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セシルが校舎の裏で隠れるようにランチのサンドイッチを食べていると、どこからかピアノの音色が聞こえてきた。
近くの音楽室で誰かがピアノを弾いているのだろう。
セシルはその音色に聞き惚れた。
(なんて綺麗な音なんだろう)
何かを綺麗だと感じるのは久し振りのような気がした。
いつまででも聞いていられそうなその音色を今の自分ならどう評価するのだろう。
そうセシルが考えていると、甲高い女性徒の声が音色の邪魔をしてきた。
「流石アンリ様ですわ!今日の演奏もとても素敵!あの評論家気取りの批判家さんは心無いことを言ってましたけど、私はとても素敵だと思いますわ!」
この声はゾフィーのものだ。
ゾフィーの言葉でピアノを弾いていたのはアンリだと分かった。
そして、もしかしてゾフィーの言う評論家気取りの批判家とは自分のことだろうか、とセシルは推測した。
(評論家気取り!?何それ恥ずかしい!批判家は分かるけれど、評論家を気取った覚えなんてないないわ!)
セシルは自分のことを評論家気取りと表現されたことがとんでもなく恥ずかしかった。
評論家を気取れる程の賢さなどセシルにはない。
稚拙で単純な批判しかしてこなかったというのに。
ゾフィーはアンリの気を引く為に言ったのだろうが、その言葉はセシルの精神を攻撃した。
今までもゾフィーに対しては良い感情など懐いていなかったが、ますますゾフィーの事が嫌いになれそうだな、とセシルは思った。
悪点稼ぎをした中でもおそらくゾフィーに断トツで悪意をぶつけてきただろう。
ゾフィーはその見目の良さから令息達を自身の虜にしていっている気の多い娘だ。
低位の貴族の令息のほとんどがゾフィーの毒牙に掛かっていると思われる。
最近では第2王子と噂されていて、第2王子の婚約者のロゼッタの取り巻きとしてセシルは何度もゾフィーに忠告をしてきた。
ゾフィーと第2王子の仲はかなり進展していると噂されていて、ロゼッタと婚約を破棄してゾフィーを選ぶのではないかとまで言われている。
ロゼッタの取り巻きとしては許し難い話だった。
ゾフィーに関してはセシルは本気で悪点稼ぎをしてきた。
第2王子だけではなくエミールにも粉をかけてくるゾフィーはセシルの敵でしかない。
そして、このゾフィーは自分を良く見せることが上手い。
セシルや他のロゼッタの取り巻き達を上手く悪役にして、自分を悲劇のヒロインに見せて他の生徒の同情を買っていた。
セシルがここまで他の生徒に嫌われているのはゾフィーに謀られて悪役に仕立て上げられていたのもあるだろう。
(この女に利用されてたのに今まで気付いていなかったのよね)
強かなこの女はアンリにまで迫っているらしい。
(そもそも第2王子はどうしたのよ!?アンリ様にまで迫るなんてなんて卑しい女!)
そう思ってセシルははっとした。
今までのように誰かを罵倒した自分が心の中とはいえ嫌になる。
やはりそれまでの癖というのは直ぐには抜けないのだろう。
また息をするように出てくる毒がセシルを悪点稼ぎに向かわせる。
(口には出していないからセーフよね………?)
そう自分の心を誤魔化してはみても、あまり意味のないことのように感じた。
(あの女には関わってはダメだわ!今までのようにあの女を良く見せる為に利用なんてされてやるものか)
ゾフィーは自身を可哀想に見せて人の同情を誘うのがとても上手い。
ゾフィー可哀想劇場の悪役として、セシルは利用されてきたのだ。
(あの女はきっと悪役は私じゃなくても良かった。まんまと罠にはまってあの女の為の悪役にされてバカみたい)
ゾフィーの素行の悪さは悪点稼ぎをするには申し分なかった。
けれど、悪役は誰でも良かったはずだ。
ゾフィーに忠告という形をとった悪点稼ぎは何度となくしてきた。
ロゼッタの取り巻きとしての義務や正義感すらあった忠告は、ゾフィーにとってさも都合の良い悪役だったことだろう。
ゾフィーへの忠告により、セシルは生徒の大半に悪く見られているはずだ。ロゼッタの取り巻きはゾフィーを虐める酷い者達だと。
ゾフィーの素行の悪さは目に余るものがある。
その見目の良さを、存分に使って令息達を誑かしていたのだから。
だから誰かから忠告があるのは特別な事ではなかった。
ただ、悪役は誰でも良かったはずだ。
(放っておいても他の誰かが忠告していたはず。なんでわざわざ嫌われ役をやっていたのよ、私は)
それが親切故の忠告なのか、ゾフィーが気に入らない故の忠告になるのか、それともセシルのように八つ当たりによる忠告になろうが、忠告は忠告。
セシルがわざわざ嫌われ役を担わなくともきっと他の誰かがやっていた。
ゾフィーも他の誰かを悪役として起用していただろう。
自ら嫌われ役をやらなくて良かったのだという事実に気付いたセシルは更に精神的疲れを感じて午後の授業に出る気力を無くした。
午後の授業は基本的に選択制なのでそれ程重要なものではなく、授業をサボる者は多い。
既に卒業まで後2ヶ月とあり、成績があまり重要でない高位貴族を中心に授業に出ない者も多かった。
そもそも貴族の子供は我儘な者が多いので平気で授業をサボる者は多い。
卒業後の事を考えて下位の貴族達は比較的真面目に授業には出ているのだが、卒業も近い今は午後からは授業よりも茶会等を開いて人脈を優先する者も多かった。
取り巻きをしていたロゼッタが真面目に授業に出る方だった為、セシルも今までは真面目に授業に出ていたのだが。
(真面目に授業に出ていようがエミール様には悪点稼ぎをしていると悪口を言われるくらい嫌われてしまっているのならもう出なくても同じよね)
セシルはもう全てがどうでも良いような気がして、学園が終わる前に家に帰ることにした。
帰るのが早いと怒られそうだが、怒られようがどうでも良いような気持ちになっていた。