不穏な空気
翌日、アカトリエルは再びクロノスを呼び出すとその剣を彼の前に差し出した。
「アカトリエル様…言ったはずです私は……」
そう応える彼の言葉を遮るように彼はこう呟いた。
「私は婚姻の儀に背き、常に心では戒律を破っている状態だ………もう女神の騎士としての資格は無い」
「しかし!!」
「私が守るべき者は女神では無いのだ!!!」
アカトリエルの叫びにクロノスは目を見張った。
前とは違う固い信念を持った目と言葉、それが既に押し留める事が不可能である事実を思い知らされる。
「お前の事は教会にも領主にも伝えておく……」
しばらく沈黙するとクロノスは震える手で剣を受け取り、静かに頷いた。
「これから…どうなさるおつもりです。婚姻の儀は絶対………それに背いた者は二度と聖職にはつけません」
「……もとより聖職に付くつもりは無い……まず初めにしなくてはならぬのは……父と母への謝罪………」
そう呟くとアカトリエルは背徳者の証である黒いローブを羽織り、少量の荷物を手に長年我が家として暮らし続けてきた要塞を後にした。
部下達に見送られながら門をくぐるその姿にクロノスは小さく
「女神のご加護があらん事を……」
と呟いた。
「ガドリール…私…」
《………………………》
無数の瞳が妻の姿を鋭く見つめる。ガドリールには隠し事など出来ない……
「分かっているわよね。私は貴方以外の人と……」
予期せぬ出来事とは言え、夫以外の男と唇を重ねてしまった事は事実だ。
そして、それを知っておきながらベアトリーチェ自身に執着するガドリールが何も行動を起こさないのが不思議だった。
「私………」
描き掛けの絵の前に腰を下ろすとベアトリーチェは小さく呟いた。
キャンバスの中には八割がた仕上げられた人であった頃の彼が描かれている。
「一人で…苦しんでいた時に…何もしてあげられなくて…ご免なさい…………」
自分が死んでからのガドリールの心がアカトリエルの姿を通じて痛いほど分かった気がする。手記では分からなかった生々しい苦しみがこの身にひしひしと伝わって来る。
「私…彼を受け入れてしまおうかと、一瞬思ってしまった」
ガドリールが自分に抱く独占欲の強さは誰よりも知っている。恐らくアカトリエルもそれは覚悟の上だっただろう………
「ガドリール。何でこんな時に何もして来ないの?」
たまらずに振り向いた彼女の間近に夫の顔が迫っていた。
顔中に埋まる赤い瞳、冷たい吐息………
ガドリールは彼女の左手を掴むとその薬指のリングと自分のリングを妻の目の前に掲げた。
「………そうよ………私はあなただけのものよ………それは変わらない…だけど!!」
ベアトリーチェの言葉を打ち消すようにガドリールは獣のように怒声を張り上げた。
言葉としては分からないが、心に直に響いた意味に彼女は目を見開いた。
そして、震えながら彼女は大きく首を振ると、その問いに答えた。
「貴方の事は忘れた事は無い」
そう呟くと彼女は彼に強く抱きついた。
《我が存在を一時でも見失ったのなら皆殺しだ………》
ベアトリーチェがガドリールに問われた言葉だった。
究極の飢餓状態。
…それが終焉の魔道神に近付いている事を………今はまだ誰も知らない。
エテルニテの民たちも…ベアトリーチェも
…そしてガドリール本人も………