老夫婦
「ウェル。夕食が出来ましたよ」
ベッドに腰掛けたまま分厚い手記を開く老人の元に、物腰の穏やかな妻は温かな食事を差し出した。
一週間前にアカトリエルに抱えられながら帰って来た夫の姿を見た時は気を失いそうになったが、ウェルギリウスは彼女の献身的な介抱と致命傷が既に塞がっていた事から案外早く起き上がれる程にまで回復していた。
「朝からずっとその本を読みっぱなしではございませんか……お体に障りますよ?」
「大丈夫だ。疲れてはいない」
「お食事摂れます? 手伝いましょうか?」
「そこまでする必要は無い。早くこの左手に慣れんと後々不便だ」
手記から目を離さずに左手でスプーンを取り、スープを口に運ぶ彼の姿をしばらく見つめるとジョルジュはそっと右隣に腰を下し、その右腕にそっと触れた。
右腕の三割を残したところでそこから先が痛々しいほどに途切れている。
「もうお年なのに…こんな………」
夫の腕に縋りながら肩を震わせるジョルジュにウェルギリウスの手が止まる。
「………もういい加減に泣くのはよせ………こうして生きているだけでも十分だろう。この右腕のお陰でダンテも足しげく通うようになったではないか」
「それでも……私があなたを待っている間どんな思いで………」
六十を過ぎているとはいえ、こんな時のジョルジュの姿は若かった時の少女のままだ。
必死で声を殺して顔を伏せる泣き方は四十年以上経った今でも何も変わらない。
「ジョルジュ。左に来い」
その言葉に彼女は涙で濡らした顔を上げた。夫の顔が微かな笑みを浮かべている。
彼の笑みは長い間共に居ても見た事があるのは数えるほどしかない。
「右腕は使えぬのだ。左に来ぬと肩を抱いてやれんだろう」
「ウェル………」
小さく頷き、頼りない笑みを浮かべながら左脇に腰を下す妻の肩を左腕で引き寄せると
「心配ばかりかけてすまんな…」
と囁いた。
「ずい分お優しくなりましたのね。若い頃は肩なんて抱いては下さらなかったのに……」
「私の国の男たちは愛情表現が得意ではいからな……四十年以上住み続けてこの国に馴染んできたという所か」
ウェルギリウスに頭を擡げながらジョルジュは涙を指先で拭い、「ふふふ…」と笑った。
ふいにその時家の呼び出し鈴がカラカラと音を立てた。
「ダンテかしら?」
「ずい分早いな」
二メートル以上の身長を持つウェルギリウスが自分に合わせて建てた家は、百五十センチに手が届くか届かないかの小柄なジョルジュにとって何かと不便な事が多く、高いところの物もろくに取れない。
そんな母と父の怪我を案じてアカトリエルは毎晩通ってきていた。
「ダンテ、今日は早かったのね」
そう言って扉を開いたジョルジュの顔が驚きに満ちた。
扉の外に立っていたのは息子とはかけ離れた容姿をした人物だったのだ。