第1章:桜の怪異 第1話:【日常・お姉様と僕の夜這い境界線】
月明かりが、僕の狭い六畳間の和室を白々と照らしていた。
深夜二時。世界が寝静まったこの時間に、僕――姫宮蓮は、寝具の中で完全に硬直していた。
(……いる。確実に、いる。布団の上の、ちょうど僕のお腹のあたりに、ものすごく重くて柔らかくて、信じられないくらい良い香りのする『何か』が乗っかっている)
女子のように線が細く、クラスでは「達観してて何考えてるか分からない」と評される僕は、それでも静かに息を呑んだ。おそるおそる薄目を開けると、そこにはこの世のものとは思えない絶世の美女――いや、麗人が僕を見下ろしていた。
艶やかな銀髪が僕の頬を撫で、切れ長の琥珀色の瞳が 妖しく濡れている。宝塚のトップスターがそのまま和装になったような、圧倒的な気品と色気を放つ女性。
我が家に居座る大妖怪、妖狐のタマさんだった。
「ふふ……ようやく目が合いましたね、私のお可愛いお姉様」
タマさんは、男の僕が聴いても身震いするほど低く甘い、極上のソプラノボイスで囁いた。彼女の細い指先が、僕の寝間着の胸元にするりと滑り込んでくる。
(……来たか)
驚きはしない。慣れているから、というより、こうなることは最初から分かっていたからだ。彼女が冷たい指先を僕の寝間着の胸元に滑り込ませてくる感触に、僕は目を閉じる。
僕だって男子だ。綺麗な人に触れられて、何も思わないわけじゃない。興味が無いと言えば嘘になる。
けれど。
「タマさん」
タマさんの冷たい指先が、僕の鎖骨に『 触れた 』――その瞬間。
ピキィィィン、と僕の脳裏で何かのスイッチが強制的に切り替わる。
僕の意志とは完全に無関係に、右腕の筋肉がプロの格闘家並みの速度で駆動を始めた。
「――ダメだよ」
静かな声が、僕の喉から落ちる。地鳴りのようなドスの利いた関西弁ではない。ただ、淡々と。
と同時に、僕の右手に霊力で編まれた黄金のハリセンが物質化し、凄まじい風切り音を立ててタマさんの美しい顔面へと一直線に振り抜かれた。
――パコォォォォォンッッッッ!!!
夜の住宅街に響き渡るべきではない、完璧な乾いた破裂音。
魂の条件反射。前世で、迫り来る変態過保護妖怪たちを日常的にどつき回していた『伝説のツッコミ姫』の防衛システムが、一線の侵入を感知してオート起動したのだ。
「あぐっ!?」
顔面を完璧な角度で捉えられたタマさんは、美しい放物線を描いて吹き飛び、我が家の薄い壁に見事な人間型のクレーターを作ってめり込んだ。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ!」
僕は黄金のハリセンを握りしめたまま、布団の上にガタガタと震えながら起き上がる。
僕の口から漏れた息は、すぐにいつもの、落ち着いた呼吸へと戻っていった。
「……困ったな。僕の意志じゃ止められないこの体質、いい加減どうにかしてほしいんだけど」
やれやれ、と肩をすくめて自分の右手を見下ろす。
一方、壁にめり込んでピクリとも動かなかったタマさんは、ズブズブと壁から這い出てくると、ふらつく足取りで僕のベッドへと戻ってきた。
その鼻からは、一筋の鮮血がたらりと垂れている。
「ああ……っ、はぁ……っ。この理不尽なまでの破壊力……! 脳髄を揺さぶる完璧なツッコミの間……! 間違いありません、あなた様は、間違いなく私のお姉様(姫)です……っ(ぽっ)」
タマさんは頬を紅潮させ、恍惚とした表情で自分の体を抱きしめて身悶えしている。
(この人、叩かれて喜ぶんだよな……。困ったお姉様だ)
「タマさん。僕は現世では男だし、ただの高校生だよ。毎晩これじゃ、こっちの体力がもたない」
「何を仰いますか。お姉様がせっかく『男の器』に入ってくださったのです。これなら公序良俗に反することなく、合法的に私と契れるというもの。さあ、今夜こそその可愛い唇を――」
「ダメつってんだろボケェ!!」
パコォォォン!!
「あああぁぁ(眼福)!!」
再び部屋の反対側の壁へと吹っ飛んでいくタマさんを見送りながら、僕は深いため息をついた。
前世の因縁だか何だか知らないけれど、僕の現世の平穏は、このお姉様怪異のせいで毎日のように限界突破を迎えている。
しかし、この時の僕はまだ知らなかった。
このタマさんとの不条理な夜の攻防戦など、これから始まる怒涛の怪異人生の、ほんの小手調べに過ぎないということを――。
翌朝、寝不足の目をこすりながら僕が登校した学校の裏庭では、すでに『次の事件』の足音が、不穏な桜の香りと共に近づいていた。




