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ユキと、見えない境界線  作者: しんぜつ
1章 私はきっと
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10/24

雨の日の匂い

朝からずっと降り続いている雨は、

夕方を過ぎても止む気配を見せなかった。


灰色の空はまるで重たい濡れ布みたいに街全体へ覆い被さり、

歩道も道路も建物の壁も、すべてが冷たい水気を含んだ鈍い色へと変わっている。


四月の終わり。


本来ならもう少し暖かくなっていてもおかしくない時期だったが、

この日の空気は妙に冷え切っていた。


コンビニへ入ってくる客達の肩は皆どこか縮こまり、濡れた傘から床へと落ちる水滴だけが、

静かな店内へ秒針のような細かい音を刻み続けている。


ユキはレジカウンターの内側で、濡れたタイルの床をモップで拭きながら、

小さく耳を揺らしていた。


雨の日は嫌いではない。

むしろ少しだけ落ち着く。


街全体の暴力的な雑音が、無数の雨粒へ吸われていくからだ。

車の走行音も、人間の喧騒も、遠くの街の鳴動も、全部が水の膜を一枚挟んだみたいに柔らかく、丸くなる。


それに、雨の日は人間の匂いも少しだけ薄まる。

人工的な香水や煙草の嫌な臭いより先に、濡れた衣服や湿った大気の匂いが勝つからだ。


だからユキは、深夜の雨を少しだけ好んでいた。


だが同時に、雨の日特有の、どうしても拭えない苦手なものもある。

濡れた人間の生々しい体温の匂い。

湿気を含んで濃縮されたストレス、苛立ち、疲労。


そういうドロドロとしたものは、水気によって逆に空気中へと滲み出しやすくなる。

人間の感情は、雨の日ほど鋭く、剥き出しになりやすい。


時刻は午後十一時半。


夜勤のシフトに入ってまだ二時間ほどだった。

レジ横の傘立てには、行き場を失った透明なビニール傘が何本も窮屈そうに刺さっている。


店内の空調は少し肌寒かった。

ユキは商品棚を整えながら、小さく息を吐く。


今日は低気圧のせいで、耳の奥がじわじわと重く、頭痛の予兆が続いていた。


これが獣人特有の過敏さによるものなのか、

それとも単純に自身の体質なのかは分からない。


ただ、防壁が薄くなって遠くの音まで拾い過ぎてしまうのだ。

窓を叩く雨粒の鋭い音。

排水溝を流れる濁った水音。

客が傘を畳む時の濡れた布の擦れる音。


その全部が、容赦なく鼓膜の内側へと入り込み続けていた。


自動ドアが開いた。

滑り込んでくる、冷たい夜風。


同時に、濃い雨の匂いが一気に店内に流れ込んでくる。

ユキは反射的に顔を上げた。


入ってきたのは、小学生くらいのごく小さな女の子だった。

黄色いレインコートを羽織り、小さな長靴を履いて、手には真っ赤な折りたたみ傘を握りしめている。


だが、ユキが何よりも奇異に感じたのは、こんな時間、

こんな悪天候の中で、その子が「たった一人」だということだった。


女の子は入口近くで傘を小さく閉じた。

ぽたぽたと、丸い水滴が床へ落ちて広がる。

ユキの鼻腔が、その子が纏う気配を捉えた。


(――泣いた後の匂いだ)


女の子は俯いたまま、小さな足取りでお菓子売り場の方へと歩いていく。

歩幅が小さく、足音も弱々しい。

世界に怯えているような、

圧倒的な不安の匂い。


ユキは自然と、その背中を目で追ってしまっていた。


女の子はしばらくの間、カラフルなパッケージが並ぶ棚の前で立ち尽くしていたが、

やがて百円程度の小さなチョコレート菓子を一つだけ、両手で大切そうに持ってレジへ歩いてきた。


距離が縮まる。

その瞬間、ユキの尻尾が衣服の裏で小さく揺れた。


怖がっている。


心臓が早鐘のように脈打つ音が、ユキの耳にまで届きそうだった。


女の子はレジカウンターへお菓子をそっと置きながら、

消え入るような声で言った。


「……これ、おねがいします」


声が微かに震えていた。


ユキはなるべく自分のトゲを隠すように、

低く、優しく聞こえる声で応じる。


「……はい。百十円です」


だが、女の子は小さな財布を開けたまま、凍りついたように動かなくなってしまった。

ユキの鋭い夜目が見つめる。

小銭入れの中には、十円玉が数枚あるだけだった。


その瞬間、女の子から発せられる匂いがさらに不安定なものへと跳ね上がった。

焦り、恐怖、そして子供ながらの強烈な恥ずかしさ。


ユキは一瞬、激しく戸惑った。マニュアルでは、店員が勝手に商品を値引きしたり、

身銭を切ったりすることは固く禁じられている。


だが、女の子の大きな瞳には、今にも決壊しそうな涙が溜まっていた。


「……ごめんなさい」


女の子が諦めてお菓子を引っ込めようとした、その時だった。


ユキの耳が、背後から近づく重い足音を捉えた。

並んでいた中年男性の客だった。

くたびれたスーツ姿に、濡れた大きな傘。


全身から社会人の疲労を漂わせたその男は、

レジの状況を鋭く一瞥すると、小さく煩わしそうな溜息を吐いた。


そして、ポケットから百円玉を一枚指先で弾くようにして、カウンターへ置いた。


「ほら。それで足りるだろ」


女の子が驚いて目を丸くする。

男は面倒くさそうに顔を背け、ぶっきらぼうな声で言った。


「早くそれ持って家帰れ。風邪引くぞ」


ぶっきらぼうで、お世辞にも優しいとは言えない響きだった。

けれど、そこには一切の悪意も、見返りを求める下心もない。

ただの、不器用な大人の善意だった。


女の子は何度も、小さな頭をペコペコと下げた。


「……ありがとうございます。ありがとうございます」


ユキは迅速に会計を済ませ、商品を小さな袋へと入れた。

手渡す際、触れた女の子の指先は、芯まで冷え切っていた。

かなり長い間、雨の中を歩いていたのだろう。


ユキは堪えきれず、小さな声で尋ねた。


「……お家、近いですか」


女の子は一瞬だけ口を噤んだ。

それから、小さく縦に首を振った。

だが――彼女の発した匂いは、明確な「嘘」を孕んでいた。


拒絶。


帰りたくないという、深い拒絶の匂い。


ユキの胸が、ざわりと騒いだ。

後ろにいた中年男性も、獣人のような鋭い五感は持たずとも、

大人の直感で彼女の異変に気付いたのか、低く眉を寄せた。


「ボウズ、親はどこにいるんだ?」


女の子は答えない。

重苦しい沈黙。

ただ、ガラス窓を叩く雨音だけが、店内の静寂へ虚しく響き渡る。


その時だった。

自動ドアが、壊れるのではないかと思うほどの勢いで開いた。

吹き込んでくる強い雨風。そして、空間を切り裂くような女性の鋭い叫び声。


「――いたっ!」


女の子の身体が、ビクリと硬直した。


入ってきたのは、三十代半ばほどの女性だった。

髪は雨で顔に張り付き、肩で激しく息を切らしている。


だが、ユキの耳が何よりも敏感に拾い上げたのは、

その声の奥にある、狂わんばかりの苛立ちと焦燥だった。


女性は一直線に女の子へ駆け寄り、その細い肩を掴んだ。


「何やってんの、あんたは!」


響き渡る怒鳴り声。店

内の空気が一瞬で張り詰める。


女の子は亀のように身を縮こまらせた。

ユキの尻尾も、恐怖の記憶でキュッと強張る。


「勝手にお家を出て行かないでって、何回言ったら分かるの!?」


その烈火のような声。

けれど、ユキの鼻は、その怒りの裏側に隠された別の成分を嗅ぎ取っていた。


それは、怒りなどではなかった。


凄まじいまでの焦燥、パニック、そして「娘を失うかもしれない」という極限の恐怖の匂いだ。

彼女はなりふり構わず、必死にこの雨の中を探し回っていたのだ。


女の子は泣きじゃくりながら、小さな声で絞り出した。


「……ごめんなさい、ごめんなさい……」


女性はさらに言葉を荒げようとして、そこで初めて、周囲の冷ややかな視線に気付いた。

眉をひそめる中年男性、そしてレジ裏で耳を伏せているユキの存在。


女性はハッと我に返ったように口を閉じ、

大きく息を吐きながら、震える手で自身の額を覆った。


酷く疲弊した匂いだった。

育児。

生活。

仕事。


――何かに限界まで押し潰され、

擦り切れてしまっている人間の匂い。


沈黙の中、女の子が母親の服の裾を弱々しく引っ張りながら、

ぽつりと言った。


「……お腹、すいちゃって」


その瞬間、女性の纏う空気が、ガラスが割れるように脆く崩壊した。

刺々しい怒りの匂いは一瞬で霧散し、代わりに、どろりとした強烈な「罪悪感」と自責の匂いへと変わる。


女性は力の抜けたようにその場にしゃがみ込み、小さな娘の身体をきつく抱きしめた。


「……ごめんね。ごめんね、気付かなくて……」


その声は、さっきの怒鳴り声とは比べものにならないほど、弱く、震えていた。


ユキは黙ったまま、レジカウンターの前に立ち尽くしていた。

こういう瞬間が、本当に苦手だった。


ただの「嫌な奴」「暴力的な人間」として片付けられれば楽なのに、

五感がその裏側にある真実を見せてしまうからだ。


人間は時々、余裕を失う。

貧困。

孤独。

仕事の重圧。

ままならない現実。


色んなものに押し潰されて、一番大切なはずの誰かへ、牙を剥いてしまうことがある。

けれど、その凶暴な怒りの奥底には、大抵の場合、別の引き裂かれそうな感情が隠れているのだ。


恐怖。

不安。

そして自分への激しい嫌悪。


それが見えてしまうから、ユキは人間を単純に嫌いになることができなかった。


女性は立ち上がり、涙を拭いながらユキ達へ小さく頭を下げた。


「すみません……お騒がせして、ご迷惑をおかけしました」


中年男性客は「別に」とだけ短く無愛想に返し、

自分の缶コーヒーを持ってそのまま店を出て行った。


女の子は、母親の服を小さな指できつく掴んでいた。

まだ少し震えている。


女性はレジのホットケースへと目を向け、掠れた声で追加を頼んだ。


「……すみません、その肉まんを一つ、ください」


「……はい」


ユキは無言で、けれど丁寧に温かい肉まんを袋に包み、会計を済ませた。

商品を渡す時、袋を受け取った女の子が、

涙で濡れた睫毛の奥からユキを見上げ、小さく呟いた。


「おねえちゃん。お耳、ふわふわで、とってもきれい」


ユキは少しだけ意表を突かれ、目を丸くした。

女の子の匂いは、先ほどまでの恐怖が嘘のように、

母親の体温に守られてすっかり落ち着きを取り戻していた。


母親も一瞬驚いたように目を見張ったが、すぐに申し訳なさそうに小さく頭を下げた。


「すみません、この子、獣人さんを近くで見るのが初めてで……おねえさんを困らせちゃダメよ」


「……いえ。大丈夫です」


女の子は温かい肉まんの袋を胸に抱えながら、ユキに向けて、本当に小さく、はにかむように笑った。

その曇りのない笑顔を見た瞬間、ユキの尻尾が、制服の裾の裏でほんの少しだけ、嬉しそうに揺れた。


二人は一つの相合い傘に入り、冷たい雨の中へと帰っていった。

透明な傘、小さな黄色いレインコート。

寄り添い、並んだ二つの背中。


自動ドアが閉まる。

静寂。


店内には再び、ただの雨音だけが残された。


ユキはガラス窓の向こうの暗闇を、ぼんやりと見つめ続けた。


雨の日の街は、人間の感情が滲み出しやすい。

剥き出しの怒りも、引き裂かれそうな悲しみも、不器用な優しさも。


全部が水へ溶けるみたいに、この夜へ広がっていく。

だから時々、受け止めきれなくて苦しくなる。


けれど――今日みたいに、激しい雨の果てに、

最後に少しだけ温かい温度が残る夜もあるのだ。


ユキは小さく耳を震わせると、誰もいないレジの奥から、温かい缶コーヒーを一本取り出した。

アルミ缶の心地よい熱が、冷え切っていた掌へとじんわりと伝わってくる。


外では、まだ冷たい春の雨が降り続いていた。

街は濡れたまま静かに深い夜を抱え込み、その暗闇の中で人間達は今日も、

傷つけ合い、悔やみながら、それでも不器用に誰かを愛して生き続けている。


その世界の全部を、ユキの二つの耳は今夜も静かに、ただ愛おしそうに、聞き続けていた。

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