後
そうこうしている内に一年が経ち、十四歳になった年、私には婚約者が出来た。家の繋がりや歴史ある貴族としての体面を保つために結ばれたらしい。
私にとっては最悪の事態だった。
それは私には既に心に決めた人がいたから、というのもあったし、マールズは私のことを明らかに良く思っていないから、というのもあったし、何より、私のものはなんでも欲しがる義妹が、余計な厄介ごとを持ち込みそうだったから、というのもあった。
だが一番最悪だったのは、私の婚約の話を聞いた先生が、『おめでとう』と口にしたことだった。
『おめでとう、良かったな。家名に相応しい人間との婚約だ、君もこれを機にそろそろ目を覚まして地に足をつけていくといい』
先生はあっさりとそう言い放って、なんだかひどく安心した顔を見せた。誤った育成法で枯れかけた魔法植物が手を加えてようやく持ち直した時と同じような表情だった。
もちろん、私はひどく、それはもうひどく傷ついた。今までどんなに邪険にされたとしても傷つくどころか嬉しいくらいだったのに、下手すれば優しげに聞こえる声音で言われたその言葉が、私の胸には抉るように刺さった。
けれど、先生がそんな顔をする理由も分かっていたから、少なくとも表には出さなかった。先生は私の恋情を、『心が参っていた時に話した相手が自分しかいなかったから勘違いをしている』と思っているのだ。
実際、きっかけはその通りなのでそれについては何も言えなかったが、少なくとも数年先生を思い続けたこの心は決して勘違いなどではなかった。そうでなければ、真面目な生徒としての対面を取り繕ってまで先生と共にあれるように努力などしない。でも、先生はそれを少しも信じていない。
心が引き裂かれるかのように痛んだけれど、私はいつものように『政略結婚と恋愛は別ですよ、先生』とだけ笑っておいた。感情を隠すのは得意な方だ。
何せ、四年生になってもいまだに私が先生を好きだと察しているひとはいないくらいだったから。みんな、私は病的なまでに魔植物学に興味がある学生だと思っている。
教師である以上、生徒に恋慕の情を向けられているなんて噂は先生の迷惑にしかならない。私は別に先生の迷惑になりたい訳ではないから、表面上は熱心な生徒として上手くやっていた。
先生曰く、『君がそうして付き纏ってくること自体が迷惑なんだが?』とのことだったが、迷惑になりたくないだけで迷惑をかけてでも一緒にいたいので、距離を取る案は即時却下だった。恋する乙女は迷惑なものなのだ。酷い話だったが、先生も酷い人なので、両成敗ということで許してほしい。別に、許されなくても思い続ける所存だが。
マールズは既に父に何事か吹き込まれている様子だったので、私のことはお飾りの妻にして便利に使う気でいるようだった。それならそうと、表面上は上手くやってくれればいいのに、彼はその点があまりに拙かった。
だからこそ父も公爵家の嫡男にしては扱いやすい、と目をつけたのだろうけれど。
もしくは、貴族としての結婚に乗り気ではなかったキャロルをその気にさせるための当て馬だったのかもしれない。キャロルをその気にさせ、正式な手順で踏んだ婚約をマールズの方から破棄させ、都合よく事を運ぶつもりだったのかもしれない。
ともかく、少しも円満とは言えなかった関係はやはり酷い結末を迎えた。
結局は私にとってもマールズにとっても、多分父にとっても良い結果になったのだから、これはこれで良いのかもしれない。
もしかしたら、先生にとってはあまりよくない結果だったかもしれないが、それでも、彼は本当に嫌だと思ったことは絶対にしないので、私とこうして結婚生活を送ってくれる時点で、少なくとも共に暮らすのが嫌な相手ではないのだろう。
私が先生にとってそういう存在になれただけで、この先一生の幸せが確約されたようなものだった。これ以上の幸福はないし、これ以上を望んでしまったら天罰が下ってしまう。
そう思って、今の幸せをただ噛み締めるように暮らしていたのだけれど、人間というのはやはりどこまでも欲深い生き物のようだった。
「────ところで先生」
「…………、……なんだ」
「先生はいつになったら私の名前を呼んでくださるのですか?」
ある日の昼下がり。昼食を終えて一息ついたところでそっと滑り込ませるように尋ねた私に、先生はやや渋い顔で黙り込んだ。
引き結ばれた唇が妙な形に歪むのを見て、過ぎた願いだっただろうか、と訂正の言葉を重ねようとした私より先に、先生が口を開く。
「君の方こそ、ぼくの名前を呼んだところを聞いた覚えがないが?」
いつもと変わりない口調で告げられたように聞こえたそれを理解するのに、私は丸々一分を要した。
先生が紅茶のカップに口をつけ、半分ほど飲み込み、茶葉がよくないな、とぼやくのを聞いたところでようやく思考が追いついた始末だ。だって、あまりに衝撃的だった。
「…………呼んでもいいんですか?」
「……むしろ先生と呼ばれ続ける方が違和感があるがな。ぼくはもう君の先生ではない」
「それは確かに、そうですが」
「今はいいが、もし来客があった場合に妻である君がぼくのことを『先生』と呼び続けてみろ、ぼくが何某かの特殊な趣味を持っていると勘違いされかねん」
「…………それは、そうかもしれません」
俯いて答えた私に、先生は何処か拗ねたように「笑うな、かなり真面目な悩みだぞ」とぼやいた。
真面目に悩んでいることが更におかしくて笑いが止まずにいる私に、先生が催促するように机を指先で叩く。一息ついてから、俯いた顔を上げないままそっと呟く。
「……ええと、ロディ?」
「なんだ、メイベル」
顔を上げなかったのは、実際のところ、彼の名前を呼ぶのがどうしようもなく恥ずかしかったからだ。好きな人の名前というのは、どうしてこうも甘美な響きを持つのだろう。
そして、好きな人から呼ばれる自分の名前というのは、どうしてこんなにも愛おしく感じるのだろう。
誤魔化すように俯いていた顔は何の意味もなく、耳まで赤くなった私に、ロディは呆れ混じりに言った。
「名前を呼ぶだけで赤くなるな、反応に困るだろう」
「……だって、……恥ずかしいです」
「恥ずかしい? 人を殴れる分厚さのレポートに口説き文句染みた言葉を連ねていた令嬢と同一人物とは思えない発言だな」
「あれは…………その、…………そうです、けど」
そういえば、彼は今でもあれを持っているのだろうか? ふとそんなことが気になって──というより、この場の空気の居た堪れなさに他所ごとを考えようとした思考が脱線しかけたところで、カップを置いたロディが真っ直ぐな声で言葉を紡いだ。
「聡明な君なら察していることだろうが、ぼくは君の言う『恋』というものをこれまであまり真剣に取り合わなかった。軽んじていたとも言う。
それは、君の口にする想いが、ぼくの感情を想定しないものだったからだ。君は自分が置かれた状況から逃避するために、ぼくという未知の存在を想うことで心の支えにしていた。……続けてもいいか?」
顔を上げた私の物言いたげな視線に、ロディは伺うように付け足した。言いたいことはあるけれど、ひとまず頷く。
彼が何か、とても大事な話をしようとしているのを察したからだ。
「別にそれを悪いという訳ではない、人間とはそのようにして感情の処理をすることがままあるからな。
一応は教師として、生徒である君のそうした精神のバランスに気を配っていた、とも言える。まあ、これは嘘だが。面倒だから黙っていただけだ、嘘は良くないな。訂正しておこう。
ともかく、今までの君はぼくがどうであろうと自分が好きだと言うだけで満足できていた訳だ。関係を構築することが前提ではなかったから好き放題言えていた、つまりは交際を始めるつもりのない告白だった訳だ。
君は違うと言うだろうが、ぼくはそう受け取った、という話だからとりあえず受け入れてくれ。
で、だ」
言葉を区切ったロディは、いつものように気怠げに頬杖をつくと、視線だけは真っ直ぐに私を見つめた。
「ぼくらは動機や経緯はどうあれ、今は夫婦という形を取っている。君を悩ませる家庭の事情は殆ど無いと言えるし、ぼくはもう君の『先生』ではないし、君は表面上限りなくぼくの苦手なタイプの女性に分類されるが、ぼくは君個人のことは決して嫌いではない──し、むしろ今は好き寄りだとも言える」
「え」
「座れ」
思わず立ち上がっていた私に、ロディは片手を押さえるように振った。ちょうど、落ち着かない馬にやるのと同じような仕草だった。
「君はもしかしたらぼくのことを血も涙もない男だと思っているかもしれないが、ぼくは自分の好きなことに一緒に夢中になってくれる上に共に暮らしている女性に何の好意も持たないほど感性が死んだ人間ではない」
「はい、存じております」
「座れと言ったが、聞こえなかったか?」
「聞こえました。ですので、隣に座り直そうかと」
持ち上げた椅子を手に移動しかける私を見て、ロディは頬杖をついていた手でこめかみを押さえた。
「君のその螺子が外れた積極性は何処から来るものなんだろうな」
「溢れ出る想いから生じたものでは?」
「名前を呼ぶだけで照れていたくせに隣に座ろうとするな」
「嫌なら避けてくだされば、もう二度と致しません」
椅子を抱えたまま真面目くさった顔で宣言した私に、ロディは一度途方に暮れたように天井を見上げてから、溜息と共に空いた片手で私を手招いた。
犬でも呼ぶような仕草だったが、これ以上ないほどに嬉しかったので、私は喜びをそのまま表したかのような足取りで先生の隣に椅子を置いた。
「ロディ、私、今とても嬉しいです」
「そうか。ぼくはあまり嬉しくない」
「……嫌でしたか?」
「嫌じゃないが、君はどうしてそう、可愛い顔が三秒と持たないんだ? 即座に奇行に走るんじゃない」
心底呆れたようにぼやいたロディは、そこで言葉も返せずにいた私の顔を見やると、少し意地の悪い顔で笑って言った。
「ああ、そうだな。そのまま十秒は持たせていてくれ」
結局私は珍しく機嫌よく笑ったロディを前にして、三分ほどそのまま固まっていたのだが、満足そうに私の頭を撫でた彼に、『何秒くらいは可愛かったですか』と聞く勇気は、流石に無かった。
◆ ◆ ◆
マールズが訪ねてきたのは、先生と結婚生活を始めてから一年が経った日のことだった。つまりは結婚記念日に突撃してきた訳である。
婚約者としての彼はいつも私の楽しい気持ちをぶち壊すのがとても上手だったが、婚約を破棄してからもその手腕は変わらないようだった。
「メイベル! 君という女は、全く信じられないよ! キャロルに呪いをかけるだなんて!」
扉を開けるなり、挨拶もそこそこに怒鳴りつけたマールズは、面倒臭さを隠すこともなく閉口する私を睨みつけると、「なんとか言ったらどうなんだ!」とさらに怒りを露わにした。
「信じられないのは貴様だ。人様の屋敷に先触れもなく乗り込んでくるな」
「ああ、ロディ。ごめんなさい、起こしてしまって」
振り返るとロディが立っていた。
休みの日は基本的に昼まで眠っている彼は、喧しい罵声で叩き起こされたことで限りなく機嫌を損ねている様子だった。
別に常日頃から快活には程遠い人だけれど、今日は一層剣呑な空気を纏っている。
階段の手すりに寄りかかるように立つロディは、しばらく寝起き特有の唸り声を上げた後、ぶっきら棒に言い放った。
「君も君だ。不審な男を相手に無警戒に扉を開けるんじゃない」
「……あの、一応、元婚約者ですけれど」
「だから何だ? そこの無礼者の正体が醜聞に相応しい不義理を働いた君の元婚約者であれば、早朝に断りもなく訪ねて玄関口で喚いていても不審ではないとでも言うつもりか?」
ああ、これはかなり機嫌が悪い。
どうしたものか、と困惑する私を軽く押し退けるようにして玄関口に出たロディは、今にも噛みつきそうな勢いで睨みつけてくるマールズを見下ろし、あくまでも淡々と言い放った。
「何の用だ、マールズ・フィメルシア。ぼくも、ぼくの妻も、君と約束をした覚えはないが」
「ええ、確かに。約束はしていません、連絡を入れなかったことは詫びます。でも、先生! こいつは僕の大事なキャロルに呪いをかけたんですよ!」
「先生と呼ぶな。もうぼくは君の先生ではない」
寝起きのせいか、あまり気にしなくても良い点を律儀に訂正している。コーヒーでも淹れた方がいいだろうか、とキッチンの方向を振り返った私の耳に、尚もやかましく騒ぎ立てるマールズの声が届いた。
「先生だって分かっているでしょう! この女の卑劣なやり口を! 先生がどんな脅迫を受けてメイベルと結婚したか知りませんが、可愛い妹に呪いをかけるような女を庇うつもりですか! 見損ないましたよ!」
「見損なうも何も、ぼくは一度も君に尊敬されていた覚えはないが。ついでに言えば、君にぼくの妻を侮辱する権利は微塵もない。それ以上メイベルを不用意に貶めてみろ、貴様の顔面に大輪のカチュラスの花が咲く羽目になるぞ」
「ロディ、カチュラスの人体への使用は三十年前に禁止されてますよ」
食肉花カチュラスは生きた生物を苗床にして成長する魔植物の一種だ。種子には小さな口がついていて、あらゆる生物に噛みついて取り憑き、養分を吸い上げて瞬く間に花を咲かせる。
成長が早い代わりに種子を成す力が弱く、現在では人の手で育てない限り繁殖が出来ないとされている規制指定植物だ。
ある種の魔物を吸い上げて咲かせた花が万能薬になるため、先生は国の許可を得てカチュラスを栽培している。
と、脳内で並べ立ててしまうのは、ロディが私のことを『自分の妻』だと誰かに紹介するところを聞くのが初めてでかなり動揺しているからである。できれば、こんな碌でもない状況以外で聞きたかったけれど。
「それで? 早朝にわざわざ喧しく騒ぎ立てて訪ねてくるほど重要な案件とはなんだ?」
私の突っ込みは無視することにしたらしいロディは、不機嫌さを隠すこともなくマールズを睨み下ろし、低い声で尋ねた。
ロディの勢いに気圧されていたらしいマールズだが、促されたことで気を取り直したらしい。忘れることなく奥に立つ私を睨みつけた彼は、なんとも忌々しげに口を開いた。
「実は、キャロルが子供を授かったんです。もう妊娠して五ヶ月ほどになります」
「そうか、おめでとう」
微塵もそうは思っていない口調だが、マールズに気にした様子はなかった。
「ただ、先月くらいから様子がおかしくて。夜中に急に叫び出したり、髪の毛が抜けてしまったり、異常に痩せ細ってしまったんです。最初は精神の病かと思いましたが、どうも違うようで詳しい医者に診てもらったんですよ、そしたら、『これは呪いだ』って言われて」
「そうか、大変だな」
微塵もそうは思っていない口調だったが、やはりマールズは気にすることなく続けた。
「可愛いキャロルに呪いをかけるような人間はメイベルしか思いつきません! みんなに愛されているキャロルを妬んで呪いをかけるなんて最低の女です、やはり母親譲りで品性が下劣で性根が腐って」
「メイベル、湯は沸いたか?」
「珈琲用に沸かしましたが」
「持って来てくれ」
「人にかける用ではないので嫌です」
しれっと断った私を、ロディが渋い顔で振り返る。魔法を使って追い返さない辺り、彼はまだ寝ぼけているようなので、早急に珈琲が必要だった。
とりあえず彼の分だけカップに淹れてから、玄関口まで持っていく。一応来客であるし、なんだか話も長引きそうな気配がしていたが、ロディは意地でもそこから先にマールズを入れるつもりはないようだった。
受け取ったカップを開き切っていない目で見下ろしたロディは、それ自体をマールズにかけるか否か数秒迷った様子だったが、せっかく淹れた珈琲がもったいないと思ったのか、素直にそれを口にした。
「このまま愛しいキャロルが苦しむ様を見ているだけなんて耐えられません! 今すぐそこのメイベルに呪いを解かせなきゃならないんです! 先生、退いてください!」
「断る」
「何故です!? そいつは罰せられるべき女なんですよ!」
「君の訪問は何一つ正規の手順を踏んでいないし、時間も非常識だし、その上ぼくの妻を証拠もなく犯罪者呼ばわりしている。退く理由がひとつもない」
相手をするのも面倒だと言わんばかりのうんざりとした様子で告げたロディは、それでも無視して彼を押し退け入ってこようとするマールズの足を思い切り踏みつけると、玄関扉の向こうへと押し返した。
「大体、君はメイベルが君のいとしい、なんだ? なんちゃらを妬んでいるだとか言っているが、どうしてメイベルが君の愛しのなんちゃらを妬まなければならないんだ?」
「どうしてって、そりゃあ、キャロルは可愛くて可憐で、花が綻ぶように美しくて、みんなに愛されているからですよ! メイベルみたいに勉強くらいしか取り柄のない愛想もない女は、キャロルみたいに愛される女が気に食わないものでしょう?」
「残念ながらぼくの愛しい妻は勉学に優れ、たおやかな花のように美しく、好きな人間の前では限りなく可愛らしい、愛嬌の塊のような女性なので、君の愛しのなんちゃらを妬む要素はひとつもないんだが?」
急いでキッチンに引っ込もうとした私は、そこで珈琲を手渡すほど近い距離にいたことにより逃げそびれ、ロディに腰を抱かれて引き寄せられる羽目になった。両頬が信じられないほど熱い。
こんな状況で馬鹿みたいに顔を赤くしているのは更に恥ずかしいので、私は精一杯平常を取り繕った。が、ものの見事に失敗した。
「……せ、先生には、そのように見えているのかもしれませんが、欲深いメイベルは先生ひとりに愛される程度じゃ満足できないんですよ! キャロルのように大勢の人間に愛されたいと分不相応に望んでいるんです!」
「はあ、そうなのか?」
「えっ?」
「そうなのか?」
「え、っと」
「君はぼくに愛されるだけでは満足できないのか?」
何故ここで私に振るんですか、と叫べるものなら叫びたかった。
しかし、此方に視線を向けて尋ねるロディの瞳があまりにも真摯な光を宿しているものだから、私は情けないほどに赤い顔で狼狽えながら、必死に否定の言葉を探すことしかできなかった。
「そんな、そんなことありません……私……あなたに愛されるだけで、永遠の幸福を得られるくらいに満足だわ……」
あまりのことに何処か呆然としながら呟いてしまった私に、ロディは特に感情を揺らすでもなく、ごく当たり前のことだとでもいうように頷いてみせた。
彼が一切の動揺を見せないのは私がこの数年間で過剰な愛を向けすぎたからだと分かっているが、どこか謎の悔しさを覚える。
「こういう訳で、君の証拠もない妄言に付き合っている暇はない。証拠さえあれば幾らでも話に付き合おう、とりあえず帰ってくれないか」
「し、しかし、その、」
「あと人の妻を変な目で見るのはやめてくれないか」
「み、見てない! 見ているわけないだろ!」
「ついでに言えば君のその愛しのなんちゃらだが、恐らく呪いの元は君らの間で交わした魔法契約じゃないか? 君らみたいな交際関係にある男女はよく不貞の際に発動する類の品のない紋様付きの呪いを組み込んだ契約をするだろう、若気の至りで。どうでもいいことだが」
「僕はメイベルのことなんてなんとも────、えっ?」
何事かを必死に否定しようとしていたマールズは、不意に石化でもしたかのように固まると、呆けたようにロディを見上げ、やがてじわじわと青ざめ始めた。
「えっ……? いや……そんな……」
「ああ、失礼した。いくら君達が恋に浮かれていたとしても、あんな原始的な作りの契約を結ぶはずが無いな。生命に関わる呪いがいかに危険で取り返しがつかないかは、学園でも十二分に学んでいるだろうし」
「……それは……そ、その通りです、僕らはそんなことしていません、そんな、貴族として恥知らずな真似は……全く……」
「そうか、そうだろうな」
相も変わらず微塵もそうは思っていない口調だったが、今のマールズに気にする余裕はないようだった。
「ええと、でも、先生? あの、もし、もしですよ、その契約を結んでいたとしたら、……その、ど、どのように対処すればいいんですか? 是非聞きたいです、こ、後学のために」
「勉強熱心で何よりだ、マールズ・フィメルシア。ただ残念なことにぼくは魔法契約を専門とはしていないので君の知的好奇心を満足させる答えは返せない。まあ、少なくともぼくが君だったらウォンド先生の元に走るだろうな。今すぐに」
ロディが言い切るより早く、マールズは挨拶もそこそこに踵を返して走り去った。幸いなことに、ロディと私の家は学園の屋上にある。ロディは授業がない日なので休みだったが、ウォンド先生は講義があるので学園に居ることだろう。
「……キャロルが無事で済むといいですね」
「あまりそう思っているようには聞こえないな」
「先生ほどでは」
「メイベル」
気の合わない義妹だったが、命を落としてほしいとまで思ったことはない。ただ距離を取りたかっただけだ。そしてそれが叶っている今、過剰にキャロルの不幸を願うこともない。だって、私は今、これ以上ないほどに幸せなのだ。他人の不幸を願うことに割くような時間はない。
そんなことを考えながら受け答えをしていた私に、先生は何処か咎めるように呼びかけた。抱き寄せられたまま囁かれ、驚きと共に見上げてから数秒、ようやく気づく。
「ごめんなさい、マールズにつられてしまって」
「憎たらしい事実をわざわざ追加しないでくれ。事実だという点が更に憎たらしい」
眉を顰めたロディを前に申し訳なさが募っていく。朝から妙なことに巻き込んでしまった上に機嫌まで損ねてしまうなんて、妻としては失格だろう。更に謝罪を口にしようとして、一度考え直してから、私は此方を見つめるロディにそっと口付けた。
寝起きのせいか眼鏡をかけていないロディの瞳が僅かに見開く。彼の瞳は近くで見ると奥の方に青色の輝きを宿しているのだと、初めて知った。それはそうだ、だって、こんなにも近くで、きちんと見るのは今日が初めてなんだから。
「……あの、機嫌、直してくれたかしら」
躊躇いがちに唇を離した私に、ロディは緩く目を細めた。
「メイベル、ぼくは今日休みなんだが」
「…………ええと、その、ねえ、待って」
「実のところぼくは既に三ヶ月くらい『待っている』という話をするべきか? 君がこれ以上待たせたいというならぼくを待たせるだけの理由を述べてくれ」
反論はひとつも浮かんでこなかった。そんな素振り少しも見せなかったのに、だってまさか、彼がそうしたいと思ってくれるなんて、なんて浮ついた思考ばかりが脳内を占めていく。
結果、真っ赤な顔で頷くことしかできなかった私を、ロディは小さく鼻で笑ってから抱き抱えるようにして寝室に運んだのだった。




