接吻
漆黒の森の中を氷のように冷たい風が吹き抜ける。
しっかりと締め付けられた両腕の中でどれ程の時間が経過しただろうか……
厚い胸板の向こうから響く鼓動に耳を傾けながらベアトリーチェは軽く息を吐いた。いくら魔女とはいえ、鍛えられた成人男の腕力にはとうてい敵わない。
そしてアカトリエルにもその腕を解放する兆しは見られなかった。
「………初めてね………」
そう呟いた女の言葉に彼は細い身体を胸に抱きながら首を傾げた。
「……心も、身体も…暖かい人間の男性に包まれたのは初めてよ……」
「………………」
温かな胸に身を預けながらベアトリーチェはそっと瞳を閉じた。
「ガドリールが人間だった頃は私を抱きしめるなんて事してくれなかったから。私が一方的に好きになって…私が仕事に支障をきたすようになって初めて、『どうしたい?』なんて聞いてきたのよ?」
「………………」
「どうしたい? なんて反則よね……食事もろくに喉に通らないほど好きな人にそんな事言われたら…気付いたらこういう風に彼の胸に飛び込んでた…」
「黒魔道師の事はどうでもいい、私は……」
両腕に再び力がこもったアカトリエルの言葉を遮るようにベアトリーチェは話し続けた。
「彼も抱き返してくれたけど…あの時の彼からは何も感じられなかった…世話役としての仕事に支障をきたさないように私の欲求を満たしてくれていただけ……」
悲しげな笑みを零すと彼女は何かに縋るように白いローブの男の腰に腕を回した。
「私が物欲しそうな顔をしていると彼は機械的にそれに応えてくれたけど…たった、それだけ……」
胸の中でゆっくり瞳を開くとベアトリーチェは物憂げに暗い森の中を見回す。
「でもね。それでも幸せだったのよ」
「もういい!! 私の胸の中で他の男の事など………」
その叫びに赤い瞳が背の高い男の顔を見上げる。
「あなたは人間だった頃のガドリールによく似ているわ。無愛想で…こうしてると人間だった頃の彼の腕に抱かれてるみたい………」
「ベアトリーチェ!!!」
その言葉に思わずアカトリエルは彼女の体を突き放した。
「やっと離してくれたわね」
両腕をガッチリと掴まれているが、彼女は冷静にその顔を上げた。
「お願い、腕も放して……あなたの気持ちには応えられない」
「…………私はっ」
「!!!」
不意に凄まじい力に押され彼女の細い身体は後方の太い木の幹に押し付けられた。
「!! ……何?」
「何故…私は何故五年前に……」
「アカトリエル?」
両手首を痛いほどに掴まれながらベアトリーチェは俯き震える男の姿を食い入るように見つめていた。
「なぜあの時にドミネイトを殺せなかった………」
その名前に彼女の体が強張る。
「やめてよ…なんであんな男の名前を今出すのよ」
「ベアトリーチェ……女神……すまない……」
次の瞬間ベアトリーチェの両目が見開いた。
今、自分がおかれている状況が分からずに脳が一切の働きを停止する。
彼女の目の前にはアカトリエルの端正な顔立ち。
そして自分の唇に触れるもう一つの唇…
「! ………??」
間を置き、優しく重ねられた唇の存在に気付くとベアトリーチェは悲鳴を上げながら解放された両手で力の限り彼の身体を突き飛ばした。
「あ…うあぁ…あぁ…」
顔を上げたアカトリエルの先、自分の頭を抱え込みながらガタガタと激しく震え、顔を真っ青にしたベアトリーチェの姿がある。
「ベアトリーチェ……」
自分を止める事が出来ずに犯してしまった過ちに思わず駆け寄ろうとした瞬間、彼女は急いで地面に転がる杖を拾い上げると顔面蒼白のまま戦闘態勢を取った。
怯え、威嚇する獣のように目の前の男を睨みつけながらベアトリーチェは何かを振り払うかのように頭を激しく振った。
「やめて…いや…」
「ベアトリーチェ。私はっ……」
「お父様やめて!!!」
その悲痛の叫びに足が止まる。
「ベアト………」
「いやああぁぁぁ!!!!」
涙を零しながら彼女は大きく叫ぶと杖を大きく掲げた。
一陣の疾風が周囲に巻き起こり枯葉が激しく宙を舞う。そして轟音と共に美しの魔女はたちまち姿を消した。
「ベアトリーチェ!!!」
急いで駆け寄るが差し伸ばした手がむなしく空を掴み、風は消え失せた。
再び訪れた静寂の森にしばらく呆然と立ち尽くしながらアカトリエルは脱力し、その拳を一度大地に打ち付けた。
「ベアトリーチェ…私はどうすればよいのだ………」
女神が全てだと思っていた…だがその思いに亀裂が生じ、崩れ始めると何とも脆い……
生まれて初めてこの手で触れられる存在に恋し焦がれ、自分でもその衝動を抑える事が出来なくなろうとは……。
だがしかし求める花に一度触れてしまった今となってはもう遅い。
アカトリエルは胸に差す短剣を堅く握り締め、未だベアトリーチェの感触を残す自分の唇にそっと触れた。