爪弾く指
城の下から流れてくる美しい音色を耳にしながら深紅の無数の瞳が一斉に開く。
静寂の中に流れるパイプオルガンの音。ガドリールはそれに誘われるかのように階下へ姿を消した。
「よく眠れた?」
一階に備えられた礼拝堂で荘厳な音を奏でながらベアトリーチェは背後に何の前触れも無く出現した夫に優しく声を掛けた。
「思い出していたのよ。覚えてる? あなたは私にたった一度だけこれを弾いてくれたわよね。とても素晴らしかったわ」
鍵盤を叩く指を止め、彼女は後ろを振り向いた。
無数の煌く瞳が壁に並ぶ巨大な銀のパイプを見上げている。
「忘れてしまったかしら? その爪じゃもう弾けないわよね」
クスッと微笑み、鋭い爪を携えた冷たい片手をそっと握ると、瞳を閉じながら誓いの指輪の嵌った手を自分の頬にそっと押し当てる。
《…………………》
彼女に答えるように、金の髪を愛しげに撫でるとガドリールはその巨躯を屈め、徐に彼女の隣の椅子に腰を下した。
「? …ガドリール?」
細く骨ばった一本の指が鍵盤の一つに触れ、礼拝堂に大きな音が響き渡る。
音の余韻を探るようにドーム状の天井を見上げると彼は物言いたげに隣の美しい女の顔を見下ろした。
「………?………」
次の瞬間手首に枷をつけた白い両腕が二層になった鍵盤の上をしなやかに動き始めた。
鋭い爪先が優しく撫で付けるように曲を奏でベアトリーチェは言葉を失った。
自分の隣に居る、変わり果ててしまった彼が繊細な演奏を行っているのだ。
三年前に聴かされた人であった頃のガドリールと全く同じに………
「ガドリール…弾けるの?」
身体を揺らしながら数個の赤い瞳が見つめている。
「ガドリール………」
瞳を閉じ彼女は揺れる彼の身体に寄りかかった。
肩にサラサラと掛かる長い髪。美しい曲。
瞼を閉じてみると彼が人間だった頃と何の変わりも無い…目頭が熱くなり、頬に一筋の涙が零れ落ちる。
彼女の頭の中には昔のガドリールに身を寄せる自分の姿が鮮明に映し出されていた。
夢のような時に身を委ねながら長い一曲が終わりベアトリーチェはそっと瞳を開いた。
「素敵だわ。あなたのオルガンがまだ聴けるなんて思わなかった」
今の彼に音楽の良し悪しが分かるのかと言われると疑問に残るが、例えそれがベアトリーチェの真似事だったとしても十分だ。
決して生き物とは程遠い氷の様な冷たさの身体。
この黒髪以外の全てが人間だった頃とかけ離れてしまっていても今はこうして共に居られる。
それがとても幸せだった。
凭れかかるベアトリーチェをしばらく見つめるとガドリールはその首元に付けられた禍々しい首枷にそっと触れ、その顔色を窺うように首をを傾げた。
「何? この首輪? いいえ……もう大丈夫よ。身体も回復したわ」
目の前に迫った無数の瞳を見つめながら彼女はフフフ…と笑い、彼の顔に掛かる漆黒の髪をそっと避けた。
一週間前に大量の血液を失い身体修繕に当たるのに三日もかかってしまった。
……三日間も眠っていたのだ。だが、目を覚ました時彼女が居たのは夫の腕の中だった。
どうやら前のように殺戮を求めて人を漁ることもせずにガドリールはずっとこの身体を抱いていてくれたらしい。
「この一週間あなたは私の身体を気遣っていてくれたものね…ありがとう」
しばらく見つめるとベアトリーチェは椅子の上に立ち上がるり、いつものようにその額に優しく口付けた。
「ガドリール。大好きだからね……」
《ベアトリィチェエエ……》
少し躊躇うとガドリールはその長い両腕で彼女の身体を抱き締めると、母に甘える子供のようにその胸に首を擡げ、瞳を閉じた。
妻の柔らかな乳房を通して内側から心臓の鼓動が響いてくる。一度は止まってしまった愛しい音………
それを噛みしめる様にガドリールはいつまでも彼女の身体を抱き締め続けた。




