戒めの鎖
どれ程の間を沈黙していただろうか、台所で燃える窯の火と沸騰したお湯が吹き零れる音だけが部屋の中にただひたすらに響く。
しばらくすると、微動だにしない息子の背を見つめながら老人は静かに口を開いた。
「……お前は今起こそうとしている行動の意味が分かっているのか?」
「…………私は…………」
握り締められた拳が震えている様を見て目の前の息子が困惑している事が分かる。
「自覚はあるのだな………」
ウェルギリウスは独り言のように呟いた。
「私はお前に男としての人生をもっと楽しんでもらいたいと思っているのは確かだ。僅か十五で女神と婚姻の儀を執り行ったお前の事には今でも悔いている。この国のその儀式は厳格だからな………」
「………………」
「しかしデザスポワール側の司祭の観点から言えば所詮はくだらぬ教会の取り決めだ。形として存在しない物に操を立てる事などは愚かな話。気に入った女が居るならばどんな者だろうと奪ってしまえ。………それが私達の考えだ」
エテルニテよりもデザスポワールの方がどちらかと言えば人間臭い教えだった。
彼らは最強国を維持していくために、より強い子孫を残す事に重点をおいていた。
ごく普通に重婚も認められていたし、最高権力者である司祭たちに至っては、彼らが望めば女性達に拒否権でさえ認められていない程だ。
ウェルギリウスがこの国に亡命した時も、そして今でもこの国の婚姻の儀という物には納得が出来ない。
特に双剣徒たちのような優秀な騎士達が自らその遺伝子を途絶えさせてしまう信仰はデザスポワール国家では罪にさえ問われかねる教えだった。
しかし、ウェルギリウスは己の言葉の後に「だが…」と付け加えた。
「ベアトリーチェ・レーニュは別だ」
息子の背に向かい老人は深い溜息を付いた。
「あの娘は…人間の男の手には余る代物だ。お前たちは信仰の証として女神の夫と称されてはいるが……もし仮に女神が実在していたとしても人と神は共に生きられぬ。世の中にはそれ相応の歩合と言う物があるのだよ」
「……それは承知しています。……私も子供ではない…」
しばらく押し黙っていたアカトリエルの顔が始めてウェルギリウスに向けられた。
「しかし、彼女と出会ってから私の信仰は崩れつつある。あれほど恋し焦がれ続けた美しの女神像がベアトリーチェ・レーニュと比べると遥かに色あせて見えてしまう」
腰の帯に差した長剣を引き抜き、それをウェルギリウスの目の前に差し出すと「くっ」と唸り顔を顰めた。
「今日もです。この剣に再び契りの誓いをたてる時も、私の心にあったのは女神ベアトリーチェではなく、あの魔女ベアトリーチェ・レーニュだけでした」
「ダンテ…主………」
「己が嫌になります。……教会の最高指導権という物を背負っているにも関わらずに私はあの日から女神を裏切り続けている。………もう二度と会う事もないと思っている魔道神の妻に不埒な思いを抱き続けているのです」
鎖で繋がれた胸の短剣ぐっと握り締めるとアカトリエルは唇を噛み締めた。
「この鎖が…この短剣が今はとても重い。…女神の為に殉じる事が出来ればどれ程楽か……今の私はそれすらも出来ない」
彼がこれ程弱弱しい自分を見せたのは初めての事だった。
「………………」
高ぶる胸の鼓動を必死で抑えるとアカトリエルは息を整えた。
「………私はもうこの短剣を決して外す事は出来ません。………戒めを解いてしまったら…私は自分でも何をするか分からない………」
再び顔を上げた彼にはいつもの人形のような表情が浮かんでいる。
しかし、やけに落ち着きを取り戻した息子の姿にウェルギリウスは恐怖を感じていた。
『何をするか分からない』
…その言葉はおそらく真実だろう…
「ダンテよ、気付いているか? ……今のお前の姿は……まるで殺戮欲を限界まで抑制するガドリールと同じだぞ………」
その言葉に口元が微かに笑みに歪み、アカトリエルは父に軽く頭を下げた。
「今夜はもう帰ります。あなたがそこまで回復したのならばもはや私の手は必要ないでしょう」
まるで別人のような冷静さを取り戻した彼は、何事もなかったかのように剣を腰に差すと扉の外に広がる漆黒の闇に姿を消した。
それとほぼ同時にジョルジュが奥の部屋から姿を見せる。
「あなた…ダンテは? もう帰ってしまったの?」
不安そうな顔をした妻の言葉にウェルギリウスは「うむ」と頷いた。
「あの子…どうしてしまったのかしら。せっかくお茶が入ったのに……」
ポットの中にはすでにハーブのいい香りを漂わせる暖かな液体が一人分溜まっていた。