最奥に潜む情
不意にアカトリエルは開け放たれたドアの外の異変に目を移した。
…漆黒の闇…この闇はガドリールの結界だ。
「まさか……」
アカトリエルと同時にウェルギリウスは小さく呟いた。
「結界だ……これだけの城全体を結界で覆っているのだ……尋常な力じゃない…」
その言葉にクラージュは老人の手を振り切ると息を切らせながら血溜まりの中心に居るガドリールとベアトリーチェに走り寄った。
「結界…結界を…結界を解くんだ!!!」
無数の瞳が好戦的な目を向け威嚇した。
「私達の言葉が分かるんだろう!!! 結界を解け!!!!」
教皇を葬り去った化け物を目の前にしてもクラージュの心には自然と恐怖が沸かなかった。ただその腕の中に居る、いつ死を迎えてもおかしくないベアトリーチェを救うために必死だった。
《ヴヴヴヴヴヴヴヴ…………》
「結界を解け!!! ベアトリーチェが死んでしまう!!!」
《おおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉ……………》
「きゃぁぁぁぁぁぁ!!」
地響きのような轟と共に空気がびりびりと振動しオランジュが耳を塞ぎながら身体を丸め、悲鳴を上げた。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ………
不気味な音が外から響き、城の窓から徐々に光が漏れ始める。
永遠のように感じていた漆黒の闇が砕け、ドアからも長い光の帯が伸びる。
「魔道神が自ら結界を解いたのか……?」
ウェルギリウスの視線の先には崩壊したエントランスの穴から覗く爽やかな青空が遠くにまで広がっていた。
陰湿な空気は取り払われ、爽やかな風が清清しく吹き込んで来る。
《……………………》
「は………はぁ…はぁ…」
首枷の力の抑制力が解除され、ベアトリーチェは必死で息を整えていた。開いた赤い瞳の先にガドリールの姿がある。
彼女はにっこりと微笑むと彼の顔に垂れる黒髪をいつものようにそっと退けた。
「ガドリール……」
《…………………………》
血に塗れた身体を抱え上げ、魔神は生き残っている周りの人間を恨めしそうに睨み付けると抱え上げた妻と共に足元に出現した漆黒の影の中に姿を消した。
「…………え?」
「魔女と悪い神様は何処に行ったの? やだっ…後ろからとかっ!!」
オランジュがフライパンを構えながら素早く後ろを振り向いた。
「案ずるな…諦めたようだ……今は……部屋に戻っているだろう…」
「諦めた?」
コンデュイールが静寂の城の中を見回した。
「我らを狩るより、妻の回復が最優先だろう………それに………もう派手な魔法は使えぬ。下手に力を解放するとベアトリーチェが死ぬからな。…それは奴が一番分かっている」
「死ぬって………」
「私が思った以上にあの娘はガドリールにとって特別な存在なのだろうな……完全に理性が崩壊していると思っていたが……心の最奥には人間であった頃の感情が礎となって残っているらしい」
痛む身体でゆっくりと立ち上がるとウェルギリウスは「ここを出よう」と呟いた。
外から優しく降り注ぐ光、部屋のベッドの上にはガドリールが身体を丸めたまま揺れていた。彼の腕の中には血に塗れた妻の姿がある。
「ごめんなさい…あなた」
癒しの力を持つ血液を大量に失ったがまだ生きている。首につけられた冷たい枷も今は何の反応も示していない。
ベアトリーチェは彼の胸に頭を擡げながら瞳を閉じ、頼りなく笑った。
「お城、色々と壊れてしまったわね……直さないと……」
難解な言葉とも取れぬ声が魔道神の首から紡がれる。
何故だろうか、ベアトリーチェにはその言葉の意味がハッキリと分かった気がした。
「ええ、大丈夫よ。あなたをおいて死ねるわけなんてないじゃない」
身体をしっかりと抱きしめている彼の腕にそっと手を重ねるとベアトリーチェはそのまま眠りに付いた。
微かに聞こえる寝息の音…彼女が生きている証…
今ではそれこそもガドリールの癒しだった。