見えているもの
四月の終わりが近付いていた。
街路樹には少しずつ瑞々しい若葉が増え始め、
昼間には春らしい柔らかな風が吹くようになっていたが、
深夜の空気にはまだ冷えた湿気が頑固に残っている。
夜勤帰りの人間達は皆、
どこか擦り切れた顔をしながら駅前のコンクリートを歩いていた。
午前一時四十分。
コンビニの外では、遠くの高架線を走るトラックの地鳴りのような音が時折低く響き、
濡れた道路を撫でるタイヤの摩擦音だけが、静かな街へ細く尾を引くように伸びていた。
ユキはレジ横のコーヒーマシンを清掃しながら、小さく耳を揺らす。
今日は比較的、静かな夜だった。
酔客も少ないし、大声を出す学生の集団もいない。
その代わり、妙に「疲れた匂い」のする客が多かった。
深夜のコンビニには、その日の社会が排出した澱のような疲労がどっと流れ込んでくる。
終電を逃した会社員。
眠れない目をした若者。
夜職帰りの冷え切った女性。
家へ帰りたくない人間。
彼らは誰とも話さず、ただ灯台の光へ吸い寄せられるように入ってきて、
温かい飲み物だけを求めて去っていく。
ユキはそういう無数の隠された匂いを、毎晩嫌というほど嗅いでいた。
人間は言葉を隠せる。
表情も取り繕える。
けれど、身体が発してしまう微細な分泌物や匂いだけは、
絶対に誤魔化しきれない。
だからユキは時々、世界そのものが嫌になる。
見たくもない、他人の内面のドロドロしたものまで、勝手に鼻が拾ってしまうからだ。
自動ドアが開いた。
滑り込んでくる冷たい夜風。
同時に、人工的な少し甘い香料の匂いが流れ込んでくる。
ユキの耳がぴくりと動いた。
入ってきたのは、若い女性だった。
二十代前半くらい。
長い茶髪に、季節に合わない薄手のコート。
スマホの画面を凝視しながら歩いている。
一見すれば、どこにでもいる普通の客だった。
だが、彼女がレジの近くを通った瞬間、
ユキの尻尾が衣服の奥で小さく強張った。
(――酷い匂い。押し潰されそう)
極度のストレス。
慢性的で深刻な睡眠不足。
焦燥。
それらと混ざり合う、精神安定剤か何かの内服薬特有の、血肉に混ざったようなケミカルな匂い。
女性は飲料棚の前で迷うことなく、高濃度カフェインのエナジードリンクを二本掴んだ。
その指先が、寒さからではない微小な小刻みさで震えている。
ユキは視線を書類へ落とした。見過ぎるべきではない。
だが、感覚は彼女の呼吸から漏れる「息苦しさ」を勝手に吸い上げてしまう。
女性がレジへやってきた。
「……袋、大丈夫です」
声がひび割れるように掠れていた。
喉をかなり酷使しているか、あるいは直前まで声を殺して泣いていたような、そんな掠れ方。
ユキが無言でバーコードをスキャンしている最中、
女性のスマホ画面が一瞬だけ視野に入った。
大量の未読通知のバッジ。
SNSのダイレクトメッセージ。
何十件も溜まった着信履歴。
その画面を認識した瞬間、女性から発せられる匂いが、さらに濃く室内に拡散した。
恐怖。
焦り。
逃げ場のない閉塞感。
ユキは耐えかねて、小さく耳を頭に伏せた。
あまりにも苦しすぎる匂いだった。
女性は会計を終えると、すぐには店を出なかった。
入口近くのイートインスペースへ力なく腰掛け、エナジードリンクのプルタブをパキリと開けると、
まるで毒を煽るように一気に半分ほど飲み干した。
飲み方が、自暴自棄なほど乱暴だった。
完全に追い詰められている人間の挙動。
ユキはレジ越しに、アクリル板の向こうの彼女の姿をぼんやりと見つめる。
こういう人間を、ユキは夜勤の中で時々見かける。
ブレーキが壊れているのに、まだ加速しようとする人間。
休まなければいけないのに、立ち止まることが許されない人間。
人間社会には、そういう目に見えない残酷な同調圧力がある。
倒れて壊れるまで走り続けることだけが正義であるかのような、歪んだ空気。
その時、自動ドアが再び開いた。
入ってきたのは、四十代くらいの中年男性だった。
くたびれたスーツ姿。
だが、ユキの耳は、その男が足を踏み入れた瞬間の足音で総毛立った。
――怒っている。
それも、理性を失うほど強く。
男は周囲の棚には目もくれず、一直線にイートインスペースの女性の元へ向かった。
彼の接近に気付いた女性の身体が、ビクリと大きく震える。
「なんで電話出ないんだよ」
地を這うような、低い声。
それだけでイートインスペースの空気が一瞬で鉛のように重くなる。
女性は椅子の上の自分の膝を見つめたまま、消え入るような声で言った。
「……仕事中、だったから」
「は?」
男の声が、明確な怒気を含んで跳ね上がった。
周囲に他の客はいない。深夜の静まり返った店内へ、男の鋭利な怒鳴り声だけが放射状に広がっていく。
ユキの尻尾が、恐怖でぶわりと膨らみそうになった。
人間の怒声は、本当に苦手だった。
鼓膜へ直接針を突き立てられるように痛い。
神経の束をやすりで激しく擦られるみたいに、頭痛が誘発される。
男は拒絶するように固まっている女性の細い腕を、強引につかみ上げた。
「お前さぁ、最近ちょっと調子乗ってんじゃねぇの?」
女性は何も言わなかった。
悲鳴をあげることも、掴まれた腕を振り払おうと抵抗することもしない。
その諦めきった姿を見た瞬間、ユキの胸の奥が冷たく凍りついた。
(――慣れてるんだ、この人)
日常的に、こういう暴力的な扱いを受けることに、
麻痺してしまっている。
男は周囲への配慮など完全に忘れた様子で、
苛立ちを剥き出しにして続ける。
「既読無視すんなって何回言えば分かるわけ?」
ユキはレジカウンターの下で、
自分の制服の裾をぎゅっと握りしめて視線を落とした。
関わるべきではない。
プライベートな揉め事だ。
警察を呼ぶべきか。
いや、まだそこまでの暴行ではないかもしれない。
頭の中で理性がぐるぐると渦巻くが、それ以上に、男から放たれる支配欲の腐った臭いと、
女性の恐怖、萎縮、諦めの匂いが混ざり合って、吐き気がするほど濃く充満していた。
人間はどうして、お互いをこんな匂いになるまで壊し合えるのだろう。
男はさらに顔を近付け、声を荒げる。
「聞いてんのかよ、おい!」
女性の小さな肩が、果実のように小さく震えた。
ユキの耳が限界まで伏せられる。
駄目だ。
聞いているだけで胃の底がキリキリと痛む。
けれど、割って入る勇気は出なかった。
もし、獣人である自分が人間同士の揉め事に介入すれば、
どれだけ正当な理由があろうと空気が最悪な方向へ変わる。
『獣人が威嚇してきた』
『怖がらせられた』
『やはり亜人は凶暴で危険だ』
そんな風に、被害者と加算者がすり替わり、話の軸がズレていく光景を、
ユキはこれまでの人生で何度も目撃してきたのだ。
だから、足がすくんで動けない。
その時だった。
入口近くの雑誌棚の影にいた、一人の初老の女性客が、
小さく溜息を吐きながら凛とした声で言った。
「……お店の中ですよ」
決して大きな声ではなかった。
けれど、張り詰めていた空気がピタリと停止した。
男が、猛獣のような顔で振り返る。
初老の女性客は、男の凶暴な視線を浴びても、特に怯えた様子もなかった。
背筋を伸ばしたまま、静かに言葉を重ねる。
「みっともない。外でやりなさい」
男は顔を真っ赤にして何か言い返そうとしたが、
女性客の毅然とした態度と、コンビニの防犯カメラの存在を意識したのか、
チッと大きく舌打ちをして女性の腕を乱暴に放した。
「……チッ、行くぞ」
女性は、操り人形のようにゆっくりと立ち上がった。
その途中、彼女は一瞬だけ、レジ裏で硬直しているユキの方を見た。
助けを求めるわけでも、恨むわけでもない。
ただ、すべての感情を摩耗し尽くした、砂漠のような目だった。
二人はそのまま、自動ドアの向こうへと消えていった。
ドアが閉まる。
静寂。
店内には、彼女が置き去りにしたエナジードリンクの、
人工的で甘ったるい匂いだけが虚しく残されていた。
ユキはしばらく、指一本動かせなかった。
制服の内側で、尻尾が細かく震えている。
怖かった。
人間の剥き出しの怒鳴り声も。
凍りついた空気も。
そして、ただ怯えて何もできなかった自分の無力さも。
先ほどの初老の女性客が、冷たい緑茶のペットボトルを一本だけ持ってレジへ歩いてきた。
ユキは震える手を見られないようにしながら、機械的に会計を始める。
女性客は代金を取り出しながら、ふと、
ユキの帽子の隙間で小さく刻むように動いている白い耳を見つめ、ぽつりと言った。
「……見えてるんでしょう」
ユキのスキャンする手が、ぴたりと止まった。
女性客は、責めるような風でもなく、淡々とした、けれど温かい声で続ける。
「耳のいい子は、色々と疲れるわね」
その言葉に、ユキは弾かれたように目を瞬かせた。
女性から漂ってくる匂いは、驚くほど静かだった。
天日干しした柔軟剤の匂い、古い紙の本の匂い。
そして、どこか遠い記憶にあるような、生花の優しい薫り。
ユキは消え入るような声で、小さく漏らした。
「……見えすぎる時が、あります。匂いとか、音とか、全部」
女性客は、すべてを包み込むようにゆっくりと深く頷いた。
「優しい子ほど、余計なものまで拾って疲れてしまうのよ。自分を責めるんじゃないわよ」
その言葉が、硬く閉ざされていたユキの胸の奥へ、じんわりと染み込んでいく。
女性客は会計を済ませると、それ以上こちらの領域に踏み込むこともなく、
ただ小さく微笑んで静かに帰っていった。
残された静寂。ユ
キは誰もいなくなったレジ裏へ少し下がり、深く、長い息を吐き出した。
優しい。
人間からそんな風に肯定されたのは、いつ以来だろう。
大抵の人間は「獣人は五感が鋭くて羨ましい」「便利で仕事が捗りそう」としか言わない。
だが、実際には全く違うのだ。
人間の感情が見えすぎる。
彼らの内面の苦しさが、分かりすぎてしまう。
悪意も、怒りも、恐怖も、孤独も、すべてが濃い匂いと音になって自分の中に流れ込んでくる。
だから時々、自分の心と他人の感情の境界線が分からなくなって、溺れそうになる。
外では、四月の終わりを告げる夜風が吹いていた。
静かな夜風。
遠くの幹線道路のほうで、かすかに救急車のサイレンが鳴り響いている。
街は今日も眠らない。
誰かが誰かを傷つけ、誰かが怯え、誰かが音もなく壊れそうになりながら、
それでも残酷なほど等しく、朝という終着点へ向かって動き続けている。
ユキはガラス窓の向こうの暗闇を、ぼんやりと見つめた。
もし、自分の感覚がもっと鈍かったら、人間と同じくらい不感症になれたなら、
もう少し楽に生きられたのだろうか。
そんなことを、夜を過ごすたびに考える。
けれど――もし本当に何も見えなくなってしまったら、
それはそれで、きっと恐ろしいことだ。
誰かの流している痛みに気付けなくなることが。
誰かが暗闇の中で静かに壊れていく匂いを、感じられなくなってしまうことが。
ユキは小さく目を閉じた。
店内では、冷蔵棚のモーター音だけが変わらず低く響き続けていた。
世界は相変わらず騒がしくて、少しだけ残酷だ。
その世界の全部を、ユキの二つの耳は今夜も静かに、ただ静かに聞き続けていた。




