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 どうやら婚約が破棄されるらしい。

 我が愛しの婚約者様は、相も変わらず天使の如き可憐な美貌を持つ我が義妹に夢中のようである。卒業パーティで大々的に宣言されてしまったので、覆した所で関係修復は不可能だと言えた。


 まさかそんな。

 そんなまさか。


 こんな幸運なことがあってよいものだろうか。

 小躍りしてしまいそうだ。


 これ幸い、とさっさと婚約を破棄して、その足で先生の所へと向かった。


「先生、婚約を破棄してきました。今度こそ私と結婚してくださいますね?」

「なんだと!? 公爵家との婚約だぞ、そんな簡単に破棄できるものか!」

「先程、卒業パーティにて衆人環視の中で宣言されましたので、すぐさま正式な手続きを踏んで参りました」

「行動が早すぎる。フィニットドラゴンか貴様」


 旧校舎の研究室。古びた屋上に居候している先生は、見慣れた不健康な痩躯を折り曲げて何かの苗を弄っていた。

 丸眼鏡の奥から覗く細い瞳は、明らかにある種の忌避を持って私を見つめている。全身で私を拒否しているのが伝わってきたが、それでも好きでたまらないのだから、恋とは厄介なものであった。


「私に婚約者がいるから結婚して下さらなかったのでしょう? いなくなりました。これで問題はありませんね?」

「大有りだ馬鹿者。ぼくは君のような何かに秀でた美女というものが苦手でならんのだ。婚約者の件は体良く断るための理由付けでしかない、分かったら今すぐ回れ右して此処から出ていけ」

「ならば私が醜女になれば娶ってくださるということですか?」


 先生がそれで私を好いてくれるというなら、こんな顔くらいどうとでも作り替えてしまって構わなかった。

 どんな方法を取ろうか、と思案を巡らせる私を、先生は何とも嫌そうな顔で見やった。ちょうど、大事な苗についた害虫を見る目と同じだった。


「先生は本当に私がお嫌いなのですね」

「女性は苦手だ、君に限ったことではない。何度もしている話だと思うが」

「私だけが嫌われていればいいのに、と思うと確かめたくなってしまうのです」

「好いた相手に好かれようとは思わないのか? 嫌われてでもいいから印象に残りたいと? 君のそれは単なる恋情の押し付けでしかない。全く、自己満足のためだけに恋愛をするのはさぞ楽しいだろうな。もはや羨ましくさえある」


 先生はどこか呆れた様子で口にすると、慈しむような手つきで苗を仕舞い、屋上の片隅に建てた研究室へと足を向けた。扉が締め切られることがないあたり、先生は優しい。

 後を追って中へと入ると、先生はやはり嫌そうな顔をしたけれど、それでも出て行け、とは言わなかった。椅子をすすめてくれることもなかったけれど、これはいつも通りだ。


 脚のぐらついた椅子に勝手に腰掛けて、細々と作業を続ける先生を見つめる。今日で卒業だから、こんな先生の姿を見るのも最後だ。

 公爵家との婚約が破棄された以上、私は何処か適当な、当家の利になる相手に嫁ぐことになるだろう。相手が誰かは知らないが、とにかく、都合のいい相手と婚約を結ぶことになる。先生ではなく。


 どうして先生と結婚できないのだろう。

 馬鹿な問いだ。先生は私のことが好きではないし、私と結婚する理由もないからだ。


 分かっていても尚、己に問いかけてしまう。


 どうして先生と結婚できないのだろう。


 義妹キャロルは好きな人と結婚できたのに。どうして私は。

 馬鹿な問いだ。どうしようもなく。馬鹿な、そして惨めな問いだった。


 身を屈めていた先生は、振り返ると同時になんとも面倒臭そうに片眉を上げてみせた。


「泣くな馬鹿者、此処には君に貸せるようなお綺麗なハンカチなどないぞ」

「そこのタオルでも構いませんが」

「あれは駄目だ。リュメルの廃棄液が染み込んでいる、肌が爛れるぞ」

「丁度いいですね」


 泣き笑いで手を伸ばした私に、先生は呆れたように溜息を落として、汚れたタオルの代わりに紅茶のカップを押し付けてきた。そのまま、狭い研究室の奥へと引っ込んでいき、四つ折りになった真新しいタオルを持って戻ってくる。


「300ガルズだ」

「可愛い生徒からお金を取るんですか」

「もう生徒じゃないからな」

「可愛い婚約者からお金を取るんですか」

「勝手に婚約するな」


 値上げするぞ、とぼやいた先生は、私が真新しいタオルを派手に濡らして、出ていった水分を補うように紅茶を飲み干したのを見て、小さく鼻を鳴らした。


「君でも泣くことがあるんだな」

「よく言われます。お前は血も涙もない女だと」

「そこまで言っとらん。ぼくが口にしてもいないことを勝手に補完するな」

「失礼しました」


 言われ慣れていたのでつい付け足してしまった私に、先生は何処か拗ねたように呟いた。


「婚約者にそんな暴言を吐く男なんて君の方こそ願い下げだろう。そんなことで泣くものじゃない。水分が勿体無いぞ」

「いえ、別に、マールズと別れたのが悲しかった訳では」

「なら何故泣く」

「どうして私は好きな人と結婚できないのだろう、と思いまして」


 先生は無言で私を見やったあと、逃げ場を探すように視線を部屋の角に向けた。そこにもう一つ出入り口が出来ないかと祈っているような視線だった。


「常々思っていたが、君は相当趣味が悪いな」

「自覚はあります」

「そうか、それは何よりだ。無いよりマシだからな」


 諦念を含んだ声で呟いた先生は、そこからしばらく黙り、細く長い息を吐き出すと、視線を部屋の角にやったまま口を開いた。


「繰り返し言うが、ぼくは別に君が好きではない」

「ええ、知っています」

「だが別に嫌いでもない」

「それは知りませんでした」


 本当に。知らなかった。先生は優しいから私のような厄介な生徒に付き纏われても拒絶しきれないだけだと思っていたのだが。


「勘違いするなよ、別に好きではない。嫌いじゃないだけだ。ついでに言えば苦手であることに変わりはない」


 専用の椅子に腰掛けた先生は雑な仕草で頬杖をつくと、何かを誤魔化すように無精髭を掻いた。


「取らなくてもいい講義に熱心に参加したのも、頼んでもいないのに分厚いレポートを出してきたのも、人造ドラゴンの研究に大真面目に付き合ってくれたのも、面倒臭い庭園の管理を手伝ってくれたのも君だけだ。

 君は、まあ、良い生徒だったと思う。そしてぼくは、そんな良い生徒が公衆の面前で侮辱されるなんてことはあってはならんとも思っている。許し難いとも思う」


 何処か居心地悪そうに言葉を切った先生は、歯切れ悪く続けた。


「ぼくと結婚することが君の慰めになるというなら、そういった契約を結ぶのは構わない、とも思っている。君はもう、生徒ではないのだし」

「………………つまり、結婚してくださると?」

「愛はないが、それでもよければ」

「全然。全く。ちっとも。構いません」

「そ、そうか」


 思わず詰め寄るように身を寄せて断言してしまった私に、先生はあからさまに引いた様子で仰け反った。

 今にも発言を撤回しそうな顔をしていたけれど、それでも、私が嬉し涙にタオルを濡らし始めたのを見ると、全てを受け入れたように言葉を飲み込んで下さった。


 かくして、私と先生の新婚生活は始まりを迎えた訳である。






「────先生、今日はイチニア草の水やりからで構いませんか?」

「構わんが、先生というのはやめろ。ぼくはもう君の先生ではない」

「そうでした。では旦那様、イチニア草の水やりに行って参ります」

「………………噛まれないように気を付けろよ」

「はい!」


 公爵家子息マールズ・フィメルシアとの婚約破棄後、私の婚約者は早急に先生へと変わった。思わず拍子抜けするほど、あっさりと。


 それが先生と、先生が懇意にしている辺境伯の根回しによるものだと知ったのは、結婚生活を開始してから一月が経った頃だ。


 学園では偏屈な変人としての面しか目立っていない先生だが、一応は大陸でも有名な魔法植物研究の第一人者なのである。

 本職をほっぽり出してドラゴンの研究ばかりしているから学会でも干されかけたりしているらしいが、それでも先生を支援したい、という人間は案外多い。


 でもまさか、先生が後ろ盾の貴族に頼ってまで私との婚約を結んでくれるとは思わなかった。

 そう出来るだけの力があることは知っていたけれど、それでもまさか、ただの慰めではなく、本当に私と結婚してくれるだなんて、考えていなかったのだ。

 あの場で慰めてもらえたという事実だけでも、私にとっては一生の宝物にできるくらいだったのに。


 イチニア草の牙の生えた葉に水をやりながら、知らず微笑んでしまう口元を片手で押さえる。

 毎日が幸せでどうにかなってしまいそうだった。


 出来ればこの幸福が永遠に続きますように。

 もちろん、先生が嫌になってしまったらいつだってこの屋上を出ていくつもりだけれど。

 屋上。そう、屋上である。


 一応は『新婚夫婦』ということで私と衣食住を共にするとなった時、先生は長年住処にしていた屋上を改築した。

 居住地として使っているとはいえ、学園の屋上以外に選択肢はなかったのか?と呆れた顔で問う学園長に、先生はしれっとした顔で「彼処をぼくの好きにしていい、といったのは貴方だったと記憶しているが?」とだけ返していた。


 一応、私にも「本当にあそこで良いのかい」と確認がきたけれど、私は先生と暮らせるのなら何処だって構わなかったので笑顔で頷いておいた。

 お熱いことだね……と呆れた声で言われたような気がするが、その時の私は先生と共に暮らせる喜びで八割方聞き流していたと思う。いつものことなので失礼を咎められることはなかったが、あまり誉められた態度ではなかったので、後日お詫びとお礼の品を送った。


 学園長は、私が先生に盲目的なまでの恋をしているとご存知である。

 逆に言えば、学園長以外に私の恋心を知るものはいない。もちろん、私に熱烈なアプローチをされている先生本人を除いて、の話だが。



 私が先生に恋をしたのは、九歳の夏。魔法学園に入学する半年も前のことだ。ちょうど、実母が事故で亡くなり、父の愛人だった女性が後妻となった時だったと記憶している。

 私の両親は元々折り合いが悪く、父が母を愛してなどいないことは知っていたが、それでも喪が明けてすぐに籍を入れた時には愕然としたものだった。


 新しい家族での生活は、お世辞にも上手くいっているとは言えなかった。

 父は母譲りの容姿をした私を明らかに疎んでいたし、義妹となったキャロルは最初こそ『お姉さまとも仲良くしたいわ』と言っていたが、私が父に避けられていることを悟ると、すぐに父に倣って私を軽んじるようになった。


 義母は生活の保証さえされていれば構わないらしく、自分の娘が父に気に入られるように振る舞うばかりで私のことなど気にも留めない。下手に虐められるよりは良かったかもしれないが、少なくとも家の中に私の味方と呼べる人はひとりもいなかった。


 その事実に泣いたり喚いたりしなくても済む程度には母からの教育は済んでいた。もしかしたら父は、そういうところも気に食わなかったのかもしれないが、当時の私にできるのは何もかもを飲み込んで、平静を装って淑女らしく振る舞うことだけだった。


 ────そんなある日、先生は我が家の裏庭に降ってきた。上空から、謎の生き物に乗って。

 先生は意地でもあの時のことを『失敗』だとは認めないが、五年ほどかけて創り上げたらしい人造ドラゴン試作三号は、間違いなく融解しながら裏庭に墜落した。


 気づいたのは私だけだった。その時父たちは観劇に出かけていたし、私の部屋として与えられていた離れには使用人はほとんど近付いていなかったから。

 退屈と孤独を誤魔化すように、ひたすら本へと没頭していた私は、魔法で弱められていたとはいえなかなかに大きく響いた衝撃音に顔を上げ、窓際へと駆け寄り、そして、どろどろに溶けたなんらかの物体の中央で膝をついて頭を抱える細身の男性を見つけた。


 当時十八歳だった先生は、今よりも線が細くて、眼鏡はかけていなくて、ぼさぼさに伸ばした髪を無理やりひとつに束ねていて、そして、今と同じく人造ドラゴンに夢中だった。


「何故だ? 何故失敗した? 理論は完璧だった筈だ、古代魔法の詠唱も申し分なかった、何が足りない? 畜生、いつになったらぼくが考えた最強のドラゴンが生まれるんだ……!?」


 先生は、今も昔も、あまり常識といったものに頓着しない。人の家の裏庭に突っ込んでおいて、心配するのが自分の研究結果だけなのがその良い例だろう。


 のちの先生から言わせると、『あの裏庭にあたる場所は利便性も皆無で長年君の家が使っているからなんとなく君の家の敷地と見做されているだけで、厳密に言えば書類上は私有地ではないし、ぼくはぎりぎりまでそこを見極めてから降りた』ということらしいが。まあ、それは置いておくとして。


 先生は姿形を無くしていくドラゴンの残骸をなんとか小瓶に収めると、別の小瓶から取り出したなんらかの植物に庭に散らばった残りを消化させ、それから、開け放った窓からぽかんとした顔で覗いている私に気づいて、片眉をくいと上げた。


「どうした、小娘。見せ物じゃないぞ」

「…………」

「心配はいらん、此処は綺麗に片付けておく。いいから君はさっさと窓を閉めておやつでも食って寝ろ」


 知らない人と不用意に話してはいけません、と母には教わっていた。

 だから何故、その時の私が先生に話しかけたのかは分からないけれど、それでも、とにかく、私は言葉通りに場を綺麗に片付けて去ろうとする彼の背に呼びかけていた。


「あの……!」

「なんだ。言っておくがぼくは何も破壊していない、正確に言えば破壊した痕跡は残していないだけだが、そういう訳で親に言い付けても無駄だ。諦めることだな」

「あなた、誰なんですか? 天使様?」

「はあ?」


 さっさと立ち去ろうとしていた先生は、私の投げかけた言葉に不審そうな表情を浮かべて振り返った。


「あの、だって……空から落ちてきたから……」

「降りたんだ、落ちてない」

「じゃあ、やっぱり天使様なんですか?」

「なんでそうなる。君は双生記録の天使の絵画を見たことがないのか? あいつらみんな顔が二つあるだろう、ぼくの顔はどう見てもひとつだ」

「あれはミュビュタス様です。端に飛んでいる天使様は、お顔がひとつですよ」

「…………………………」


 母が生きていた頃はよく教会へ行っていた。世界の成り立ちを伝える神話だが、案外興味のない人は覚えていなかったりする。先生はどう見ても興味がなく、覚えていない側の人だった。

 先生はどこかバツの悪そうな顔で目を逸らすと、眉根を寄せたまま窓際に寄ってきた。


「ぼくは人間だ。飛んでいたあれはぼくが造ったドラゴン、他に質問は?」

「どうして此処に落ちてきたんですか?」

「降りたんだ、何度も言わせるな」

「じゃあ、どうして此処に降りてきたんですか? うちに用事ですか?」

「…………まあな」


 先生はもう既に『こいつかなり面倒臭いな』という顔をしていたように思う。

 確かに面倒臭かっただろう。先生はどう見ても子供の相手が得意なようには見えなかったし、その時の私は人付き合いに飢えた厄介な子供だったから。


「もしかして、私を助けに来てくれたんですか?」

「質問の意味が分からないな。どうしてぼくが君を助ける必要がある?」

「私が毎日一生懸命お祈りしてたから、お母様が天から遣わしてくださったのかと」


 そうだったら良いのに、と思っていたことをそのまま口にしていた私に、先生は少しばかり沈黙して、私の姿と屋敷を一瞥したのち、ゆっくりと口を開いた。


「君は助けられなければならないような状況にあるのか? 見たところ食事も与えられているようだし、暴力を振るわれている様子もない。身体的健康を維持するための義務は果たされているように見えるが」

「……でも、お父様も奥方様も妹も、私が嫌いなんです。ずっと顔を合わせてもいないし、今日も、私を置いて観劇に出かけてしまって……辛いです」

「ふうん。ぼくだったら嬉しいがね、自分を嫌いな奴に義理で付き合わされることほど最悪なことはない。つまらん家族ごっこに付き合わされるなんてこっちから願い下げだ」


 あっさりと言い放った先生の言葉を、私は三十秒近くかけて飲み込んだ。

 先生の言葉には慰めも同情もなく、それでいて私の悩みをまるで大したものではないと一蹴するその言葉に、なぜか私は胸の内が軽くなるのを感じたのだ。


 多分、あの時の私は『可哀想』だとは思われたくなかったのだ。だから誰にも相談しようと思わなかった。そして、おそらく対面した先生から、彼は同情を向けるような人間ではないと無意識に感じ取ったからこそ、つい悩みを打ち明けるような真似をしたのだろう。


「それとも、君は自分を嫌いな奴に丸一日つまらん劇の見物に付き合わされるのがお望みなのか? 結構な趣味だな。ぼくとは感性が合わないが、理解はできる。そういう馬鹿げた協調が大好きな人間は何処にでもいるものだ」

「……いえ、その……私、……そんなに羨ましく、ないです。一緒に行こう、って言われたら、多分、嫌です」

「そうか。ならば君は『嫌』なことをされていないのだから辛く思う必要もない訳だが? どころか、喜ぶべきだ。鬱陶しい邪魔者がわざわざ君と距離を取ってくれるのだから」

「…………そうですね」


 滔々と語る先生の言葉を聞きながら、私は知らず微笑んでいた。私は先生のようにきっぱりと割り切ることは出来ないし、邪険にされればどうしても寂しくはなるけれど、それでも、先生の価値観は私の傷を慰めてくれるものだった。

 何処かさっぱりとした私の表情に気づいたのか、先生は帰り道を確かめるように裏庭の向こうに目をやると、最後にひとつだけ付け加えていった。


「加えて言うなら、君はぼくがわざわざ助けなくとも、自分の力でなんとでも出来るだろう。いずれ君の知性と能力を必要とする人間が必ず現れる」

「……どうしてそう思うんですか? やっぱり、天使様だから未来が分かるんですか?」


 思わず尋ねた私に先生は呆れた顔を隠すこともなく、ぶっきら棒に告げた。


「君が手にしているその本は、本来我が校の三年生で使用する魔法技術論の指定図書だ。それだけで君の優秀さはそれなりに察せる。

 まあ、君がその本をただ文字をなぞるだけの遊びに使ってるなら話は別だが」


 先生が指差した先には、窓辺に駆け寄った私が抱えたままにしていた本が在った。腕の中の本を見下ろし、何度も読み返したそれの表紙をなぞる。これが教科書に指定されている本だとは知らなかった。私の手元には、まだ一年生時に必要な教科書のリストしか無い。

 三年生で使う教科書。私がひとり学んでいたことは、どうやら将来役に立つらしい。今が辛いばかりで将来のことなんて少しも考えていなかったけれど、そう思うと、何か希望が見えてくる気がした。


「他に質問は無いな。あっても帰るぞ、ぼくは忙しいんだ」

「あの、先生は何の教科を教えているんですか?」

「何を勘違いしているのか知らないが、ぼくはまだ学園を卒業していないし、先生でもない」


 当時の先生は卒業後に教師となる道を全力で拒否していたのだが、その時の私は当然、そんな事情は微塵も知らなかった。ちなみに、私が入学する頃には先生は卒業前に既に『先生』になっていたので、半年の間に学園長に丸め込まれたようだった。


「じゃあ、もう会えないんですか?」

「は? 会いたいのか? わざわざぼくに?」

「はい。もっとお話ししたいです」

「…………『もっと話したい』などと言えるような『おはなし』はしていなかった気がするがな」


 呆れ気味に呟いた先生は、それでも真剣な顔で見つめる私の視線を受けて、懐から取り出した紙の切れ端に氏名を書いて私へと寄越した。学園に入学した後ならば、卒業生相手でも取り次いでもらうことが出来るから、と。

 『ロディン・アルフスタイン』と角ばった字で投げやりに綴られたその紙は、いまだに私の宝物箱に仕舞い込まれている。




 そこから半年、私は離れの書庫を読み尽くす勢いで一人の時間を満喫した。義妹も父も相変わらず私を蔑ろにしたが、『先生』に会うことを夢見る私にはもはやどうでもいいことだった。入学さえすれば、同じ学園の人間ということで彼と接点ができるのだ。

 もっと話がしたい。初めはただ、異なった価値観を見せてくれた人への憧憬に近かった感情は、入学までに再会を願う想いによって熱を得て、気がつけば恋の様なものに育っていた。


 庭に落ちてきただけの見知らぬ男に恋をするなんておかしいだろう。冷静な部分の私は確かにそう言っていたし、今でもたまにそう思うことはある。

 けれど、入学後、教員紹介で壇上に上がった先生が、百余名居る新入生の中から私を見つけて少し呆れた顔で唇を笑みの形に歪めたのを見た時、『冷静な私』は跡形もなく消し飛んでしまった。


 先生の目に映りたい、と思った。この一瞬だけではなく、これから先もずっと。

 私という人間がどんな性格でどんな生き方をしていて、どんな価値観を持っているのか、先生には知ってもらいたい、と思った。そして、私も先生という人を知りたい、と。


 先生の講義は必須科目ではなかったので、私は迷いなく選択科目で先生の授業を取った。わざわざ勉強の時間を増やしたい者は少なく、学園全体で四分の一ほどが選択したそうだが、大抵三回も授業をすれば嫌になって取り消す人が大半だった。


 先生の講義は確かに面白いが、受講者の年齢に合わせたものではないのが問題点だった。先生の対応学年は一・二学年と五・六学年だったが、年齢に関わらず講義内容を変えることはほとんどなく理解できないものは容赦なく篩い落としていく。

 恐らく、学園長が先生を教師として雇ったのが、『ロディン・アルフスタインを野放しにするのは如何なものか』という学会からの要望故だったのが、このめちゃくちゃな授業形態の一因でもあっただろう。

 私としては先生の授業が受けられるので非常に嬉しかったが、多分、ほとんどの人は先生のことを偏屈で変人な碌でなし教師だと思っていたに違いない。実際、その通りなので仕方ない。

 それでも変わらず先生のことが好きだったので、私は意地でも先生の授業を取り続けた。


 そういう訳で、私が三年生に上がる頃には先生の授業はカリキュラムには存在しているのにも関わらず殆ど受講するものがいないと噂になっていた。

 対面形式の講義に至っては私以外誰もいない状態である。他の人たちは『まだ書面上の付き合いならマシ。授業は面白いし』と判断したようだ。たぶん、先生もその方が有難かっただろう。

 私は授業前には予習と称して先生に質問しに行き、授業後には前回の授業についての愛を込めた感想をレポートとして提出した訳だけれど。


 生来人付き合いが嫌いな先生はどうにも辟易している様子だったが、私が人造ドラゴンの研究に興味を示すと、ようやく私を自身のテリトリーに入れることを許してくれるようになった。



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