第51話 青春
澪の前に整列させられた俺達は、息を整える暇もないまま説明を受ける。
「はーい、まずはウォーミングアップで……全力ダッシュ百本ね」
ウォーミングアップの範囲について抗議できる者はいなかった。
全員の顔が同時に引きつっていたのが面白いくらいだ。
「じゃ、一本目……スタート!」
澪の掛け声と同時に走る。
地面を蹴り、風を切り、折り返し、戻る。
息が乱れる前に二本目が始まる。
三本、四本、五本。
影野が眉間に皺を寄せながら口を開く。
「ねぇ……これほんとに百本なの?」
「当たり前でしょ」
「鬼すぎる」と影野がボソッと返した。
「何とでも言いなさい」と澪が満面の笑みで返す。
二十本を超えたあたりで、誰も喋らなくなった。
三十本を超える頃には、考えることすら放棄していた。
足だけが勝手に前へ行く。
体は悲鳴を上げているのに、止まればもっと怒られると知っているから止まれない。
五十本目。
折り返し地点で姫華が膝に手をつきながら呟いた。
「……これが、ウォーミングアップ?」
「うん、そう」
澪は爽やかに答え、ストップウォッチを押した。
砂を蹴り、折り返し、戻り、息を吸っているのか吐いているのかもよくわからない。
六十本目。
千景は髪を結び直しながら呼吸を荒げる。
「……まだ……四十本も……あるとか……正気じゃない……」
七十本目。
影野、既に無言。
腕で汗をぬぐう動作だけが機械のように繰り返される。
七十五本目あたりで桜庭が前を走る陽翔の背中を見ながら呟いた。
「陽翔く〜ん……おんぶして〜」
「……」
「あ〜ん、無視された〜」
無視した。
普段であれば魅力的な提案すぎるが、そんな余裕もないくらいに今はキツい。
八十本目。
姫華の足取りが明らかに鈍る。
視界の端で灰音の呼吸が音を立てる。
「流石に…キツいわね」
「……あと少しがんばろ……!」
意外にもスタミナは灰音の方が上らしい。
姫華を気にしながら灰音は走っている。
八十五本目。
砂が散り、足音だけが鳴る。
誰も声を出さない。余裕がないからだ。
九十本目。
折り返した瞬間、澪が笑顔で手を振った。
「あと十本!ラストスパート!」
その声で全員の顔が死ぬが、足を止めるものはいなかった。
九十五本目。
誰が先に止まっても文句は言えなかった。
九十八本目。
影野が息を漏らす。
「………後……少し……!」
九十九本目。
陽翔の肺が焼けるように痛む。
腿はもう悲鳴ではなく無表情な痛みに変わっていた。
そして百本目。
最後の折り返しを走り、戻り、線を踏んだ瞬間、
全員が同時に崩れ落ちた。
砂の上に倒れ込む者、座り込む者、ひたすら呼吸だけに集中する者。
灰音は仰向けに倒れたまま、無表情で天井を見ていた。
姫華は腕で顔を覆いながら呻く。
「……これで……ウォーミングアップ……終わり?」
澪はにこにことストップウォッチを止めた。
「うん。終わり」
終わった瞬間、
その一言を聞いて数名が漏れなく安堵の呼吸を吐いた。
しかし澪は続けた。
「じゃ、次は本編いくね」
砂の上にいた全員の体が一度ピクリと動いた。
どうやら地獄はまだ入口だったらしい。
澪は特に休憩を指示することもなく、ストップウォッチを片手にニコニコしている。
嫌な予感しかしない。
「はーい、じゃ次、筋トレ行こっか」
「ちょっと休憩は……!」
「そーだ、そーだ!」
影野と桜庭が抗議し始める。
「今、やんないとダメなの。諦めなさい」
全員の肩が同時に落ちた。
「やるメニューは簡単。腕立て、腹筋、スクワット。各百回ずつ」
「簡単って…何?」
姫華が低い声でツッコんだが、澪は聞かなかったことにした。
「はい、腕立てスタート」
腕を地面に構えた瞬間、千景が小声で呟いた。
「……殺す気?」
「生きてほしいからよ?」と澪が優しく言う。
優しさの形状がまるで違う。
十回、二十回、三十回。
桜庭は途中で無言になり、顔だけで苦しさを訴えていた。
五十回を超える頃、千景が声を漏らす。
「腕……ちぎれる……」
「大丈夫ちぎれないから」
「根拠は……?」
「経験」
説得力はあるようで無い。
八十回、九十回、百回。
床にぶっ倒れて荒く息を吐いたところで、澪の手拍子が響いた。
「次ー腹筋!」
「まじで死ぬ…!」
陽翔が素で漏らした言葉に、澪は爽やかに返す。
「まだ地獄の入口だよ?」
全員が一瞬だけ空を見た。
腹筋は喋る余裕がほとんど無いまま百回通過した。
最後のスクワット。
膝が笑いながら進む。
七十回目で姫華が限界に近い声で唸る。
「……もう……やめたい……」
「やめたらもっと増やすわよ?」
澪の笑顔はとても教育的で、そしてとても非情だった。
百回を終えた瞬間、全員が同時に崩れ落ちた。
床に大の字で倒れながら灰音が呟く。
「……これで……休憩…………」
「そう。やっと準備終わり」
澪がストップウォッチを確認したその時だった。
ピピッと短い電子音が部屋に響く。
「……あ、時間だ」
澪はあっさり言った。
床に倒れていた桜庭が顔だけ上げる。
「……助かった〜……?」
「本当はここからが本番だったのに」
陽翔は荒い呼吸のまま起き上がる。
「……後半って何やる予定だったんですか……?」
澪はにっこり笑って答えた。
「それはまた今度のお楽しみ」
影野が乾いた声を漏らす。
「全然楽しみじゃないんだけど……」
澪はストップウォッチを首にかけながら立ち上がった。
「まぁ今日はここまで。これ、ちゃんと毎日やるからね。タイムも縮めていくよ」
姫華が信じられないものを見る目で言った。
「……毎日……」
「うん。毎日。慣れたら案外楽よ?」
その楽の基準は、きっと人間とは違う。
全員が立ち上がるまで三分かかった。
そしてようやく雨夜が場を締めた。
「以上で午前の訓練は終了。
これから昼食だから食堂に移動するよ」
正直、食欲は微塵も湧いていないのだが、
皆、雨夜に着いていくのであった。
────────────
食堂には味噌汁と炒め物の匂いが薄く残っていた。
それだけなのに、全員の胃袋がそれを“救い”として認識していた。
トレーの上には、タンパク質重視の定食。
鶏胸、根菜、白米、スープ。
見た目は質素なのに、今はご馳走だ。
座席は自然と縦一列ではなく“半円の輪”みたいに収まった。
会話しやすい、というより動きたくないからだ。
「では、いただきます」
「「「いただきます」」」
雨夜の号令と共に続き、食事をとる。
箸が食器に触れる音と、呼吸だけがしばらく続く。
陽翔は味噌汁を啜りながら気付く。
静かだ。
“疲れてるから”だけではない。
疲労で余計な言葉が全部削られている静けさだった。
影野が先に口を動かした。額の汗をタオルで抑えながら。
「……午後さ。もっと動く系だと思う?」
姫華はご飯を半分飲み込んでから答えた。
「動かないわけがないわ」
淡々として、そして絶望的な答え。
桜庭はストロー付きのパックを吸いながら肩で笑った。
「……あの人、優しい顔してるのになぁ」
千景が眉を寄せる。
「見た目は……ね」
少しの間だけ笑いが生まれた。
その笑いは少しこの空間に和やかな空気をもたらした。
その間、灰音は黙ってスープを口に運んでいた。
姿勢は綺麗で、動きは小さく、呼吸は浅い。
陽翔は隣の空皿に視線を戻し、質問する。
「灰音さんって、武器使わないんですか?」
灰音は一拍遅れて顔を上げた。
目線だけが陽翔に向く。
「……武器は私の魔法と相性良くないから……」
「へぇ……魔法って、どんな感じの……?」
灰音はスプーンを置き、手で空中をなぞる。
「文字通り……“壊す”魔法。防御か攻撃かっていうと……攻撃寄り」
姫華が灰音との戦闘を思い出しながら補足する。
「防御もできなくはないけど、向いてないわよね。
性質が“侵食型”だから」
影野が眉をひそめる。
「侵食とか言い方怖いんだけど」
桜庭が軽くフォークで空を指す形で説明を継ぐ。
「でも強力な魔法だからこそ、扱いが難しいんだよね〜。
私もそのタイプだからさぁ〜」
陽翔は納得しながらも、少しだけ違和感を覚えた。
灰音本人の口からは“一切、強さの方向の説明が出ない”。
代わりに灰音は小さく付け足す。
「……私の実力じゃ、上手く扱えない。
属性付与して何とかって感じ……」
姫華は珍しく何も言い返さなかった。
その沈黙が“事実”的な強度を持っていた。
陽翔は少し笑って、空皿を持ち直す。
「午前の体術、普通に強かったですよ。動き無駄なかったし」
灰音は目だけ瞬いて、息の温度が一瞬だけ変わる。
「……嬉しい」
声の小ささに対して、反応の熱量は明らかだった。
陽翔は頷く。
「結局あの後も雨夜さんに怒られましたし……」
千景が水を飲みながら同意した。
「それは分かる。
陽翔って見た目よりガチャガチャ動くもの」
「ガチャガチャって……」
「事実だからね」
姫華が食器を置いて言う。
「灰音は基礎はできてると思う。
でも“強み”がまだ使えないってだけ」
影野が頷く。
「まぁ魔法と戦闘スタイルのすり合わせって時間いるし……」
桜庭が遮るように笑った。
「私の斧使ってみるー?」
影野は肩をすくめる。
「あんなデカいの無理でしょ」
そこでようやく少し空気が柔らかくなる。
桜庭が改めて周囲を眺めるように言う。
「なんかさー」
全員がそちらを見る。
「……こういうの、学校っぽくない?」
姫華は白米を口に運びながら呟く。
「学校なんて比じゃないくらいキツいけどね」
「なんか懐かしい感じするんだよね〜。
青春?みたいな」
千景は首を傾げる。
「青春って……もっと甘いもんなんじゃないの?」
影野が笑う。
「千景は意外と甘い青春がお好きなのかなー?」
「そーゆー訳じゃないわよ!」
その言い方に灰音が微かに吹いた。
笑った、ではなく、“吹いた”。
陽翔はその瞬間に気付く。
灰音さん、笑うと可愛いな。
その認識は本人には言わず、飲み込む。
食器が揃って片付き始めた頃、雨夜の声が通路から響く。
「午後の訓練始めます。移動をお願いします」
全員が同じタイミングで息を吐いた。
青春は一旦終了した。
そして地獄の続きは、午後から始まるらしい。




