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ユキと、見えない境界線  作者: しんぜつ
1章 私はきっと
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19/24

夏の匂い

六月に入ってから、早くも数日が過ぎ去っていた。


春と夏の境界線というものは意外なほどに曖昧で、

ある日突然劇的に景色が変わるわけでもなければ、

世界の誰かが「今日から夏になりました」と

公式に宣言してくれるわけでもない。


人々は日常のせわちな流れの中で、自分でも気付かないうちに、

少しずつ、けれど確実に季節の移り変わりを

受け入れながら生活を続けているのだ。


しかし、ユキだけは世間の人々とは少し違っていた。

狐のルーツを持つ獣人の彼女にとって、

季節の到来とは目で見るものでもなく、

天気予報の気象予報士の声で聞くものでもなかった。


それは、まず何よりも先に「匂い」で感じるものだった。


朝の風が運んでくる湿った空気の匂い。

昼間の太陽に熱せられたコンクリートや土の匂い。

生命力を増していく瑞々しい草木の匂い。

そして、薄着になってすれ違う街の人々の匂い。


それらの情報が少しずつ、けれど確実に変化していき、

気付けば春特有のあの柔らかで穏やかな香りはすっかり薄れ始めていた。


代わりに、じっとりとした湿気を含んだ、

どこか重たく濃密な空気が街全体を包み込むようになっていく。


(……夏が、すぐそこまで来ているんだな)


その確かな自然の営みを、

ユキは毎日のように敏感に肌と鼻とで感じ取っていた。

その日の夜も、深夜のコンビニの夜勤シフトはいつも通りに始まった。


午後十時五十分。


バックヤードの姿見の前で、

いつものようにキャスケット帽の位置を調整し、

緑色の制服へと着替えたユキは、

そのまま自動ドアの向こうの店内へと足を踏み出した。


天井の白い蛍光灯の、どこか無機質な光。

ドリンクを冷やし続ける冷蔵棚の、低く一定な駆動音。

整然と商品が並べられた、見慣れた棚の景色。


ここで働き始めてもう何ヶ月も経つため、

最初の頃に毎晩のように胸を締め付けていた張り詰めた緊張感は、

今ではほとんど綺麗に消え去っていた。


それでも、


やはり深夜のワンマン勤務というものは嫌いではなかった。

圧倒的に人間が少ない。

静かだ。

何より、昼間の街のような耳を聾するほどの騒がしさがない。


自分の過敏な耳が余計な感情のノイズで疲れにくい。

ユキは誰もいないレジカウンターへと立ち、

マスクの裏側で小さく安堵の息を吐き出した。


少し手隙の時間が訪れると、ユキの意識は自然と、

数日前のあの朝の出来事へと向かっていく。


奥の老人の部屋。

あの小さくて無鉄砲な灰色のぶち。

そして――「ハル」という名前が決まった、あの穏やかな朝のこと。


不思議なものだった。


あの日を境に、あの偏屈で不器用な老人も、

ごく自然に彼女のことを「ハル」と名前で呼ぶようになったのだ。


最初はどこか口の形が照れくさそうに歪んでいたけれど、

今ではもう何年もそう呼んできたかのように、

当たり前の呼び名として部屋の中に響いている。


名前が付いた、ただそれだけのことなのに。


それだけで、あの子猫という存在が、自分たちの心にもっと深く、

ぐっと近いところへと引き寄せられたような気がするのだ。


きっと、それは人間同士の関わり合いでも同じことなのだろう。

誰かの名前を新しく知り、それを声に出して呼び、記憶に刻む。


ただそれだけのステップを踏むだけで、

ほんの数日前までは完全な「他人」でしかなかった相手が、

どうしようもないほどに「少しだけ特別な存在」へと姿を変えてしまう。


ユキはそんな、今まで考えもしなかった哲学的な思考に耽りながら、

手際よく棚の商品のフェイスアップを続けていた。


深夜一時。


客足はすっかり凪のように落ち着いていた。

ガラス窓の向こうの道路にも人影はなく、

店内を完全な静寂が満たしていく。


だが、その張り詰めた静けさの中で、

ユキの白い耳が帽子の奥でぴくりと小さく動いた。


チリーン、という電子音と共に滑らかに開く自動ドア。

トツ、トツ、という、どこか力の抜けた不規則な足音。

入ってきたのは、一人の若い女性だった。


二十代前半くらいだろうか。オフィス街の戦いから帰ってきたばかりなのか、

その表情は絵に描いたように疲れ果てており、綺麗にメイクされた目元には、

薄く、けれど確かな睡眠不足の隈が刻まれていた。


女性は重たい足取りで惣菜コーナーへと向かい、

棚から適当なお弁当を一つ手に取り、お茶のペットボトルを選ぶと、

そのままふらふらとレジへとやって来た。


「……お願いします」


蚊の鳴くような、掠れた小さな声だった。


ユキは何も言わず、ただ手際よくバーコードをスキャンし、

会計の処理を進めていく。


いつもなら、それで終わりのはずの、深夜のありふれたやり取り。


しかし、その女性客はお釣りとレジ袋を受け取り、

財布を鞄にしまった後も、なぜかその場から動こうとしなかった。


何か、心の底に溜まった澱を吐き出したいような、

複雑な顔をしてカウンターを見つめている。


ユキは決して、次の作業に移って彼女を急かすような真似はしなかった。

ただ、じっと黙って、彼女が言葉を紡ぐのを待った。

すると、女性客は深く項垂れるようにして、ぽつりと小さく呟いたのだ。


「……はぁ、本当に疲れたなぁ……」


それは、店員であるユキに向けられた言葉というよりは、

限界を迎えた心が勝手に溢れ出させてしまった、独り言に近い呟きだった。


だが、その声に含まれた本物の疲労の匂いを、

ユキははっきりと嗅ぎ取っていた。


女性はハッと我に返ったように顔を上げ、

慌てて取り繕うような不器用な愛想笑いを浮かべる。


「あ、すみません! 変なこと言って」


「……いえ。大丈夫ですよ。お疲れ様です」


マスク越しに、ユキはできるだけ柔らかく目元を緩めてそう返した。

本当に、それだけの短い、他愛もない応酬。


だが、女性客はそれだけで、胸の奥の重荷をほんの少しだけ

誰かに分けてもらえたような、ひどく安心したような顔をしたのだった。


「ありがとうございます」と今度は本物の小さな笑顔を見せると、

彼女は夜の街へとゆっくりと帰っていく。


自動ドアが閉まり、再びコンビニの中に静寂が戻る。

ユキはレジカウンターに手をつき、

ガラス窓の向こうの暗い街並みを見つめた。


(人間って、本当に大変だな……)


もちろん、獣人として生きる自分だってそれなりに大変なことは多い。

けれど、きっとこの世界で「生きる」ということそのものが、

誰にとっても根源的に大変なことなのだろう。


毎日の仕事。

学校。

ややこしい人間関係。

見えない将来の不安。


悩みや苦しみなんて、生きている限り尽きることがない。

それでも皆、ボロボロになりながらも、心底疲れ果てながらも、

不器用に迷いながらも、細い足で前へ前へと進んでいるのだ。


深夜三時。


空にはいつの間にか、ちぎれたような低い雲が一面に広がっていた。

過敏な鼻が、湿った「雨の匂い」を敏感に捉える。

まだ、地上には一滴も落ちてきてはいない。

だが、もうすぐそこまで雨雲が迫っていることを、

ユキは誰よりも早く確信していた。


人間よりもほんの少しだけ早く世界の異変を察知できるのは、

この少しだけ大きな耳と鼻のおかげだ。


今頃、あのアパートの部屋では、

ハルが小さな身体を丸めて泥のように眠っているだろうか。

老人もまた、布団の中で静かに寝息を立てているはずだ。


……いや、どうだろう。


ユキはふと、昨夜の老人の愚痴を思い出して、

マスクの裏で小さく吹き出してしまった。


最近のハルは、驚くほどに活発で、

老人は毎朝のように彼女に起こされているらしい。


お気に入りのレースのカーテンへ爪を立ててよじ登る。

本棚のてっぺんまで軽々とジャンプする。

じいさんの大切な古い本を容赦なく床へ叩き落とす。

朝一番の新聞紙を、楽しげにガサガサと部屋中に散らかす。


名前に「春」の温もりをもらったからといって、

中身が急にお淑やかになるわけでは決してないらしい。

むしろ、日に日にその小さな野生のエネルギーは増大し、

活発さを極めている。


静まり返った店内の真ん中で、

ユキは誰も見ていないことをいいことに、声を忍ばせてクスクスと笑った。

誰も見ていない深夜だからこそ、

これくらい無防備に感情を緩めてもバチは当たらないだろう。


その時だった。

ポツ、とガラス窓の外側へ、何かが微かに当たる音が響いた。


雨だった。

最初の一滴。

そして二滴、三滴。


やがてその音は急速に数を増やし、

無機質なアスファルトを静かに濡らし始めていく。


予想通りの、静かな雨の到来だった。

街灯のオレンジ色の光に照らされた雨粒たちが、

まるで夜空から降ってくる小さな光の粒のように、白く美しく輝いている。


六月の雨。

いよいよ本格的な、梅雨の始まりを告げる雨。


ユキは窓越しに、その均一な雨のカーテンを見つめていた。

昔から、雨という天気は決して嫌いではなかった。

世界が静かになるから。


すべての音が、雨音という一つの大きな傘によって均一に均されていくから。

この騒がしい世界が放つ、無数の刺々しい感情の騒音を、

雨が優しく消し去ってくれるような気がするからだ。


子供の頃の自分は、雨の日が何よりも救いだった。

雨の音が激しければ激しいほど、

自分の耳に飛び込んでくる周囲の人間の心無い声が聞こえにくくなる。


自分に向けられた悪口も、陰口も、噂話も、嘲笑混じりの笑い声も。

全部、全部が遠い世界の出来事のように、雨の向こうへと掻き消えていく。

だからこそ、あの冷たい水の壁の向こう側だけが、

自分の唯一の安心できるシェルターだった。


だが――今は、昔とは少しだけ違う。


今の自分は、昔ほど「雨の静寂」へと

必死に逃げ込もうとはしていないことに気付く。

それはきっと、この街へ流れてきてから、ほんの少しだけ、

人と関わるということが怖くなくなったからなのだろう。


朝の六時。


長かった夜勤のシフトが、無事に終わりを迎えた。

コンビニの自動ドアから外へ出ると、夜明け前の薄明かりの中、

雨はまだ変わらない強さでしとしとと降り続いていた。


ユキはいつものビニール傘をパッと開く。

湿った、どこか温い風が、夜勤明けの火照った頬を優しく撫でていった。


街はまだ、半分眠りの中にあった。

けれど、駅へと向かう通勤の人々の姿が、

少しずつ、ぽつりぽつりと増え始めている。


仕込みを始めるパン屋の、香ばしい小麦の匂い。

カブの荷台に新聞を積んで走る、新聞配達のエンジン音。

足早に駅へと向かう、傘を差した会社員たち。


皆、それぞれの一日が始まり、自分の朝を一生懸命に生きている。


ユキは傘を傾けながら、いつものアパートへと向かった。


古びたコンクリートの階段を一段ずつ上り、二階へと進む。

通路の突き当たりにある、老人の部屋の前に立ち、

その鉄の扉をトントン、と三回ノックした。


数秒の空白の後、ガチャリと鍵が開く音がして、扉が内側へと引かれた。

そこに立っていたのは、案の定、

いつもの灰色のカーディガンを羽織った老人だった。


けれど、その白髪はいつもより少しだけ乱れており、

眼鏡の奥の目は絵に描いたように眠そうだ。


「……じいさん、起きてたんですね」


「起こされたんだ、不本意ながらな」


老人は、こちらの質問に食い気味に即答した。

すると、その老人の足元の影、薄暗い部屋の奥から、

それを証明するような鋭い声が響き渡った。


「みゃーーお!」


鼓膜を心地よく震わせる、驚くほど元気な高音。

ユキは思わず、その場で見事に吹き出してしまった。

老人は「やれやれ」と、骨ばった手で顔を覆いながら深い溜息を吐き出す。


「朝の五時から、あいつは部屋中を縦横無尽に暴れ回っている。

年寄りの睡眠時間を何だと思っているんだ」


「ふふ、本当に元気ですね、ハルは」


「……元気すぎる。私のカーディガンが爪でボロボロだ」


ユキは老人に促されるまま、

靴を脱いで静かに部屋へと足を踏み入れた。


するとその瞬間に、灰色の小さな塊が、

猛烈な突進速度でユキの足元へと滑り込んできた。


出会ったあの雨の夜に比べれば、

その身体は驚くほど一回りも二回りも大きくなっており、

泥に汚れていた毛並みはふんわりと綺麗な光沢を放っている。

黄色い瞳には、溢れんばかりの生命の輝きが宿っていた。


そして何より――彼女は今、どうしようもないほどに「幸せそう」だった。


ハルはユキのジーンズの裾にガシッと飛び付くと、

今度はユキの後ろでフリフリと揺れる白い狐の尻尾へと、

爛々とした目を向けた。


それをどうにかして捕まえようと、

短い後ろ足で立ち上がり、小さな前足を必死に伸ばす。


案の定、目測を誤って畳の上をごろりと無様に一回転。

それでも全く気にしていない様子でむくりと立ち上がると、

再び果敢にユキの尻尾に向かって再挑戦の体制を整えていた。


(本当に……何度見ても飽きないな……)


ユキは屈み込み、その小さな奮闘を優しい目で見つめ続けた。

老人もまた、文句を言いながらも、

その目元には隠しきれない優しい光を湛えて、ハ

ルの姿をじっと見つめている。


部屋の中に漂う空気の匂いは、驚くほど穏やかで、温かい。


この部屋は、本当に変わった。

以前のユキが知っているこの場所は、もっと静かで、

時計の秒針の音だけが重たく響く、

どこか寂しい余生のための空間だった。


けれど、今は違う。


ハルがドタバタと畳を叩く足音がある。

不満そうな、あるいは甘えるような鳴き声がある。

老人のぶっきらぼうな話し声と、ユキの笑い声がある。


それらすべての「生活の雑音」が混ざり合い、

この部屋に確かな生命の温かさを生み出しているのだ。

ユキはふと、窓の外に目をやった。

ガラスの向こうでは、六月の静かな雨が今もしとしとと降り続いている。


湿った空気、夏の瑞々しい匂い。


季節は、こうして変わっていく。

そして、その季節の中で生きる自分たちもまた、

少しずつ、変わっていくのだ。


昔の、孤独の殻に閉じこもっていた頃の自分なら、

到底想像すらできなかっただろう。


朝を終えた自分が、誰かの部屋の畳の上に座って、

こんな風に心から笑っている姿なんて。

誰かの愛おしい名前を、

大切な祈りを込めて声に出して呼んでいる自分の姿なんて。


そして――この世界の片隅に、自分の「居場所」だと心から思える、

温かい場所を持っている自分の姿なんて。


ハルが再び、尻尾の捕獲に失敗して畳の上をごろりと転がった。

老人は「やれやれ」と呆れたように肩をすくめ、

ユキは再び声を立てて笑った。


静かに響き続ける、六月の雨音。


その心地よい均一なリズムを聞きながら、

ユキは心の底から、静かに、強く願っていた。


(……こういう日々が、これから先も、ずっと続いてくれればいいな)


世界を変えるような劇的な出来事なんて、ここには何一ついらない。

物語の主人公のような、大きなドラマだって必要ない。

ただ、この偏屈で優しい老人がいて。

この無鉄砲で愛くるしいハルがいて。

そして、白い耳を持つ自分がいて。

こうして、同じ雨の朝を、同じ部屋で迎えることができる。


ただ、それだけで。それだけで、

自分の人生はもう、十分に満たされているのだから。


四角い窓の向こうでは、初夏の匂いをいっぱいに孕んだ雨が、

静かに、優しく降り続いていた。


そして、雨のカーテンに守られたこの小さな部屋の中で、

ユキたちのありふれた日常もまた、新しい季節の光に向かって、

静かに、一歩ずつ前へと進み始めているのだった。

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