヴィターはトーラレルの前に来た。二回りは背が低い少女を見下ろす。そして、言い放った。
「講師というのは、お前たちが我々人間を見下しているように、学徒を見下しているのだ。だからこそ、優劣を無視して上から物を言うし、従えさせようとするし、強引にでも庇護下に入れようとする」
「なっ……」
講師の態度が急変したのに驚いて、トーラレルが一歩後退る。それに詰め寄りながら、ゲヴィターはまだ続ける。
「お前はあの男の実績作りに利用されているだけだ。そのことをわかりもしないで、講師を尊敬するだと? 馬鹿馬鹿しいにも程がある。俺が何より気に食わないのは、お前たち学徒側は講師を、更に言えばエルフは人間を馬鹿にしている。だというのに、その性根を隠して仲良しごっこをしようとしていることだ」
「そんなこと、思っていない!」
「は、信じられるものかね。人間を見下すエルフの筆頭とも言える学徒が、今更になって人間の、しかも魔無しに擦り寄る。気味が悪くて反吐が出る」
「ぼ、僕は見下したことなんて……」
「とにかく、私が講師らしく愚かな学徒に忠告してやるなら、痛い目を見る前に仲良しごっこなどやめることだ。あの魔無し共々、破滅したくなければな」
そうして、トーラレルが何か言い返すより早く、ゲヴィターはマントを翻して立ち去って行ってしまった。その背に、少女は罵声を浴びせてやりたかった。だが、ぱくぱくと開くだけで、その口からは何も出なかった。
しばらく、呆然と立ち尽くしたトーラレルは、早足になって元来た方向へと歩き出す。酷く、寂しい気分だった。怒りを通り越して、学徒と講師の溝というものを見せつけられたことに対する虚しさが、心に染みこんできた。
「講師ミドール……貴方は、違うよね……」
やっと口から出た呟きは、思い人に縋り付くような、普段の彼女からは出ないほど、弱々しかった。
教育者の鑑とも思えるような御堂が、あの講師が言ったようなことを考えていると、自分たち学徒を己が成り上がるための道具としか見ていないなど、思えなかった。否、思いたくないと強く自分に言い聞かせた。
そうしないと、彼に抱いた思いも、酷く虚しい感情に変化してしまう気がした。そうなったら、心など粉々に砕け散って砂になってしまうのではないか。トーラレルの心中を、そんな恐怖が支配した。
今は一刻も早く、講師の領域から学徒の領域へと戻りたかった。エルフの少女は、足を更に早めて、半ば駆けるように、誰もいない廊下を進むのだった。




