神の歩法
「さあ切ってきたわ。食事にしましょうね」
瑞々しい果物を盛り付けた皿を手にジョルジュの穏やかな声が響いた。
母が生きていれば私もこんな風に家族で食卓を囲めたのだろうか……
ベアトリーチェは差し出されたパンを口に運びながら過ぎ去った幼い頃の日々を頭に浮かべていた。
母が亡くなってから忘れていた談話の食事はあっという間に終わり、ベアトリーチェは礼を述べると赤いマントを羽織った。
あと三十分もすればガドリールが目を覚ます。
「一人で大丈夫? そろそろダンテも来ると思うから城下まで送ってもらえばいいのに……」
玄関口でジョルジュが心配そうに美しい女の顔を見上げた。
「いいえ、心配なさらなくても大丈夫です。きっとこの国の男性の大半より私の方が強いから…。それに歩いて帰るわけでもないですから………美味しいお食事ありがとうございました」
「そんな、こちらこそ…お客様に後片付けまでしてもらって……」
ベアトリーチェはニッコリと微笑むとジョルジュの隣のウェルギリウスを見上げた。
「どうしたらいいかしら…彼の残っている手記を全て持って来た方がいい?」
「…そうだな……奴が書き起こした手記は研究成果が前後しているからな。取りあえず目を通したい。難解だがガドリールの魔道書はデザスポワールの歴史の中でも類を見ない傑作だ」
「それでは明日も来ていいかしら」
その言葉にジョルジュが「もちろんよ」と答えた。
美しい微笑を浮かべたままベアトリーチェは一礼すると杖を空に掲げた。
どこからともなく吹いてきた風に一瞬ジョルジュが目を閉じた瞬間……彼女の姿は既に消えていた。
「? ……あなた、娘さんは?」
「帰った………」
「やだわ、いつの間に………」
「神の歩法か…魔女と呼んでは失礼に値する存在にまで成長したか」
ジョルジュは暗い森の中をまだキョロキョロと周りを見渡している。
「ウェル。見て」
袖を引かれ、ウェルギリウスはジョルジュの指差すほうに目を向けた。
漆黒の闇の中から白い人物が馬に乗ってこちらに歩いてくるのが伺える。
ウェルギリウスが片腕を失ってから、両親の身を案じて毎夜訪れるアカトリエルの騎馬だ。
「出来ればベアトリーチェが来たことはダンテには言わない方がいいかもしれんな…」
「? ……言うなって……何故?」
「……あいつの性格はお前によく似ている。…………男であるだけに周りが見えなくなると怖い……」
アカトリエルがベアトリーチェに特別な思いを抱き始めている事は気付いていた。
自覚があるかは分からないがあまり二人は合わせない方がいいような気がする。
そんな夫の言葉にジョルジュは首を傾げた。
「分からないけど…言う通りにすればいいのね」
「隠し通せれば……だが……」
ウェルギリウスは小さく呟くと一人家の中に入り、ベアトリーチェから預かったガドリールの魔道書を棚の奥に隠した。