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第二曲  夜ニ歌エバ 5

 

「たー君、おいで」

 リビングの床に膝をついて、少女が両手を広げた。

 紫色の眼が無邪気な光を放っている。

 引き寄せられるように足を出しかけ、動きを止めた。

 背後のソファには男が坐っている。視線を向けなくても、こちらを見ているとわかる。

 迷ったが、ここは猫として振る舞う方が自然だろう。

 少女に近づき、耳の横を少女の手に摺り寄せた。

 少女が、にこり、と笑う。

 ふわり、と抱き上げられた。

「シアと一緒にお風呂に入ろ」

 え?

 胸に抱かれたまま、バスルームに運ばれていく。

 いや。それは、ちょっと。

「たー君、お風呂、きらい?」

 好きとか、嫌いとかじゃなくて。

 男の視線を感じる。

 あんた、嫌なら止めろよ。無言で殺気を放つな。怖いってば。

「大丈夫だよ。シャワーだけにしてあげるね」

 大丈夫じゃない。絶対、殺される。

 ぱたん、とバスルームのドアが閉まった。猫の力では開けられない。人型になるか。それはそれで男の逆鱗に触れるような気がする。かりかり、とドアの下を爪で掻いた。

「たー君――」

 前足の付け根に両手が差し込まれ、背後から少女の胸に抱かれた。

 その感触で、少女がすでに裸だと知る。

 思考が停止する。

 浴室のドアが開き、閉まった。もう完全に出られない。

 少女がシャワーの温度を調節しながら、洗面器に湯を張っていく。

 少女の片腕に抱かれたまま、それを茫然と見つめる。

 貌を動かすと、少女の二の腕から腕の付け根が視野に入る。視線を落とすと、少女の白い大腿が眼に入る。甘い匂い。少女の髪が蜜の匂いを放っている。

 月光色の髪は少女の肩から胸にこぼれ、くびれた腰まで流れている。

 なぜそれが見えるのか。

 いつの間にか洗面器の中に入れられ、少女と相対していた。

 白い裸体が眼の前にあった。

 少女の指が背中に触れた。片手で洗面器のお湯をすくっては背中を濡らし、シャンプーを泡立て、撫でるように背中を洗う。その感触が心地好い。

 猫を飼ったことがあるのかもしれない。尻尾には触れようとしないし、貌に水をかけるような真似もしない。ぬるま湯のようなお湯も適温だった。

 桜色の唇が、子守唄のように、歌を紡いでいる。


 もう一度生まれたい

 もう一度あいしたい

 もう一度あなたに会って

 もう一度好きだと言って


「この歌、知ってる?」

 唇を見つめていたせいか、少女が訊いた。

 知らなかった。

「花の歌だよ」

 花の――?

「――に恋した花の歌」

 何に? ――よく聞き取れなかった。あるいは、誰に、と言うべきか。

 紫色の眼に、透明な光が揺れている。

 その光に、なぜか胸が痛くなるような気がした。

「ごめんね」

 少女の指が胸に触れた。

 はっとなる。

 心を読んでいる?

「シアは感じるだけだよ」

 思考ではなく、感情を読むという意味か。

 だったら、あいつの感情を読めよ。あれは相当に怒っていたぞ。

 あんたにしてみれば猫だろうけど、あいつにしてみれば僕は男なんだから。言ってみればこの状況は、自分の女が別の男の前で裸になっているわけで――

 やばい。どう考えても生きていられるような気がしない。

 逃げよう。

 洗面器から出て、浴室のドアに頭をつける。

「出たいの?」

 出たい。お願いだから。出して下さい。

 少女がドアを開けた。脱衣室に出たが、バスルームのドアもドアノブを動かさなければ開かない。ドアの前でぐるぐると回っていると、後から出てきた少女がノブを動かした。

 開いたドアの隙間から、するり、と脱け出る。

 外に出るには、リビングを通らなければならない。

 リビングに足を踏み入れ、なぜこんなにも暗いのだろう、と考える。

 電気を消したのか。

 天井を見上げ、クラシカルなデザインの電灯にオレンジの光が灯っているのに気づく。

 だが、光は部屋を照らさない。底無しの闇が部屋の中に広がっている。

 その闇の中に男の気配だけがある。

 ごくり、と喉が鳴った。足が動かない。

「たー君、つかまえた――」

 無邪気な声が響き、背中から足までバスタオルに包まれた。

 首を巡らすと、少女の姿が眼に入った。背中から尻尾の毛まで逆立った。

 なんで裸で出て来るのさ。あんた、羞恥心が無いの?

 傍らに男が立っていた。

 ひい、と思う。

 男は身を屈め、少女の髪に触れた。

「シア。髪の毛を洗ったか?」

「ううん」

「洗ってやる」

 男が少女の手を引いて、立ち上がらせた。

「たー君を拭いてあげないと」

 男の眼が冷たく見下ろしてくる。

 自分で拭きます。

 バスタオルを咥えて後退さった。

 男が少女を連れてバスルームに消えた。

 シャワーの音。男が何か言ったのか、少女の笑い声が響く。少しして、甘い声に変わった。

「たまらんなあ」

 人型になって、息を吐いた。

 頭に乗っていたバスタオルを床に置く。

 リビングが明るい。少女が現れると同時に闇は退いていた。原理は不明だが、男の仕業であることは間違いない。

 あの男がその気になれば、魔物の一匹や二匹、簡単に始末できるだろう。

 そうしないのは――

 少女がそれを望まないからか。

 気に入らなくても、少女の意思を優先する。

 少女だけがあの男の世界――

 そんな気がした。

 その気持ちはわからないでもない。

 リビングのドアを開け、玄関口に出た。

 外に出ると、夜の風が髪を揺らした。空気に樹の匂い、草の匂いが混ざっている。

 玄関前のステップを下りた。

 数メートル四方の草地が開けているが、周囲には樹々が生い茂っている。

 ちょっとした林の中だ。

 高原の別荘地だった。十数軒の別荘が点在している。その中で、さらにぽつん、と離れた位置にこのログハウスは建っている。誰のものかは知らない。

 貌を上げると、どきり、とするほどの星が見えた。

 無数の光が漆黒の空に散らばっている。

 澄んだ光に誘われる。

 喉が開いた。

 ruuuuuAAAAAAAA――

 声は遠吠えのように星々の間に吸い込まれていった。




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