得る事の出来なかった父への愛
「彼のオルガンを聴いたのはそれが最初で最後。一ヵ月ごとにその歌の試験みたいなものがあって、少しでも音階を間違えると彼は失望したかのような目を向けてきたわ。だから必死で覚えたのよ? 完全にマスターした時に癒しの子守唄だって教えてくれた。彼が唯一好む歌だったからよく謳ったの。でもまさか魔法だったなんて……」
憂いに満ちた瞳で温かなハーブティーを見つめるベアトリーチェの姿にウェルギリウスは首を横に振った。
「その頃から教授されて来たのか。魔法が使える娘ではなかったのにな」
しばらくの間を置いてジョルジュが濡れた手をエプロンで拭いながらベアトリーチェに話しかけてきた。
「ベアトリーチェ、一緒に夕食でもどうかしら?」
その言葉に彼女は「いいえ」と答える。
「時間が限られていますから。あと三時間もすれば彼が起きてしまうし…その前に帰って下界の匂いを落とさないと………」
「食事を食わせてやれ」
割って入ってきたウェルギリウスにベアトリーチェは首を大きく左右に振った。
「手渡されてすぐに何を教授すると言うのだ。ガドリールの手記は少々癖が強くてな。時折鏡文字を使ったり文法を逆にしたりと、すらすら解読出来る代物ではない。これをわざとやっているのだから全く苦労する」
「でも、彼は食事を摂っていないのよ? 私がそんな………」
「お前を差し置いて何度か食事をしているだろう。それにお前は人間上がりの魔女だ。食べなくとも奴の血が生かし続けるだろうが、力は出ないぞ。その枷がいくら攻撃性の黒魔道にしか反応しないとは言え、城を封じる時にその源となる体力が無ければ何の意味も無い」
「それでも……」
頑固として意志を曲げようとしないベアトリーチェの姿に溜息を付くとウェルギリウスは続けた。
「それならばジョルジュの為に食べてやれ。あいつはお節介な女でな。きっと食わぬと帰さぬぞ。それに私もまだ夕食はスープを一口しか飲んでいない」
そうこうしているうちにジョルジュがスープやパンやらをそそくさとテーブルに並べ始めた。
「そんな…あの……」
「いつもウェルと二人で食べているから、お客様が居ると楽しいわね。しかもこんなに綺麗な娘さん。…あっ! そうだわ、今朝方採れた新鮮な果物も切りましょうか」
一人ウキウキと弾んだ声でジョルジュは再び台所に姿を消した。
「あの………私……」
「もう止められんな。あいつは一度突っ走ると留め金が外れたように暴走する傾向がある。若い時もそうだった…どんなに突き放してもしつこくてな。しまいには修道女を勝手に捨ててこの家に転がり込む始末だ。……ダンテもその血を継いでいるからタチが悪い」
「ダンテ?」
「ああ、アカトリエルの事だ。二十数年前に、双剣徒とやらの前騎士長の元へ弟子入りしてしまってな。…私はエテルニテに歓迎される国の出ではないからな。そちらの方がこの国で生きていくのには丁度いい。………しかし、今でも女神の夫としての教えは賛同出来んが……。今更後悔した所でどうにもならん」
「そんな事無いわ。あなたたちは愛されてるもの…羨ましい…」
「お前も愛されているだろう」
「父の愛は歪んでいたから。………家族愛なんて母が亡くなった時に終わったわ」
穏やかだったベアトリーチェの顔が悲しみに満ちた。
その瞳からは今にも涙が零れそうだ。