14話 不死身の澪
霧の中から、狂歌の気配が鋭く跳ねる。
次の瞬間、血の刃が一直線に走った。
──ズン、と鈍い感触。
澪の腕が、肩口から断ち切られる。
血が霧の中に散り、地面に落ちた腕が転がった。
「……あはっ」
狂歌の口元が歪む。
勝利を確信したように、心底楽しそうな声が弾んだ。
「やったぁ……♪
ねぇねぇ、今の、痛かったでしょ? もう立てないよねぇ?」
だが──
霧の奥で、影が動く。
澪は、倒れなかった。
膝をつきながらも、ゆっくりと立ち上がる。
切断面が蠢き、赤く光る魔力が集中する。
無言のまま、澪は歩き出した。
一直線に、狂歌へ向かって。
「……え?」
狂歌の笑みが、わずかに引きつる。
「なぁに……?
もしかして、もう一本もくれるのぉ? きゃはっ!」
澪は足を止めない。
「えぇ、くれてやるわ」
低く、腹の底から響く声。
「──どぎついのをね」
狂歌は笑顔で残った腕を振り抜く。
血の刃が走り、澪のもう一方の腕を斬り飛ばした。
だが。
次の瞬間、狂歌の目が見開かれる。
斬ったはずの腕が、もうそこにあった。
完全に、元通りに。
「……は?」
澪は一歩踏み込み、拳を握る。
魔力が収束し、腕全体を覆うように膨れ上がる。
「歯ぁ……食いしばれや」
「えっ、なんで!? 切ったの──」
最後まで言葉は続かなかった。
澪の拳が、狂歌の視界を埋め尽くす。
──強烈な一撃。
空気が爆ぜ、霧が吹き飛び、
狂歌の身体は路地の壁へと叩きつけられた。
壁に叩きつけられ、狂歌の身体がずり落ちる。
衝撃で息が詰まり、喉から引きつった音が漏れた。
「……っ、は……?」
視界が揺れる。
さっきまで自分が見下ろしていたはずの相手が、目の前に立っている。
霧はまだ残っている。
血界殲滅は解除されていない。
──それなのに。
澪は、霧の中を平然と歩いていた。
切り刻まれているはずの身体。
血が噴き出し、肉が裂けているはずなのに、次の瞬間には塞がっている。
「……ちょ、ちょっと待ってよぉ……」
狂歌の声が、初めて上ずる。
「おかしいでしょ……?
それ、痛いはずだよねぇ?
怖くなるとこだよねぇ……?
なんで死なないのぉ……?」
澪は答えない。
ただ、静かに距離を詰める。
一歩。
また一歩。
狂歌は、後ずさる。
「あ、あは……はは……」
乾いた笑い。
無理やり作った、いつもの調子。
「だ、だってさぁ……
そんなの、反則じゃん……」
視線が、澪の腕に吸い寄せられる。
さっき切り落としたはずの腕。
完全に再生し、力を込めるたびに魔力が脈打っている。
──斬っても、意味がない。
──血を流させても、止まらない。
その理解が、狂歌の中で形になる。
「……あ」
喉が鳴る。
「……もしかして、お姉さん……」
言葉が続かない。
初めて、自分より狂ってるものを前にしている。
澪が、淡々と告げる。
「さっき言ったでしょ」
霧の中で、その声だけがはっきりと響く。
「私は斬られるくらいじゃ、引かない」
狂歌の指先が、わずかに震えた。
「……や、やだなぁ……」
後退る足が、壁に当たる。
逃げ場がないことに、ようやく気づく。
「ね、ねぇ……
ちょっと待とう?
さっきのは冗談で──」
澪は拳を構え直す。
目に見えるほど、魔力が集束する。
その瞬間。
狂歌の胸に、はっきりとした恐怖が落ちた。
──こいつはイカれてる。
初めて、心からそう思った。
狂歌は後ずさりながら、ふと自分の足元を見る。
――あれ?
赤紫の鎖。
あれほどはっきりと存在していたはずの血縛の鎖が、いつの間にか色を失い、輪郭が揺らいでいる。
「……っ」
鎖が、軋む。
引き千切られるような音でも、解かれる感覚でもない。
ただ、保てなくなっている。
澪が、何も言わずに近づいてくる。
その一歩ごとに、鎖は細く、脆くなっていく。
「ち、ちょっと……待って……」
狂歌は剣を握り直そうとするが、指先が震えて力が入らない。
赤紫の鎖が、ぱきり、と音を立てて砕けた。
血が霧のように散り、地面に落ちる前に霧散する。
「……あ」
理解する。
――拘束が、解けたんじゃない。
――自分が維持できなくなっただけだ。
血縛の鎖は、狂歌の支配の象徴だった。
それが壊れたという事実が、何よりも雄弁に現状を語っている。
「……やだ……」
声が、喉から零れる。
「ぼく……死にたくない……」
その瞬間、狂歌は血界殲滅を乱暴に拡散させた。
霧が路地を覆い、視界を強引に奪う。
逃げるためだけの展開。
もう、攻撃じゃない。
狂歌は振り返らずに走り出した。
生きるために。




