矛盾の枷
無言のまま、クローンの身体が膨れ上がる。
骨が軋み、肉が裂け、闇が溢れる。そして二本の腕が触腕へと変わり、ギチリと音を立てて足が八本へ増大。イカで出来た髪の毛から黒い粘液が流れ出て、やがて全身を覆う。
人の形が……崩れていく。
巨大な眼。
幾本もの触腕。
山ほどもある巨体。
海の深淵から這い出たような、巨大なイカの怪物。
「「オオ………!!!!」」
——闇の暴走。
昔の俺が、縋って……そしてコントロールした力。
カビ助の父親を殺めた時は、暴走して……本当の怪物になっていた。
だが、制御に成功した俺の遺伝子から出来た複製体だ。
奴は雄叫びをあげることなく……。
ただ、空を覆うほどの触腕を持ち上げる。
その影が、俺一人を飲み込んだ。
静かに見上げる。
「……やはり、そう来るよな」
この状態の俺に……“今の俺”が勝とうとするなら。
——答えは一つしかない。
ゆっくりと、自分の首へ手を伸ばす。
奴と同じ、禍々しく黒い首輪。
いざという時のため、ずっと着け続けている。
(これに衝撃を加えれば……戦況は再び互角になる)
頭では分かっていた。だが、指先が止まる。
「……」
これを使えば勝てる。
少なくとも、互角には戻せる。
だが。これは、カビ助の父を殺した力だ。
あいつの師匠になった今……こんなものに頼って勝つのは、本当に正しいのか?
俺が教えたかったのは、こんなやり方じゃない。
あいつが憧れたのは、怪物じゃなくて“英雄”だ。
教えを乞われる者が、その教えを自ら破るなど、あってはならない。
「『目的のためには仲間が枷になる』……か」
俺は拳を握り直す。……首輪から手を離したのだ。
まさか、昔の俺の考え方が、まさか自分に牙を向くとはな。
そして静かに構える。
怪物を見据えたまま、ただ一言だけ呟く。
「……だったら?」
俺は何故、仲間を選んだ?
何故、あいつの師匠になった?
——返事はない。
目の前にいる“俺”は、答えを持たないのだから。
「答えを持つのは……“未来の俺”だけ、か」
次の瞬間。触腕が、空を覆った。
巨大黒イカが腕を振り下ろす。
「っ……!」
跳び、回避する。
——轟音。
さっきまで立っていた地面が、建物ごと潰れた。
石片が雨のように降る。奴は追撃を止めない。
八本の触腕が、別々の生き物のように襲い掛かる。
横薙ぎ。突き。叩き潰し。薙ぎ払い。
避けるだけで精一杯だった。
(速い……)
巨体になったというのに、鈍くなっていない。
むしろ一撃一撃が、以前より重い。
防げば腕が痺れる。
受け流せば足場が吹き飛ぶ。
「……!」
隙を突き、シャリを放つ。
——闇を纏った弾丸が十数発。
しかし、巨大な触腕が一振りされただけで、全部飲み込まれた。
爆発。煙。
そして――奴は無傷。
「やはりというべきか。フィジカルの差が出来ちまった……!」
『巨大黒イカ』なら、この程度では止まらない。
ダクトの支配から解放され、ジェムらに救われた後でも……かつての俺の闇が形作った巨大な怪物は、強靭な体質を持ち合わせていた。
なら。先程と同じ要領で、血を混ぜた墨を撒く。
「痺れろ。『闇血醤』!」
視界を奪う。
反動で震える体を無理に動かし、死角から接近。
「ぐ……ぅおお!!!」
奴は麻痺して動けないはず。
その隙に……腹部へ、掌底!!
——衝撃。
確かな手応えがあった。
だが……次の瞬間、巨大な腕が真横から振り抜かれた。
「ぐっ……!」
身体が吹き飛ぶ。
居住区の壁を、二枚も突き破るほどの勢い。
肺の空気が全部抜けた。
口から血が零れる。
「がはっ……! はぁ……」
情けない。
偽物は無言で……余裕ぶって戦闘してんのに、本物の俺はこのざまだ。
(それに、カビ助。お前と同じように、咳き込んでしまったな)
だが……俺は、“絶望”しているわけじゃない。
立ち上がる。意識は朦朧とし、足は震えている。
向こうは一歩も動いていない。
巨大な眼だけが俺を見ている。
昔の俺。
ふらふらと、反差別活動をしていた頃の俺。
不覚にも石化光線をくらい、奴らに捕まった俺。
まだ“守りたいモノ”が定まっていなかった俺。
「……使うか?」
ふと。首元へ手が伸びる。
黒い首輪。これを叩けば、俺も同じ姿になる。
勝負は五分へ戻る。
そうすれば、まだ戦える。
そして……勝てる可能性も、まだある。
カビ助たちの元には絶対に、この怪物を向かわせたくない。
自ら絶望の道を突き進むあいつの前に現れるのは、俺だけでなければならない。
だが……やはり、指が止まる。
「諦めたく…………ねぇな」
思い出す。
俺についてきてくれたダーク族の仲間たち。
昔のように笑うジェム。
泣きながらも成長していくカビ助。
疑いながらも俺にあいつを託してくれた、ゴハートと土台モン。
悔恨を見抜き、覚悟を決めさせてくれたギザン。
俺の料理を嬉しそうに食べた探検隊。
くだらない雑談。
兄弟たちと、寿司を握っていた時間。
全部。
この首輪を使って力を解放し、ジェムらと共に世界を救わなければ。
生まれすらしなかったものだ。
「これからの…………未来は?」
違う。逆だ。
この首輪を使って生まれた未来のその先ならば、使わずに“諦めない”道を探す。
使えば何かが壊れる気がして、“今の俺”にはその勇気がなかった。
「『郷に行っては郷に従う』。もしこれで死んでも……もう……」
眼前で、巨大黒イカが動く。
触腕が槍のように迫る。
避ける。
受ける。
弾く。
それでも。
一発。
二発。
三発。
傷が増えていく。
血が流れる。
息が切れる。
やがて、膝が笑う。
「……はっ」
俺も、笑ってしまった。
昔なら、こんな状況で迷うことなどなかった。
勝つためなら。何でも使った。誰でも切り捨てた。
それが……「シャド」という男だった。
だが今は。勝つことだけが全てじゃない。
——怪物が咆哮する。
その姿を見ながら。俺はようやく理解した。
「認めるよ。“お前”のほうが強い」
触腕が振り下ろされる。
避けきれない。両腕で受ける。
骨が軋む。地面へ叩き付けられる。
——視界が赤く染まる。
それでも……首輪だけは。
最後まで握らなかった。
◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎ ◻︎
瓦礫の中へ、背中から倒れ込む。
砕けた床が軋み、割れた石片が転がった。
「……っ」
肺の奥から血が込み上げる。
身体はもう、思うように動かなかった。
ゆっくりと視線を上げる。
豪奢なシャンデリアが吊るされた、第二層の天井。
爆風で半ば砕け、灯りは明滅を繰り返している。
天井の亀裂から砂埃が舞い落ち、煌びやかな装飾は無惨に崩れ落ちていた。
……皮肉なものだ。
これほど豪華な部屋も、戦場になればただの瓦礫でしかない。
静かに息を吐く。
耳を澄ませば、遠くで爆発音が響いた。
あれは……カビ助たちか。
ジャックは既に仕留めたかと思ったが……まだ戦っている?
(なら。俺も、まだ倒れるわけには——)
そう思った瞬間。
巨大な影が視界を覆った。
見上げれば、黒い巨体が天井いっぱいに触腕を広げている。
化け物になった、「シャド・リーラッシャイ」。
その姿を見つめながら、俺は小さく笑った。
「すまない、カビ助。俺はやはり……一人では何もできないみたいだ」
乾いた声が漏れる。
そして……巨大な触腕が、ゆっくりと振り上げられた。
「だ——」
「——」
「——」




