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人であった頃に……

 ……疾風の轟きと共に魔城の屋上にベアトリーチェは姿を現した。

 金の長い髪をたなびかせながら真っ先に彼女が向かったのは自慢のバスルーム。

 深紅の赤いマントを脱ぎ捨て、服のまま張られた湯に飛び込みその身を沈める。

彼女の体はまだ少し震えていた。

 アカトリエルの口付けに(おび)えているわけではない。

 ただ、あの強引さが五年前のあの悪夢を走馬灯のようにその脳裏に鮮明に映し出したのだ。

 ドミネイトは彼女がどんなに(なげ)き、懇願(こんがん)してもそのおぞましい行為を止めようとはしなかった。

 それはまだ何も知らなかった初心(うぶ)な少女の心の奥底にトラウマとなって深く突き刺さっている。

 はぁ…はぁ…と息を切らせながらしばらく暖かな湯に浸っていると、次第に冷静さを取り戻してきたのか、ベアトリーチェは深い溜息を吐き己の唇に触れた。

「アカトリエル………」

 湖のように広い浴槽の中心に聳える噴水の音に耳を傾けながら瞳を閉じる。

 突然の事に驚き、停止した脳が映し出した忌まわしき父の姿を取り払うと、あの切羽詰った男の眼差しが瞼の裏に焼き付いている。

「まるで自分の姿を見てるみたいだった………」

 ガドリールに思いを募らせ、何も手が付かなくなってしまった二年前、十八歳になりたての彼女はただひたすらに彼に触れたかった。

 あの漆黒の長い髪に広い背中。彼の近くで彼の助手として動いていても視線は常に彼から離す事は出来なかった。

 不意に彼女の胸の鼓動がひとつ高鳴った。驚きその胸に両手を当てる。

「この胸騒ぎ………」

 以前感じた忙しい胸騒ぎが再び訪れベアトリーチェは恐怖した。

 彼女自身へ感じた恐怖。彼女の心をかき乱そうとしていると感じたあれが今止め処なく溢れ出して来る。

 ガドリールへの想いは揺るぐ事がなくとも、あのアカトリエルの姿はとても危険だ。

彼は…………人間であった頃のガドリールが思い悩む姿とよく似ている。

「クラージュお兄ちゃんじゃ…なかった」

 愕然と呟くと彼女は大きく首を振り、湯に顔を沈める。

(しっかりして! あなたは混乱しているだけ! ガドリールと少し似ているから…だから…行き過ぎた情を掛けてはいけない!!)

 心に必死でそう言い聞かせると彼女は濡れたドレスを脱ぎ捨て、薄手のローブを羽織い、杖を手に姿を消した。

 彼女が足を運んだのは、人間であった頃のガドリールが描かれた巨大な肖像画の前。

 自分の思いをぶつけながら筆を走らせた人で在りし日々の夫の姿。

 肉付きの少ない色白の頬に、鋭いナイフのような視線。背が高く、胸が広くて……

「あなたと似ている姿……」

 手を差し伸べ彼女はガドリールの肖像に(すが)るように身を寄せた。

「人間の時に『愛する心』を知ってもらいたかった。ガドリール…」

 部屋で眠る夫は変わり果ててしまった。

 身体は氷のように冷たく、人の言葉で愛を囁いてくれる事も無い。

 いつも癒えない飢えと戦い続け、楽しみでさえも数える程しかなくなってしまった哀れな神。


 部屋に戻りベアトリーチェは静かに眠る夫の隣に腰を下すと、唯一、人間の頃の名残を残す漆黒の長い髪を母親のように優しく撫で付け、鼓動の聞こえる事の無い冷たい胸にそっと身を寄せた。


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