095 :// 想像も出来ない未来
朝日が上り、その日が暮れても、ファグロは起きなかった。
丸一日、寝込んだ。
ルミナディアに来てからというもの大した活動もしていないため疲労もなく、もうこれ以上は眠れない。
しかしまた朝日が上った今でもファグロはベッドの中で過ごしていた。
『とても……誰にも言えない…………秘密が、あって……』
何度もまぶたの裏に思い出す、クロアの姿。
羞恥に目を潤ませて頬を赤く染める姿は、それまでの色恋に興味のなさそうな日頃の姿との格差から背徳感となって、より煽情的に見えた。
あまり好みではない容貌だったことを忘れるほど、その熱に息を呑んだ。
『大丈夫、ですか……?』
だが、大丈夫ではなかった。
あの膨らみ。固さ。熱。
それは自分の股間にもあるもので、よく見知ったものだ。
(男は……男はどうしようもない……)
絶望が心に重く沈む。
外は快晴、澄んだ青空のいい天気だが何もする気になれなかった。
「坊っちゃん。そろそろ起きたらいかがですかな」
ゾルカスが寝室へ来て、サイドテーブルに茶を置く。
「南魔王様と聞いていた情報と違うのでは、任務失敗というわけでもありますまい」
「任務失敗……?」
「おや? 違いましたかな? てっきり初めての失敗に心が折れたのかと思っておりましたぞ」
言われてみれば、任務失敗とも言える。
だが今まで考える時間はたっぷりあったというのに、任務については全く考えが及ばなかった。
では一体、何について動揺し、落ち込んでいるのか。
「……まさか本当に、クロア嬢に惚れておりましたかな?」
「……いいや……そんなことはない……」
確かにあの夜は魅力的に見えたが、女性を抱く時はどんな相手だろうといつでもそうだ。
特別に惚れた感じも、恋い焦がれるような感じもしない。
だが何か引っかかる。
大事な何かを失ってしまったような絶望が、心に重くのしかかる。
「坊っちゃん。明日には帰国予定でしょう。
最後ですし、気分転換に出かけてみてはいかがですかな」
「外……か……」
「浴場などいかがですかな? サウナなるもの、なかなかよかったですぞ」
浴場のサウナ。
そういえば悪くないものだったが、一度入ったきりだった。
帰国したらもう二度と入ることもないかもしれない。
これ以上ベッドにいても、祖父のような世話係とも言えるゾルカスが煩そうだ。
ファグロは仕方なく重い体を起こし、身支度を始めた。
■□
まだ昼間だが、今日の浴場は初日並に混雑しているように感じる。
住民たちが雑談しながら湯浴みする中、ファグロはサウナでじんわりと響いてくる熱と、体を流れる汗に集中した。
入りたては例の雑念が頭を過ってはもやもやとしたが、何度か水風呂を往復すると気分が落ち着いてきた。
(クロア嬢と結ばれたいなどと思っているわけではない…………だが……)
籠絡出来なかったことを自分が悔いているのは間違いないと、理解した。
しかし引っかかっていることは、何かわからない。
(もしかして本当に私の方が恋を? 恋……恋とはなんだ?)
恋多き男として知られるファグロ・ドーラスト男爵が今さらこんなことを真剣に考えているなど、南魔国の社交界に知られたら永遠に語り継がれる笑い話になるに違いない。
ファグロは静かに自笑した。
「……あの、ファグロさん? 大丈夫?」
気づかぬ間にすぐ隣にオルウェンが腰掛けていた。
「体調が優れないって聞きましたけれど……?」
「……ええ、もう問題ありません」
「そうですか? 無理なさらないでくださいね」
ルミナディア評議会の中で最も地味だが、気の遣える男だ。
噂によると人族の国の、同性の恋人と離れ離れになった悲劇の女(?)だそうだ。
「……少々お尋ねしても?」
「あら、なんでしょう?」
「恋をした瞬間って、どんなものでしたか?」
「えっ? やだァ」
その質問は想像していなかったからか、上擦った声が上がる。
急に足が内股になり、くねくねし始めた。
「そうねぇ……。瞬間って言われると難しいけれど……。
二人でお酒を飲んでいた時かしら。私がちょっと頬にソースをつけちゃって、彼がそれを綺麗なハンカチで拭ってくれたの。
その時の彼のはにかんだエクボが可愛くて……トクンって胸が波打ったわ。
それからもう、世界の何もかもが輝いて見えたの! キャア!」
オルウェンは両手で顔を覆って、じたばたと足で地面を叩いた。
見た目はアレだが、その恥じらう姿は確かに恋する乙女のそれと言えるかもしれない。
(……やはり恋ではないな……)
オルウェンの話を聞いて確信した。
自分が抱いている感情は、そんなものではない。
「ありがとうございます。とても参考になりました」
「貴方の恋バナはないの!?」
「残念ながら、ありません」
オルウェンの期待の眼差しが、急激に冷めていく。
何かを期待されていたようだが、残念ながら期待に添えそうにはない。
色恋の経験話なら山程持っているが、こういった一途なタイプには顰蹙を買う種類のものしかないとわかっている。
「ファグロさん、そういえばもうすぐ大市の時間になるわ。早めに切り上げた方がいいですよ」
「大市?」
「あら。クロアから聞いてませんの? 今日は祭りだって」
「ああ、そういえば……」
迎賓館の一件の数日前に、聞いていた。
そしてその日はいつものように自分について来ず、ルミナディアにいるようクロアに言われていた。
「折角もう南魔国にお帰りになるんでしょう? 思い出に参加していってくださいな」
「ええ、そうですね」
曖昧に返事をして、ファグロもオルウェンについてサウナを後にした。
■□
浴場を出たが、特にこれといってやることもなく、行く宛もない。
心ここにあらず、上の空のままに迎賓館に戻ろうとしていたが、いつの間にか人の流れに沿って中央広場へと足を踏み入れていた。
「———これは」
ルミナディアの全住民ではないだろうか。
多くの人が集まり、楽しげに騒いでいる。
見れば皆、何かしらを手にして食事をしている。
「よお、やっと来たんだな……ですね」
後ろから声を掛けてきたのはバーチェークだ。
もう帰国間際だと言うのに、最後まで丁寧な言葉遣いに慣れないようだ。
「祭りだってんで、クロアが作った珍しいメシがいっぱいあるぜ」
あそこで買える、と指出す先には木で簡易的に製作したのであろう、小さな露店があった。
店は5つ並んでおり、それぞれ異なるものを売っているようだ。
(酒。肉串。オニギリ。ダンゴ。アイシィフルーツ)
酒と肉串しかわかるものがない。
肉串なら肉の種類は5種類と、店舗ごとにいくつも種類を揃えているようだ。
「あ、ファブボばば!!」
メイドのジーシャが食べ物で口を膨らませたまま、ファグロを見つめて叫んでいる。
おそらくだが、遊んでいるところに主人が現れて焦っている様子だ。
「ファグロ様! ここのゴハン、どれもすーっごく美味しいですよぉ!
今日、食堂がお昼時間はお休みらしいのでぇ、お昼用に買って帰りますかぁ?」
「……ふむ……食べていくか」
「食べていきますぅ? お腹がペコペコでしたら、オニギリっていうのがオススメですよぉ。
アイシィフルーツっていうのも甘いのにサッパリしててぇ、病み上がりのファグロ様にもよさそうです!」
「そうか」
昨日もあまり食べていないが、そこまで食欲もない。
ジーシャに勧められるままに、アイシィフルーツのお店に目を向ける。
「アレイン味、ティルチ味、チェルリ味、ゴジゾ味ってあって~。オススメはアレイン味ですよぉ!」
「ではアレインのものを」
「はぁい、買ってきますねぇ!」
ジーシャがピュンと風のごとくお店へ駆けていき、あっという間に戻ってきた。
「アレイン味はコレですよぉ」
「そちらの方は……」
「こっちは私のおかわりですぅ!」
すでに全種類を食べたかのような様子だったが、自分用に追加で2つ買ってきたらしい。
ジーシャは手に1つずつ持って、幸せそうに頬張り始めた。
ファグロも渡された手のひらサイズのアイシィフルーツを確認する。
安い紙で下半分を包まれたそれは、何かの皮で包まれていること以外に見た目からはわからない。
ほんのり冷たいそれを、ジーシャに倣ってかぶりつく。
「———!!」
もっちりとした皮。
そして皮を破ると、想像以上にひんやりしたものが口に流れ込んでくる。
(甘い……氷?)
氷にしては柔らかいものがふわりと舌の上で溶け、甘みが花のように咲いていく。
小さめに刻まれたアレインも入っており、かじり具合によってテイストが変わった。
食べたことどころか、聞いたこともない食べ物だった。
「どうですファグロ様!? 美味しいですよねぇ!?」
「まぁ……そこそこ悪くない」
「でしょお!? もう一個食べようかなぁ」
ジーシャほどおかわりは不要だが、別の見たことがないものも試してみようか、と店を眺めた時。
ティリリリン———ティリリリン———
聞き慣れない音に、皆が空を見上げる。
『みんなおつかれー』
空に大きな四角いものが現れ、クロアの顔が映りだす。
当初はかなり驚いたが、もう見慣れた魔導ディスプレイだ。
『ルミナディア大市を開催するよー!』
待ってました、とざわめく住民たち。
ニャスタたちもそこらで踊ったり歌ったりと楽しそうに騒いでいる。
『大市ってなに? だと思うので、簡単に説明するね。
要は市場ってことで、みんな好きに買い物が出来るよ。
商品の前に金額が書いてあるから、自分の財布と相談して買ってね。
欲しいものがあったら、近くのニャスタに伝えて。IDをスキャンさせてくれれば購入成立だよ』
以前のクロアとの会話を思い出した。
これが彼女の言っていた、ルミナディアの娯楽の一貫なのだろう。
『決して使いすぎて、次の給料まで食事も出来ないような状態にならないよーに!』
「おまえヤベーからニャスタに相談しろよな」
「そんなに買わないし!」
「何があるのかしら」
期待でざわめく住民たち。
(哀れな……。そんなに期待しても、商品数は見込めないだろう)
あの映像なるもので姿を見せているからには、クロアは今、離れたところにいるということだ。
これまでずっと仕事に随行していたファグロが大市の商品を一度も見かけていないので、きっと今から搬入するのだろう。
(昨日話をつけたのだろうか? にしても、昨日の今日では許可がほとんど降りないだろう)
以前話した通り、商人の認可には時間を要する。
王室御用達ならば問題ないだろうが、それだと住民たちには高い買い物となる。
彼らが期待するような買い物は不可能だ。
そんなに期待しなければいいものを、とファグロは憐憫に首を振った。
「そーいや、その商品ってどこ?」
『中央通りにいる人、道あけてね。じゃ、商品どーぞー』
クロアが指をパチンと鳴らすと、中央広場から伸びる大通りに2つの光が走る。
光は建物に沿って伸び。
「こ———」
皆、言葉を失った。
走る2つの光から、様々な物が飛び出して宙に浮かぶ。
髪飾りから、剣、鞄、布、本、ペンやインク。
ありとあらゆる商品が、ところ狭しと並ぶ。
その商品数は、南魔国が誇る最大の市である城下市に匹敵する。
「そんな……こんなことが……」
ありえるのか。
あまりの驚きに、言葉が最後まで出てこなかった。
『一応仕組みのことも言っておくと———そこに見える商品は、今みんなが見てるこの私みたいに、ただの映像だよ。
今、私は南魔国にいるんだけど、そこの市場にある商品をリアルタイムで再現した映像なんだ。
実際にはそこにないけど、触って体感できる仮想商品ってところ。
色、大きさ、重さを反映してるけど、重さは総重量の表現のみ。剣とかさ、重心とか大事なんだよね?
そういう細部の重量とか質感は表現しきれてないから注意してね』
住民たちが中央通りにそっと歩みだし、信じられない光景をきょろきょろと見てまわる。
ファグロも光の上の商品、たまたま近くにあった花瓶を手に取ってみる。
しっかりと重みがあり、透明なガラスが光を反射する様は本当にそこにあるとしか見えない。
『みんなが購入決定したら南魔国で実際の商品を私が買いに行くって仕組みなんだけど、
私の購入までに別の客が買っちゃう可能性もあるから、これも注意。
品切れだった場合はきちんと返金するから、安心してねー』
「リーシア、あっち行くぞ!」
「やだよ武器なんて。私はあっち行ってくる!」
「2人とも走ると危ないよ」
子供たちが駆け出したことで、驚きに固まった住民たちの空気が壊れた。
『ルミナディア大市“オンラインショップ”、開幕!』
一斉に、わあと住民たちが動き始めた。
「間違いなく、不可能だったというのに……」
見たこともない光景を前に、ファグロは背筋がぞわりと震えるのを感じていた。
そのぞわりと撫であげられるような、感覚。
不快さはなく、むしろ快感に近いものが背中から全身を駆け巡っていった。
「———そう、か」
その感覚に、ファグロは唐突に小さな頃のことを思い出していた。
初めて馬に乗った日。
まだ幼い自分では足が短く騎乗出来ず、兄の馬に乗せて貰ったあの日。
ヘタをすれば落馬して怪我をしてしまう。
不安定な足場と、経験のないことへの恐怖。
恐怖にぎゅっと目を瞑って、兄がいいよと言ったあとの、眼の前に広がる見たこともない景色と初めての爽快感。
ルミナディアに来てからずっと背中に感じていた感覚は、あの日のそれと同じものだ。
ファグロは理解した。
貴族として、美丈夫として。
地位も名声も、女すら全て自分の手にあるのが当然という時間を過ごしてきたのに、このルミナディアにはその“当然”がない。
自分の想像、予想を一回りどころか十も百も遥かに超えてくる結果は、もはや未知なる異世界のようなもの。
幽霊を怖がりながら、ぞっとする怪談話の続きを聞いてしまう。
噛まれれば死ぬような巨大魔獣を恐れながら、その大きな口の中の牙をじっと見つめてしまう。
それは“未知への焦がれ”であり、“恐怖する快楽”だ。
人間の抗えぬ本能であり、習性である。
『今度見せてあげますよ。私が描く未来の一部を』
あの人が描き、見せてくれる未来。
想像も出来ない、誰にも描くことの出来ない未知の世界。
籠絡の失敗が確定して、絶望したのは。
あの人の創るその未来を、その快感を、もう見ることが出来なくなると思ったからだ。
「フ……フフフフ……」
口の端から笑いが漏れる。
気付いてしまえば、簡単な話だったのだ。
自分はもう、あの人の世界にどうしようもなく魅せられてしまっている。
男と女、性愛も、任務も、最早どうでもいいくらいに。
自分はまだ、あの人に見せて欲しいのだ。
あの人だけが創ることのできる世界を。
「———嗚呼、やっとわかった。人は神に恋をしない」
その日ファグロが人知れず自分の殻を破ったことを、クロアは知らない。




