3.3.8 開幕前
同じ頃。ラジュリィの部屋には静寂が訪れていた。
机に向かった部屋主が書物のページをめくる音と、ベッドに寝そべった客人が、足をぱたりぱたりと交互に上下させてシーツを叩く音。それ以外の音と言えば、精々二人の呼吸音くらいであった。
「ねぇ、本当に良かったの? あれで」
静寂を破ったのは客人、パルーアだった。うつ伏せになって枕に顎を乗せていた彼女の表情は、小さい不満と幼馴染みに対する心配の入り交じっている。
「ええ、あれが私にとって最善の選択です」
「私の提案に乗れば、確実に彼を手に入れられるかもしれなかったのに?」
次の言葉に、ラジュリィは答えなかった。それに対する返答は先にしたばかりだ。
結論から言えばラジュリィとトーラレルは、皇女からの提案を蹴った。
二人とも、考えたことは同じである。
協定を結んだとして、相手が抜け駆けをするかもしれない。
逆に言えば、協定が邪魔で相手を出し抜くことができなくなる。
そして最後に浮かんだこれが、決定的であった。
“自分が御堂にとっての一番大事な人になれないかもしれない”。これだけは、どうしても許容し難かった。
手を繋いで仲良くゴールという文化は、この世界ではまだ斬新すぎた。故に、皇女がした一見魅力的な提案は、ほんの少し二人の心を揺さぶるだけで終わってしまった。
パルーアにしてみれば、それはかなり都合が悪い。なんとか考え直させようと口を回したが、二人とも意地固になって断るだけであった。どうして提案に乗らないのかと聞いてみれば、揃って「あの人は私こそが相応しい」と言う。
挙げ句、パルーアを無視して、二人で話を進める始末。蚊帳の外にされた皇女が「ちょっと不敬じゃない?」とぼやいてもスルーであった。
相手にされていないことで不機嫌になり、皇女はベッドに大の字で倒れ込む。その間に、あることをトーラレルが提案し、ラジュリィが承諾した。
それは、明日行われる闘技大会で優勝した方が、優先して御堂へのアプローチできるというものだった。
フェアな勝負をしようと言ったトーラレルは、自分に有利だと考えて提案したし、正々堂々戦いましょうと返したラジュリィは、自分に負ける要素がないと見て承諾した。
どちらも全くと言って良いほど、フェアとも正々堂々とも考えていない。最初から勝ち目の薄い勝負をしないのは、貴族の基本である。
寝そべったまま話を聞いていたパルーアが「それだとどちらが勝っても私にうま味がないじゃない」と口を挟む。だが、ラジュリィからは「帝都に行くことがあったら貸してあげます」と返され、トーラレルには「共和国へ足を運んでくださった際には、話し相手をさせますよ」と言われた。
どちらも自分が勝つと疑っていない。一瞬、二人の視線が交差して火花が散るが、次の瞬間には余裕の笑みを浮かべている。
首を曲げてその様子を見ていたパルーアは。「この子たち、いつもこんな感じで取り合いしてるのかしら」と思いつつも、もはや口を挟む気も失せて、後頭部をベッドに沈ませた。
話が決まるや否や、トーラレルは挨拶もそこそこに部屋から出て行った。そのまま闘技大会でペアを組む相手の部屋に向かった。確実に勝利を掴むため、入念な打ち合わせがしたかった。何せ、相手をしなければならないのは怪物なのだ。少しも手を抜けない。
彼女が扉を閉めて出て行くのを見送ったラジュリィの方は、部屋にある大きめの本棚の前まで行き、何やら物色を始めた。数分かけて目当ての書物を見つけると、それを引っ張り出して机の上で広げる。
それは学徒に配られている魔道鎧の戦闘指南書であった。魔道鎧の性能では圧倒的優位に立っていても、戦闘経験ではトーラレルに大きく劣る彼女は、その差を少しでも知識で埋めようと考えていた。宿敵が油断ならない相手であることを、ラジュリィは良く理解している。
なお、互いがぶつかるまでに戦うであろう他の学徒については、どちらも深く考えていない。立ち塞がったら実力で排除するのみ。路肩の石くらいにしか思っていなかった。
(……恋する乙女って、制御し難いものね)
集中して指南書を読む幼馴染みを見て、パルーアは小さく息を吐いた。その制御が効かない感情を持っているのが、二人だけではないことを思い出して、抱えた枕の下で自嘲気味に笑う。
(さて、どうしようかしら)
この展開は彼女にとって少し予想外だったが、まだ目的達成を諦めたわけではない。計画をどのように修正すれば、欲する成果を得られるか。皇族としてだけではなく、一人の少女としての欲が出た皇女は、思案し始める。
三人の思惑が交差しながら、闘技大会開催までの時間は近づいてきていた。
***
夕闇が窓から射し込む部屋。質素な家具が置かれた狭い宿の一室で、学院に属する講師であるゲヴィター・ウラドク・トンペッタは、懐にある道具の感触を何度も確かめていた。
指で金属質なそれに触れる度、彼の心には影が差した。自身の行おうとしていることに対する後ろめたさ、不安、後悔の念が、いくら決意したつもりになっても消えない。
学院に講師として雇われて十五年。年若い者たちに魔術を教える職務を彼よりも長く続けている者は、数えるほどしかいない。大抵の講師は、十年も経たない内に、様々な理由でやめていってしまうのだ。
自身よりも優秀になっていく若者を直視できない者。
親御からの重圧に耐えきれなかった者。
種族間の諍いに巻き込まれて心を磨り減らした者。
他にも理由をあげれば際限がない。貴族として、魔術師として、プライドを持ったまま学院の講師を続けるというのは、それだけ困難なのである。だが、ゲヴィターは教鞭を振るい続けている。
プライドを捨てたわけではない。貴族としての自覚は、他のどの講師より持っているつもりである。優秀な若輩に対して開き直ったわけでもない。学徒と比べて自身が魔術で劣ると思い知らされた時は、腐るよりも先に鍛錬をより多く行った。
ゲヴィターという男は、彼なりの矜持と思想、努力の上で講師を続けているのだ。
だが、今、彼が加担していることは、それらを全て無駄にしてしまいかねない。それがどうしても、恐ろしかった。
しかし、もはや後に引くことはできない。この行為が、彼にとっての正義になってしまったのだから。
懐から手を抜く。これ以上迷っていても、明日に支障が出るだけである。そう思い立ったとき、ノックも無く部屋の扉が開き、待ち人がやってきた。
「良いお顔をされてらっしゃいますね。あれだけ悩んでらしたのが嘘のよう」
現れたのは、細い身体に真っ黒な外套を纏った女。切れ長な瞳と口元が、蠱惑的に微笑んでいる。先日、酒場でゲヴィターを拐かしてきたエルフだった。
「今さら、考えすぎることもないと考えただけだ」
「そうでございましょうね。もはや貴方様に残っているのは学院へ、帝国へ牙を剥く道のみ、今更に思慮することなどありますでしょうか」
「ない。だからここにいる」
「結構でございます」
エルフは三日月のような笑みを強めてゲヴィターに近づきしな垂れかかり、その腰に手を回した。柔らかくまさぐった手は、そこに何も吊されていないことを確認すると、静かに離れる。
「今になって身体を検められるとは、信用されていないようだな?」
「失礼をしました。今回の件、少しでも失敗があってはなりませんので」
身体を離し、小さく頭を下げて来た女に、ゲヴィターは表情を変えない。
「事は慎重に、ということか」
「不快になられましたか?」
「いいや、事を成すには万全を期すべきというのは共感が持てる考えだ」
「それはよかった……魔具の当てはあると聞いていますが、信じてよろしいですか?」
「ああ、心配は無用だ」
ゲヴィターがまた懐に手をやって、手の中にある道具を確かめたので、エルフは和やかに頷いた。
「わかりました。では、件の詳細についてを――」
それから、エルフは明日に学院で決行する作戦について、細やかに説明し始める。それを聞く間も、ゲヴィターは無表情であった。特段、それを不自然に思わなかったのか、エルフはそのまま話し続ける。
「――その後、貴方様には私と共に逃げていただくことになります。追っ手に関しては我々で対応しますので、ご心配なく」
「承知した。明日はよろしく頼む」
「はい、貴方様の願いが達成できるよう、力添えさせていただきます」
告げて、エルフの女は部屋を出て行く。その足音が遠ざかっていくのを確認すると、ゲヴィターは懐から魔道具を取り出した。それを見つめて、これからのことを思案するように瞑目する。
彼の手にあったのは、二つの指輪。指にはめて打ち鳴らすことで魔術を行使することができる、希少な魔道具があった。




